放浪の王子 第21章 -2-

 アルクマルトは午後の公務のあいま、自分の寝室でそっとため息をついた、
 もう涙はなかった。多忙と心労が重なって心が疲弊し、涙も出てこなくなっていたのだ。
(あにうえ……)
 自分の目の前にある王としての職務をひとつひとつ覚えていくことで日々せいいっぱいだった。自分自身をどうすることもできず、後悔に胸が痛む気持ちすら麻痺しかけている。
 いま自分がどういう状態にあるのか、なんとなく解っていた。このままではいけないことも。
 部屋を見まわせば、置かれた家具はどれも豪奢なものばかりでさすがは王の部屋だと思わせる。だがアルクマルトはそんな部屋にどこか居心地の悪さを感じていた。
 窓を開ければ冷たい風が吹き込んでくる。王都ラグートはそれほど雪が多い土地ではないので、連日の冷え込みと積雪は人々を閉口させていた。眼下にひろがる王都の風景も、みな白い雪をかぶっていて雰囲気がまるでちがう。
「陛下、お風邪を召します。……こんな日に窓を開けたりなさいませんよう」
 そう言ってアルクマルトの背中ごしにそっと窓をしめたのは、エリアスだった。
「……たしかに今日も寒いな」
「どうかお身体をお厭いくださいませ」
「……」
 背中に感じるエリアスのぬくもりが、たとえようもなく切なかった。
 寒い……いや寒いのは身体だけではない。
「……陛下?」
 エリアスに身体をあずけるようにそっともたれかかった。
 近衛兵は近いうちに粛正をしなければならない。アルクマルトが思っていた以上にセダス公の息がかかっていた兵の数は多かった。そのセダス公をアルクマルトが容赦なく斬首したことで、彼らもおおいに肝を冷やしたとは思う。だが王都をふくめ国王を守護する立場にある近衛兵が今回のような不祥事をおこすなど、言語道断であった。
 セダス公に従っていた近衛隊長のオーズは罪人として牢に繋がれている。処刑は決まっているがその前に罪状を吐かせねばならないからだ。新しい近衛隊長の選定もせねばならない。
 今は暫定的に王宮内の警護を、エリアスをはじめ傭兵たちを近衛に入隊させて任せていた。
「あたためてくれ……」
「……えっ」
 エリアスが驚くのも無理はないだろう。この部屋にはいま侍従が三人も控えているのだ。
 アルクマルトは振り返ってエリアスの顔をじっと見た。そしてそのまま、口をひらいた。
「オルグレン、人払いを。私がいいというまでこの部屋には誰も近寄らせぬように」
「……は、はい。仰せのままに」
「そなたらも部屋の前で控えていてくれ」
「それはなりません! いかなる時も王のそばには侍従が控えている決まりです。わたくしめだけでも残ります」
 それは後宮に幽閉されていたときも同じだった。本来後宮では女官の役目だったが、アルクマルトの側には特別に侍従が置かれていたのだ。
 そのときにもオルグレンはいた。だからアルクマルトは今さら気にしても仕方がないと思うのだ。ただ、エリアスは嫌がるかもしれないとそれが気がかりだった。
「わかった。そのようにするがいい」
「承知いたしました」
 二人の侍従が部屋を出ていくのを見届ける間もなく、アルクマルトはそっと手をのばして複雑な表情のエリアスの肩に腕をまわした。
「陛下……あの」
「……あたためてくれと言っている」
 抱きついて腰を押しつけると、エリアスも反応しているのがわかった。
「あ……」
「気にするな。侍従たちは口がかたい」
「そ、そういう問題ではなく……」
 エリアスの首筋に顔を近づけると、アルクマルトはそっとささやいた。
「抱いてくれ。……でないと心まで……凍えそうだ」
「陛下……」
 エリアスはとうとう観念したように、アルクマルトの身体に腕をまわしてきた。ひさしぶりに触れあうぬくもりが嬉しくて、アルクマルトは思わず甘えた声をあげてしまった。
「っ……ああ。……そなたは温かいな」
「そんな声を……あげないでください、陛下。もう私は……」
 どちらからともなく唇がちかづいた。それはたちまち激しい口づけになり、部屋の空気を淫靡なものに変えていった。

