放浪の王子 番外編2 「侍従長のおつとめ」
アルダーナ王国、王都ラグート――
小高い丘の上から王都一帯を見渡す王宮に、朝の光が射そうとしていた。
王宮の朝はそれなりに早い。
といっても従者たちは交代で夜昼なく働いているから、早い遅いという感覚はあまりないのかもしれない。
王宮では、執務の時間にあわせて国王の起床時間が決まる。起床時間が決まれば、王宮内のすべての日課がそれにあわせて動いていくし、侍従は人員をやりくりして王の身の回りの世話をするのである。
即位したばかりの新しい王アルクマルトは、いたって真面目な性格であった。代々の王の中には、朝の閣議を臣下に任せてしまう者も多かったようだが、この若い国王はとくに体調が悪くないかぎり、かならず顔を出していた。
ということは閣議の開始時間までに朝食や身支度を済ませるということであり、王の起床時間もそれなりに早くなる。
王宮で王族の身のまわりの世話をする男の従者は、侍従と小姓だ。
その侍従たちをまとめ、王のいちばん近くに侍る存在が侍従長である。侍従長は儀式やしきたりおよび作法についても精通しており、国王でもときとして教えを請うことがあった。
いま王宮の侍従長は、何十年も侍従を務めてきたオルグレンである。日常の主な職務は、夕食から朝食時までの王の身の回りの世話を取り仕切ることであり、寝室の不寝番もそのひとつであった。
国王の寝室では、かならず侍従がすぐ横にある控えの間にいる決まりである。扉はなく音も声もすべて聞こえるが、王の身になにかあった場合にすぐ駆け付けられるようになっているのだ。
これが後宮であれば寝室の不寝番は女官が務める。後宮は基本的に男子は限られた者しか入れず、従者もほとんどが女官になるのだ。
だが王がかつて兄ローディオスによって後宮に幽閉されていたとき、オルグレンと力持ちのカラムの二人は、ローディオスの特別な計らいで後宮に出入りしアルクマルトの世話をしたのである。
アルクマルトが姫君であれば女官がついたのだろうが、彼は王子であった。年頃の王子に女官を近づけて万一の過ちがあってはいけないと王が危惧したのもひとつある。だが侍従をおいた一番大きな理由は、アルクマルトの警護のためであった。
叔父であるセダス公に命を狙われていたアルクマルトに、刺客が近寄らないよう、またいざというときは彼の身を護れるように、男の従者が必要だったのだ。
「陛下。……そろそろご起床のお時間にございます」
そっと耳元で声をかけると、アルクマルトがゆっくりと目をあけた。
「……」
「陛下のおめざめである! 皆のもの、用意を!」
「ははっ」
侍従長のかけ声に、控えていた侍従たちがいっせいに散らばっていく。あるものは朝食の準備を厨房に知らせに、あるものは身支度をするための湯の用意に、あるものは朝の閣議に着る衣装を用意するために、といったぐあいだ。
まだ春とはいえないこの季節の朝の冷え込みはかなりのものだったが、暖炉があるこの部屋は、薪をくべればすぐにあたたかくなる。
そっと寝台から身体をおこした王は、ふと自分のよこのあたりを見て、すこし目をふせた。
ゆうべはそこに近衛隊長のエリアスがいた。彼は王に求められてその身体を抱き、夜が明ける前にそっと去っていったのである。
侍従たちは知っていることだから、王が目覚めるまで寝台で過ごしてもかまわないだろうに、エリアスはそれを固辞し、いつも人目につかないよう自分の宿舎へと帰っていった。
彼の考えはわかるし心がけは立派であるとオルグレンはいつも感心する。だが目覚めてどこか落胆したような王の様子を見れば、たまには朝までともに――と思うのもたしかだ。
王子のころ、兄王に毎夜のように抱かれていたアルクマルトのことを知っているから、いま近衛兵のエリアスとそういう関係にあることを知っても、オルグレンはさほど驚かなかった。
そもそも誰と誰が肉体関係にあるとかないとか、気にしていては侍従は務まらない。王族の身のまわりの世話とは、すなわちそういった性愛に関することもぜんぶ、務めであると受けながすことが求められるのだ。
オルグレンも侍従としての務めは長い。アルクマルト王の父親ムートが即位するまえから、さまざまなことを見聞きしてきた。
ともに不寝番をする侍従はまだ慣れていないのもあって、情事のとき王があげる声を聞いて興奮し息が荒くなる者もいた。彼らもいずれは慣れていくだろう——と思う。
