放浪の王子 第5章 -2-

 ふたりはそのまま山道を進んでいく。さすがに街道とちがってすれ違う旅人にはお目にかかれなかった。
 峠の手前に小さな小屋があった。山越えの旅人のためにもうけられた小屋だが、利用者はあまりいないためさびれがちである。だが雨風をしのぐには充分だった。
 小屋の脇には雨水をためた浅い井戸のようなものもある。
「申しわけありませんが、今夜はこちらで……」
「わかった」
 馬たちを小屋わきの枯れ木につなぎ、積んでいた干し草を地面のうえに盛り上げてやる。体をマッサージするようにブラシをかかけてやったり塩をなめさせたりとひととおり世話をしたあと、エリアスはアルクマルトとともに小屋に入った。
 石組みの小さな暖炉のようなものがあり、木と石でできた寝台らしきものも二三あった。
「いま食事の用意をいたしますので……」
「ああ」
 食事といっても、充分な煮炊きができる用意はない。火をおこして茶を沸かすくらいで、あとはふもとのレベトの町で買ってきた小麦と蜂蜜を練って焼いた菓子を食べるくらいだった。
 暖炉にはわずかではあるが、以前にだれかが使った薪の燃え残りが残っていた。馬の食料をすこし拝借した干し草をつかい、火をつける。
 小さな鍋に水をいれて火にかけ湯が沸くのを待ちながらふりかえると、アルクマルトは寝台のうえに横になっていた。
 疲れてぐったりという感じだったが、風邪気味だっただけに様子が気になった。
「殿下……?」
 かけよって手をにぎってみると、すこし震えている。
「……だい……じょうぶ。でもちょっと……さむい」
 とても大丈夫という状態ではない。
 朝ふもとの町を出るときは、やや風邪気味ではあったけれど、とくに変わった様子はなかったはずだ。
「みず……水をお飲みください」
 王子がわずかに体を起こしたので、水袋から水を飲ませた。
 寒気がするというなら、これから熱が出る。エリアスはねんのためアルクマルトにたずねた。
「もしかして……殿下、どこかお怪我とかはありませんか?」
「……ないと……おも……う」
 怪我が原因で熱が出ることもある。剣の稽古のときに、どこか木の枝や石ころで傷を作ったりはしていないだろうか。
「申しわけありませんが……失礼します」
 非常時なので仕方なく、エリアスはアルクマルトが着ている衣服を脱がせた。傷がないかあらためるためだ。
 腕や胴に打ち身というか青痣がいくつかあるものの、これは木の剣で打ち合ったりしたときのものだろう。
 体や足もあらためたが、目につく傷はなかった。だとしたら風邪なのだろうか。悪い流行り病ではないだろうか。
 急に高熱が出て命を落とす流行り病はいくつもある。そう考えるとエリアスの顔から血の気がひいていった。
 間の悪いことに、ここは山の中だ。ふもとのレベトの町でなら手当てする方法もあったろうに。
 もしくは山を越えてしまっていれば、砦そばの町に、小さいながらもエルフィード神殿があるというのに。
 ここまで無事に来れたのに、まさかここで王子を死なせるわけにはいかないのだ。
「どうした……んだろう……。さむくて……ちからが……はいらな……」
 脱がせた服を着せ、エリアスは自分のマントもアルクマルトに着せかけた。
 湯が沸いたので、とりあえず持っていた熱さましの薬草を鍋に放り込んだ。
 ただの風邪であってくれればいい。そう思う気持ちは、どこか祈りに近かった。
 火をそのままにしておきたいが、燃料があまりない。
 木の椀に入れた薬草茶を冷ましながら、エリアスはどうしたものか思案していた。
 もう日暮れで、こんな時間から山を下りるのはさらに危険であるし、馬たちにも休憩が必要だ。
 だがこの小屋で何日もとどまるわけにはいかない。そもそも水や食料がそれほどない。自分たちのぶんも、馬のぶんもだ。
 では夜が明けたら自分だけ馬に乗ってひきかえし、ふもとのレベトから必要な物資を運んでくるか。
 しかしそのあいだにアルクマルト王子に何かあったら……?
 気は焦り、考えだけが頭の中をぐるぐると回っている。
 エリアスは近衛に入るまえは、国境警備軍にいた。山賊や夜盗の取り締まりで、彼らと剣でやりあったこともある。
 その時ですら、これほど混乱したことはなかった。
「……殿下」
 あの青い目が自分を見ないことが、こんなに不安になるものだとは。
 アルクマルトは頭がぼうっとしているようで、なんとか応えようとするものの、体に力がはいらないらしかった。
 抱えあげて起こしてみても、ぐったりとエリアスにもたれかかったままだった。
 しばらくそのまま、マントごとアルクマルトを抱きしめていた。こうすればすこしはあたたかいだろうと思ってのことだ。
 アルダーナ軍の兵士として、また神殿の命をうけてからは傭兵として暮らしていたエリアスにとって、王子の体は細くて頼りなく思えた。
「殿下……これを……お飲みください」
「……すまない」
 薬草茶が冷めてきたところで飲ませようとするが、手に力が入らないらしく、椀をうまく持てそうにない。
(ええい、仕方がない)
 エリアスは迷っている場合ではないと判断した。
 ぐいとあおるように椀から茶を自分の口に含むと、そのままアルクマルトに口移しをする。
 アルクマルトの喉が動いて嚥下したのを確認すると、残りをなんどかそうやって同じように口移しした。
 飲み終わるなり、アルクマルトはまたぐったりとエリアスに寄りかかってきた。
「まだ……寒いですか?」
「さむいけど……だいじょうぶ……」
 大丈夫ではないだろうが、こちらを気遣う余裕はあるということだった。
 エリアスは二人分のマントを重ねて肩にかけると、そのままアルクマルトを寝台に横たえ、抱きかかえるようにして自分たちをマントで包み込んだ。
「水がほしいときはおっしゃってください。いつでも……大丈夫です」
「……ありがとう……あたたかい」
 アルクマルトの手が、エリアスの手をにぎった。
 そのままアルクマルトはとろとろとまどろみ、眠りにおちていった。
 その眠りにおちるまぎわ、王子はかすかにつぶやいた。
「……あに……うえ……」
 せつないその言葉は、二人のあいだに吸い込まれるようにして消えた。
 暖炉に残っていた火が消え、空気がしんと冷たくなっても、エリアスはただ王子を抱きしめていた。

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