放浪の王子 第16章 -3-

「なにやらにぎやかですね」
 神官長サンジェリスはどこからともなく伝わってくる雰囲気を察したらしく、椅子から立つと窓際に近寄った。なにをしても所作が絵になる人物だ。
「……で、用件はなんですか、エリアス?」
 背を向けたままそう問われたが、エリアスもとっさに言葉が出ずに黙ったままだった。
「……」
「……」
「神官長さま」
「……」
「わたくしを……どうかわたくしを、殿下の世話係としてお連れください」
「なにを言い出すかと思えば……」
 神官長はゆっくりとふりかえった。その表情はどこか微笑んでいるようにも見えた。
 アルクマルト王子を、王宮からの使者にゆだねてセダス公にこっそりと引き渡す。そんな危険で大胆な賭けのような策を聞かされたとき、エリアスは愕然とした。
 護衛としてずっと付き従ってきたはずなのに、今度ばかりは自分の出番はなかった。だがそのことが不満なのではない。
「数は少ないといえど近衛兵相手に……いくら神剣をお持ちとはいえ……」
「……」
「わたくしは殿下のおそばにいて、あのかたをお護りしたい」
「……理由は?」
「殿下を危険な目に……」
「……」
「……遭わせたく……ないからです」
「……だから、どうしてです?」
「それは……あのかたを……お慕いしているから……」
 なぜそう言ってしまったのかわからない。それでも正直な気持ちを言わねば、神官長には通じないだろう。
 いつになく真剣な眼差しの神官長に見つめられ、エリアスは自分の心の奥底まで見透かされているような気になった。
 だがけっして目をそらしてはいけない。そう思っているうちに、神官長が口をひらいた。
「そなたの気持ちは真実か?」
「えっ……」
「殿下を護りたいという、そなたの気持ちは真実のものかと聞いているのです」
「はい」
「ひとりの人間を護るということは、口で言うほど容易いことではない。ましてやあのかたは王子——そなた、それだけの覚悟があるというのですね?」
「あります」
「近衛兵に囲まれれば、幾百の矢が殿下めがけて射かけられるやもしれぬ」
 試されているのだ——エリアスはおぼろげにそう感じた。神官長はエリアスがどこまで本気なのか試しているのだ。
 だが試されたところで、答えは変わりようがない。自分はアルクマルト王子を失いたくないのだ。ならば護りきるしかないだろう。
「たとえ幾万の矢があのかたに向かって射られようとも、わたくしがこの身に代えましてもお護りいたします」
「……」
 問われたから仕方なく答えたのでも、見栄や意地でもなんでもない。ただ正直にそう思った。矢衾にさらされるなら、自分がその矢をすべて受けてでも王子に傷ひとつ負わせない。そのつもりだ。
「——お願いいたします。どうかわたくしを一行に加えてください」
「……」
 神官長サンジェリスは、すこしばかり困ったような表情でうなずいた。あきれられたかもしれないが、どう思われようがかまわない。王子を護るためだ。
「殿下にも危険な役割をお願いしてしまいましたが、そなたも相当に危険なことになるかと……」
「それは承知のうえです」
「……わかりました。それならば、ひとつ役目をお願いします」
「ありがとうございます!」
 良いとも悪いとも、責めるような言葉はなにひとつなかった。優美な所作で椅子に腰かけると、神官長は立ったままのエリアスにも座るよう促した。エリアスも相手が座っているのに自分が立っていては話しづらいので、椅子に座った。
「エリアス……長いあいだ、我らのために働いてもらって、感謝します。報酬は約束どおり用意しますから」
「……神官長さま?」
「ここから先は、神殿としてそなたに依頼する任務とはすこし違います」
「……?」
「あなたの主君は、私ではありません」
「……えっ」
 神官長がなにを言いたいのかとっさには理解できなかった。
 翠の瞳が、じっと自分を射る。
 サンジェリスが前神官長トリティアスに拾われて神殿の孤児院にやってきたときのことを、エリアスは覚えている。そのころエリアスは兵士の訓練を受けながら、孤児院の警護役の仕事をしていた。
 身も心もボロボロだった少年は、男娼館から逃げ出してきたという。孤児院に入れる年齢は過ぎていたけど、一人では生活できないほど弱っていたために特例として半年ほど療養した。それからすぐ少年は王都の神殿で見習い神官として務めるようになった。
 出自が出自だけに、他の孤児たちにからかわれてケンカになっていたのを、よく仲裁したものだ。
 それももう、十年以上もまえの話である。だがこの翠の瞳はあのころと変わらない。
「そなたの主君は、アルクマルト殿下でしょう?」
「……!」
 そう言われてハッとした。そうだ、依頼された役目が終わったということは、神官長が雇い主ではなくなったのだ。そして自分はあたらしい雇い主——いや主君となるべき存在を、選ぶことができるようになった。
「あなたは、自分が納得する主君に仕えればそれでいいのです。……そうすることがあなたの幸せなら」
「神官長さま……」
「だからここからは、あなたの主君を助けるための方策ということです」
「ありがとうございます!」
 エリアスはふかぶかと頭をさげた。
 国境警備や近衛として国王のために務めたけれど、いま仕えたいと思う人はただひとりだけだ。
「礼を言うのはすべてが終わってからですよ、エリアス」
 神官長はややたしなめるような口調でそういうと、やわらかく微笑んだ。

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