 他に人がいる場所でアルクマルトを抱けるのかと思ったが、意外にすんなりと身体が反応してしまったことにエリアスは驚いていた。
 アルクマルトがまるで侍従がいないように振る舞っていたのもあるが、久しぶりの交わりに我を忘れたというのも本音だった。
 王子が——いや今はもう王なのだが、王都に帰還してここ二週間ほどはずっと張りつめていて、疲れていたのが近くにいてよくわかっていた。
 慕っていた兄ローディオスが目の前で負傷し、亡くなったという衝撃は計り知れないだろう。エリアスから見ても、アルクマルトのローディオスに対する気持ちは、肉親の情を超えているようにも思えた。
 それに嫉妬しないわけではないが、エリアス自身はアルクマルト本人がどうあれ、彼を陰から支えたい、護りたいという気持ちが強かった。
 それは剣や矢から彼の肉体を護るというだけではない。王という重責を果たそうとするアルクマルトの、その心をも護っていきたいと思うのだ。
(あなたをお護りします——そう申しあげたではないですか)
 辛いときはこうやって頼ってくれて良いのだとそう考えていたのに、なかなかアルクマルトが弱音を見せないことのほうが、エリアスは気がかりだった。それは自分に気を許していないからかと思えば、やはり心が曇る。
 だからこうやって触れあってみれば、寂しいのと辛いのを限界まで我慢していた王のことがよくわかって、今まで以上に愛おしかった。
 一度きりでは足りないのだけど、公務の合間では仕方がない。情事のあとの余韻もそこそこに、ふたりは身支度をした。アルクマルトはこの時だけは侍従には任せたがらず、エリアスが手伝った。旅のあいだのように。
 椅子に腰かけた王の長い黒髪に櫛をとおす。ひと房だけ無造作に顔の横で切り落とされたままになっている。ローディオスの棺に入れるために切ったのだ。
 髪はいずれ伸びる。心の傷も同じように時間が癒してくれるはずである。もしそれでも間に合わないのなら、少しは自分がこの人の心を癒せるだろうか。
 身支度がととのったと思われるあたりで、侍従長のオルグレンがそっと王に近寄ってきた。
「陛下。神官長サンジェリス様がお見えです」
「神官長が?」
「はい。いかがいたしましょう?」
 おそらくオルグレンは情事を終えたばかりの王の体調をきづかっているのだろう。
「……適当な部屋がないな。謁見の間に通しておいてくれ。諸侯は集めなくていい」
「承知いたしました」
 重臣や諸侯があつまる謁見の時間は午前中である。午後は彼らも自分たちの職務のためそれぞれ与えられた部屋もしくは城下の施設にいることが多い。
 サンジェリスがいまやって来たと言うことは、私的な訪問と考えてよさそうだった。
「エリアス……」
「はい、陛下」
 アルクマルトがたちあがってエリアスのほうを見た。本人は意識しているのかどうかわからないが、ひどく色っぽい目つきだ。
「その……ありがとう」
 礼を言われる覚えがなくて、エリアスはおもわず目をまるくする。
「?」
「ふしぎだ。そなたと交わってこれほど気持ちが楽になるとは……」
「……」
「なぜだろう……。ひとりじゃない気がするんだ」
「……」
 失礼だとは思ったが、エリアスはおもわず吹き出してしまった。
「なにが可笑しい?」
 すこし憤慨したような表情の王の、なにもかもが愛おしい。
「申しわけありません。ですがあなた様があの……あまりにも……かわいいので」
「ええっ?」
 今度はアルクマルトが目をまるくした。一国の王がかわいいと言われて驚かないはずがないだろう。
「陛下……わたくしは」
「ん?」
「いつもあなた様のおそばにおりますよ。離れていても……心はずっと。あなたを独りにはいたしません」
「あ……」
 王はほんのりと頬を染めた。肌の色が白いぶん、その整った顔立ちに映えた。
「そうか。そなたがいてくれたのだな。私は……ずっとひとりで闘っている気になっていた」
「……」
「ありがとう……」
「いいえ、陛下。お礼を申しあげるのはわたくしめのほうです」
 手をさしだすと、その手を力強く握り返してくれる。
 アルクマルトのおかげで、エリアスは誰かを本気で愛することを知った。一国の王を愛しささえていくことは決して容易ではないだろう。だが護りたいのだ。愛おしいこの人の笑顔を、ずっと護っていきたい。
「そろそろ行くか。サンジェリスがしびれを切らしてしまう」
「はい、陛下」

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