放浪の王子 第10章 -1-

「殿下、もうすぐ朝食の時間です。……どうかお目覚めくださいませ」
 アルクマルトは若い神官にゆり起こされて、ようやく目覚めた。
「……?」
 あわてて身を起こそうとし、自分のとなりに目をやった。すでにエリアスはおらず、寝台には自分だけだった。
「ああ、すまない……。すぐしたくする」
「お待ちしております」
 神官はそう言って部屋を出ていった。
 ゆうべのことは夢だったのかといっしゅん考えたが、身体を起こしたときの下半身のにぶいだるさはまぎれもなく現実だった。
 あのあと、さらに何度もふたりは交わったのだ。そして泥のように眠り込んでしまった。エリアスはおそらく明け方に目を覚まして去っていったのだろう。
 アルクマルトは寝台の、エリアスが寝ていたあたりをそっと手でなでてみる。もうぬくもりはのこってはいない。だがひと晩そばにいてくれたのだ。それだけで嬉しかった。
 ゆうべは彼の顔を見て気がゆるみ、ついワガママを言ってしまった。おそらくかなり困らせただろう。
(エリアス……)
 優しい男だと思う。なにも言わずなにも聞かない。
 ローディオス以外の男にはじめて身をまかせた。最初は兄の代わりに抱いてくれればそれでいいと思って誘ったつもりだった。
 だが、とちゅうでそれだけではないことに気づいた。
(……私は……なぜ……)
 自分の心がよくわからなかった。なにを望んでなにを求めてああなったのか、考えても答えが見えなかった。
 だがあんなに乱れて感じたのは、けっして身体が寂しかったからだけではない。
 もうすぐ朝食だと言われたのを思いだし、アルクマルトはいそいで身じたくをした。着なれた神官装束を身につければ、情事の余韻を忘れてすこし気がひきしまる。
 食堂はいつも静かだが、朝はとくに私語もすくない。
 神官たちがだいたい席についていたので、アルクマルトもすばやく自分の場所にすわった。
「えー、コホン。それでは……」
 待ちかねていたらしいミルラウスが代表で祈りの言葉をささげ、みながいっせいに食事をはじめた。
 今朝の食事は、麦を牛乳で煮込んだ粥とゆで卵、それに葉野菜と肉のかけらを煮込んだ軽いシチューだった。あっさりとしているものばかりだが、身体を目覚めさせるにはこれくらいでちょうど良いだろう。
 アルクマルトが食べながらエリアスのほうをそっとうかがうと、彼はいつものようにそっと微笑んで会釈してきた。それでアルクマルトは安堵した。
 もしここで視線をそらされたりしたら、あとでどんな顔をして話しかければいいのかわからなかったからだ。

 朝食後、アルクマルトは神官長のサンジェリスにふたたび招かれた。今度はミルラウスの部屋ではなく、神官長の逗留のために用意された客間らしかった。
 そう大きくない寝台が壁ぎわに置かれていて、あとは小卓と椅子だけの質素な部屋である。そして部屋が質素なだけに、サンジェリスの存在感が際立っていた。
「ようこそおいでくださいました、殿下。おかけくださいませ」
「ああ、ありがとう」
 ふたりはゆったりと椅子に腰かけて向かいあう。サンジェリスはいつものように艶然とほほえんだ。
「ゆうべはよくお休みになれましたか?」
「……」
「すこし……お疲れのようにも見えます」
「……そうか? 元気なつもりだが」
「それなら良いのですが」
 思えばサンジェリスが言ったとおりに、アルクマルトは心と身体——欲望に素直になってしまった。自分の乱れようを思いだすだけで顔が熱くなってしまう。
 扉をノックする音がした。
「お入りなさい」
 若い神官が淹れたての茶を持ってきた。二人のあいだの小卓にそれが並べられるあいだ、だれも言葉を発しなかった。
 扉が閉じられてから、サンジェリスはゆったりとその茶を味わった。いつもながら見とれてしまうほど優美な所作だ。
「ゆうべは神官長としてではなく一人の人間として、あなた様のお気持ちを知りたかったのです」
「……わたしの?」
「はい。あなた様が陛下を憎んでいるなら問題はありません。彼を斃して王位にお即きくださいと言えるからです」
「……」
「……ですが」
 サンジェリスは茶器を小卓にもどし、そっと椅子の背もたれに身体をあずけた。
「ゆうべの殿下のご様子では、そうは思えませんでした」
「……」
「むしろ……あなた様は陛下のことを慕っておいでかと」
「……」
 アルクマルトはただ黙っていた。なにか言いたくてもうまく言葉にできなくて、黙っているしかなかったのだ。
 もともとローディオスのことは子供のころから実の兄のように慕っていた。好きだという気持ちが大きかったからこそ、無理に犯されたときのショックも大きかった。それゆえに裏切られたと感じたのだ。
 ローディオスを憎んでいると、自分では思っていた。身体は彼を求めていたが、心はそうではないのだと。だから神剣を手渡されたとき、逃げる道を選んだのだ。
 逃げた理由はそれだけではない。もちろん命をかけて準備してくれた従者たちの気持ちに応えねばという責任感もあった。だがずっと後宮に閉じ込められていることを考えれば、先が見えない状況に息が詰まったのが大きかった。
 後宮では毎日ただ抱かれる以外にすることもなく、それまでのように教師について何かを学ぶこともなくなってしまった。竪琴は許されていたけれども、唄いたい気持ちをうしなってしまってからは触れる機会もなくなった。
 王宮とは比べものにならない辛い放浪生活のあいだも、アルクマルトは逃亡したことを後悔したことなどなかった。あのまま幽閉されていれば、自分はまた気力を失っていっただろう。それは確かだ。
 ローディオスのことを慕っていても——いや慕っていたからこそ、あんな形ではそばにいられなかった。
 なにも言わないアルクマルトに、サンジェリスはやや困ったような笑みをうかべた。
「——あなた様は王子でいらっしゃる」
「……」
「王家の責任は心得ておいでだ。それゆえにいろいろ迷い悩まれるのでしょうが……」
「……」
「でも——ひとりの人間でもある」
「……」
「しかもまだお若い。正直なところ、いろいろ酷なこととは思います」
「……」
 サンジェリスは開けられている窓のそとを見た。アルクマルトもつられて視線をそちらに向けた。
 もくもくと農作業をこなす神官たちがいる。いまは小麦の種まきの最中だろうか。こうやって生活する民の行く末もまた、国のありようによって左右されてしまうのだ。
「若い神官たちが、殿下のことを褒めておりましたよ。泥にまみれてみなといっしょに働かれたことを……」
「……それは」
「きれいな仕事ばかりではありませんからね」
「褒められるほどのことでは……。慣れなくて、みなには迷惑をかけてしまっているのに」
 神殿で作業を手伝うことを決めたのは、ここバルームの神殿に逗留するあいだ、じぶんだけ客人でいるわけにはいかないと考えたからだ。そしてやるからには、きれいも汚いもなくこなすべきだろう。
 アルクマルトはいっしょに働く若い神官たちの顔をおもいだしていた。
「ふふ……やはりわたくしはあなた様に王になっていただきたいですよ、殿下」
「……」
「さて」
「……?」
「ここからは神官長としてお話させていただきます」

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