浴槽が運ばれてきて、そこに湯がそそがれた。本格的な湯浴みではないが、王の体をかるく洗いきよめるためだ。
「……」
王のかすかなためいきが聞こえたが、オルグレンは聞こえないふりをした。
いちいち仰々しいからと、さいしょのころ王アルクマルトは朝にまで湯浴みすることに難色をしめした。だがエリアスが丁寧に後始末をしたにせよ、やはり情事の跡が残ってしまう。それでエリアスと交わったあとは、しぶしぶ湯浴みをするようになった。
髪を小姓にまとめさせて王は寝台からおり、夜衣をぬぎ肌着をさらりとはらいおとした。服をぬぐときは子供のころから思い切りがいい。
オルグレンは布を手に、湯につかった王の身体をていねいにこすっていく。王の胸もとや脇腹などに赤いちいさな痣がいくつかあった。肌が白いだけにやけに目立つし、どこか扇情的だった。これを若い従者にはあまり見せたくないので、王の身体はいつもオルグレン自ら洗うことにしていた。
「……もう、いいだろう?」
「はい。ようございます」
やや困ったような表情で、王はオルグレンに言った。国王になったというのに、こういうところはおさない王子のころと変わらない。
湯からあがった王の濡れた身体を侍従ふたりが囲んですばやくきれいに水滴をぬぐいとる。それから王は新しい肌着を身につけ、白い長衣を着た。
洗面器に用意されたぬるま湯で顔をあらい終えると、小姓が声をかけた。
「陛下、御髪を」
うなずいて王は寝台から離れ、ゆったりとした椅子にこしかける。
王が小姓に髪をととのえさせているあいだ、侍医のエレディスがやってきた。
すこし会話をかわしながら、エレディスは念入りに王の顔色や脈を診ていた。
国王は、アルダーナ国にとっていちばん大事な存在である。いまアルクマルト王はまだ十九という若さだが、それでも侍医や侍従が体調を日々管理していくことは疎かにしてはいけないことだった。今日はとくに体調の変化に気をつけるように、侍医には伝えてある。
侍医が退出すると、オルグレンは髪をうしろですっきりと三つ編みにした王に話しかけた。
「……よい朝でございますね」
淹れたての茶を手渡すと、アルクマルトはそっと微笑んで答えた。
「ああ。ここのところ寒さもかなりやわらいできたな」
情事のあとの王はどこか表情がやわらかく、それでいて妙な色気がある。さすがにこの微笑みを見せられると、オルグレンもすこし戸惑ってしまう。
身支度を終えると、寝室のとなりの居間に朝食が運ばれてきた。
豆と干し野菜を煮込んだあたたかなスープと、ライ麦のパン、ゆでたまごに新鮮なチーズ、蜂蜜づけにした木いちごといった、どちらかといえば質素なものである。
料理長はもっと滋養のある肉や魚をアルクマルトに食べさせたがったが、朝はそこまでは欲しくないと言われてかなり落胆していた。そのかわり昼食には品数は少なめでも、一品ずつがしっかりした食べごたえのある料理を出している。夜は家臣たちをもてなす晩餐会が一日おきにあって料理の数は多いのだが、肝心の国王本人はあまり料理に手をださずに前菜だけで満足しているようなので、やはりここでも料理長はがっかりしているだろう。
そんな料理長にくらべれば、間近で王に礼を言われ微笑まれる自分には役得が多いことをオルグレンは否定しない。
食事を終えれば、いよいよ国王としての務めの時間となる。
「陛下、剣をおもちください」
「ああ」
王は手渡された神剣ハーラトゥールを腰に帯びた。そして臙脂色の生地に金糸の縁取りを刺繍したマントをはおると、自室を出た。
公務のときも王の出で立ちは質素である。もっと華やかな衣装も金や銀それに宝石をあしらって作られた装身具もあるのだが、公式の行事以外のときはあまり身につけない。だが国王本人に身を飾るものを必要としないほど華があると思うのは、侍従長の欲目だろうか。
王宮のなかでは王がひとりで出歩くことはない。付きしたがう若い侍従や迎えに来た家臣、そして護衛の近衛兵とともに、重々しい石造りの廊下を歩いて行く。
その後ろ姿を見送りながら、侍従長オルグレンはほっと胸をなでおろす。今日も無事に朝が迎えられたことに。
王の日々を護ることこそ、国を護ることでもあると、彼はそう自負している。心おきなく国を治めてもらうために自分たちは心を砕くのだと。