放浪の王子 第6章 -1-

 なんどか目覚め、汗をかいた体をきれいに拭き清められて着替えをし、ようやくアルクマルトがふつうに体を起こせるようになるまでそれからさらに一日かかった。
 町でいちばんの宿だけあって、部屋には身の回りの世話をする年輩の女性の小間使いがついていた。麻のシーツをなんどか取り替えたりふたりの着替えの洗濯を引き受けたり、食事を部屋まで運んできたりと、至れり尽くせりであった。
 だがエリアスはアルクマルトの世話だけは小間使いにも手は出させなかった。汗をかいた体をきれいに拭くことも、麦を牛乳で煮込んだ粥を食べさせるのも、ぜんぶエリアスがひとりでおこなった。
 アルクマルトもさすがに体を拭いてもらうことは気がひけたのだが、エリアスはそっと笑うだけだった。それが王宮で侍従にされていたことのように自然だったので、アルクマルトもしまいには安心して任せていた。
 それからさらに一日たって、ようやく動き回るのに差し支えない程度には回復した。流れの詩人をやっていたころよりも食べるものも寝るところも申しぶんない環境のためか、回復は早かった。
 エリアスが町の医者を呼び、アルクマルトの体を診させた。症状は軽くなったが病み上がりということもあり、まだあと最低でも三日は旅に出るなということだった。疲労と風邪が重なったので、いま無理をするとまたぶり返すという。
 三日のあいだこの高い宿に泊まるのはどうかと思って、アルクマルトは宿を移ろうと提案したが、エリアスは承知しなかった。
 安い宿は扉のつくりがそもそもしっかりとしておらず、周囲の部屋の音もよく聞こえるため、それが気になって眠れないこともあるからだ。
 いまはとにかくしっかりと眠って体力を回復させることを優先させたいということだろう。無理をしてまた旅を中断することになればかえって時間もかかることになる。

 アルクマルトが動けるようになってから、エリアスはわざわざ毎日部屋に浴槽と湯を運ばせた。水も冷たいこの季節に水浴びをすればまた体調を悪くすると心配してのことだった。
 部屋での湯浴みなどかなりの贅沢なので驚いたが、さすがにアルクマルトもだまって従った。
 明日にはいよいよ出発という日、アルクマルトは小さな浴槽に浸かりながら、ぼんやりとエリアスの背中を見ていた。
「エリアス」
「はい、殿下」
 背中を向けたままで返事が返ってきた。湯浴みのあいだまで、エリアスはそばについていた。
 用心するにしても、これでは気を張り詰めっぱなしで休まるひまもないだろう。
「そなたは——ずっと私のめんどうを見て、疲れていないのか?」
 寝込んでいるあいだもほとんどつきっきりだったはずだ。これで疲れていないといえば嘘になるだろう。
「いえ、わたくしめは……大丈夫ですから」
 とはいえ、返事も予想どおりだった。アルクマルトはすこし苦笑した。
「たまにはちょっと羽を伸ばしてきたらどうだ……?」
「えっ?」
 驚いたようにエリアスがふりかえった。
「いや——せめて息抜きくらい、してみてはどうかと思ったのだが」
 小さな町ではあるが、これだけの宿があるということは旅人もそれなりに訪れる。そういう場所には必ずといっていいほど、遊興のための施設もあった。酒でも女でもいいから、好きなことをしてくればいいのだ。
 アルクマルトが言った意味を察したのか、エリアスはちょっと困ったようだった。
「……はあ……あの……いや、しかし……」
「?」
「いえ、ありがとうございます……。ですが、油断は禁物ですから」
「……」
 真面目なのか堅いのか、あるいはその両方だろうか。むろん、アルクマルトはアルダーナ国の間諜に追われる身なのだから、すこしの油断もできないというのはわかる。
 アルクマルトは濡れた長い黒髪から水分をしっかりと絞ると、浴槽から出た。その体に、そっと布がかけられる。
「ああ、ありがとう」
 王宮では、侍従に体まで拭かせる王子もいたらしいが、アルクマルトは身のまわりのことは自分でしていた。それは母親代わりをつとめた王の愛妾ヴィジェリンの教育方針でもあった。
 体の水分をぬぐって肌着を身につけ、髪の水分をとるために布をまきつける。切ろうと思ってなかなか切れなかった長い黒髪は、ふだんはそう気にならないのだが、濡れたときにかわかすのがやっかいだった。
 エリアスはそのアルクマルトの黒髪を、そっと丁寧に布ではさむようにしてゆっくりと水分をとっていく。頼んだわけではないのだが、いつかそういう習慣になっていた。髪を濡れたままにすると風邪をひくからというエリアスの配慮があるのだろう。
 肌着の上に長衣を着てほんのり湿った髪をかるく細紐で結わえると、アルクマルトはふり返って言った。
「そうだ。では、そなたも湯浴みをしてはどうだ?」
「えっ」
「気持ちいいぞ。水浴びするよりは疲れも取れる。どうせ贅沢するならいっしょだ」
 旅を始めてからはずっと同じ部屋で寝泊まりしているし、なんども一緒に水浴びをしていて、おたがいに裸は見慣れている。自分ひとりだけがこうやって贅沢をしているのもなにやら気がひけた。
「たまには私が身体を洗ってやろう」
「ええっ! そ、それはとんでもないです」
 その驚く顔は、アルクマルトが想像していた以上だった。いままでこれほど驚かれたことがあっただろうか。
「——なぜだ? べつに今さらではないか。そなたと私の二人だけだから、なにも気にすることはないだろう?」
「で、殿下——めっそうもございません。そのようなこと、お気になさらないでください」
 きっぱり首をふると、エリアスは黙り込んでしまった。
 アルクマルトとしてはせっかくなので自分もエリアスになにかしたい気持ちだったのだが、遠慮というよりはなにか拒む気配を感じてしまって、言葉に詰まった。
 エリアスはどちらかというと真面目で堅い男であると思う。それはよくわかっていた。王子である自分にそんなことをさせるわけがないのも。
 それでもつい口に出してしまったのは何故だろうか。
「ああ……すまない。そんなつもりで言ったのではなかったんだが」
「……」
「ただ……いつも苦労をかけっぱなしなので……。その……なにかしたかったのだ、私も」
「……殿下」
 湯浴みのあとを片付けながら、エリアスは困ったような微妙な表情でアルクマルトを見ている。それはそうだろう。
「エリアス……」
「……わたくしめのことは、そうお気になさらないでください。あなたさまを無事に送り届けるためにおりますので……」
 その言葉はどこかよそよそしい響きを含んでいるようで、アルクマルトはハッとした。
 エルフィード神殿から遣わされたというだけで、エリアスは厳密な意味で自分の味方ではないのだ。ローディオスの追っ手に捕らえられないように守ってはくれるが、あくまでそれは神殿の任務のためなのだ。
「……」
 それでもこれだけ毎日いっしょにいて、倒れた自分をここまで介抱してくれて、感謝するなというのはむずかしい。エリアスが役目のためだと割り切っているとしてもだ。
 それがうまく言葉にできなくて、ただもどかしかった。
「……ちょっと外へ出てくる」
「殿下?」
「外の空気が吸いたいんだ」
「お待ちください、その格好では——」
「上着は持っていくから」
 そう言うと、アルクマルトは靴をはき寝台に置かれていたマントをつかんで部屋から出た。
 すぐにも飛び出してきて止めるかと思ったエリアスは、追いかけては来ないようだった。

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