放浪の王子 第8章 -3-

「殿下、神官長がお着きになられました」
 若い神官がそうアルクマルトに告げたのは、午後の作業も終わりかけ夕食もちかい時間だった。
 ちょうど摘んだ薬草をより分けたり吊して干したりしていたところで、手足は泥まみれだった。
「——そ、そうか」
 さすがにこのままでは……と思ったのだが、その若い神官は続けて、
「どのような格好でもかまいませんと、神官長が仰せです」
 と言った。だいたいの状況の予想はついているのだろう。
 アルクマルトは手足の泥だけを洗い流し、いそいで広間へ向かった。
「アルクマルトだが……」
 広間の扉の前で声をかけると、中からミルラウスの声で返事があった。
「おお殿下、お入りくださいませ」
 扉をあける。そこには神官ミルラウスと、町人の旅装束の端正な青年が立っていた。
 焦げ茶色の見事な巻き毛にあかるい翠の瞳で、驚くほど整った目鼻立ちをしている。そしてなにより思っていたのとまったく違っていたのはその若さであった。
 前の神官長のトリティアスはけっこうな老齢だったので、アルクマルトにとって神官長とはもっと年齢が上のイメージだった。
「アルクマルト殿下、お初にお目にかかります」
 優雅な物腰で膝をおる彼は、エリアスよりも若い。おそらくまだ二十代であろうか。
「エルフィード神殿の神官長、サンジェリスと申します」
「サンジェリス殿、王都からはるばる来られたというのに、こんな格好でもうしわけない」
 神官装束に腕をまくりあげたままかけつけたためか、急に恥ずかしくなった。だがサンジェリスはゆっくりとたちあがり、上品な笑みを浮かべて言った。
「いいえ、殿下。神官たちにまじって働かれているとお聞きしました。どうかお気になさらずに」
 神官の装束を身にまとった王子と、ふつうの町人の格好をした神官と、なんとも奇異な絵面であった。
「神官長様、夕食の時間も近うございますが……」
「もうそのような時間ですか」
 サンジェリスは窓の外をちらりと見やり、それからアルクマルトのほうへ向きなおった。
「殿下、夕食のあと二人ですこしばかりお話をさせていただきとう存じます——」
「わかった」
「ミルラウス殿の部屋をお借りすることにします。それから、お願いがございますが」
「なにか?」
「神剣を持ってきていただきたいのです。そして神官の装束ではなく、ふだんの殿下の衣装でお越しください。——できるだけ綺麗にして来ていただいたほうが、いいでしょう」
「えっ——?」
 そのことにどういう意味があるのかまったくわからず、おもわず頓狂な声がでた。二人で話をするのに、綺麗にする意味があるというのだろうか。
 だが年若い神官長は謎めいた笑みをかえすばかりだった。
「泥を落としていらっしゃいませ、殿下」
 ミルラウスにうながされ、アルクマルトは湯浴みに向かう。なにか腑に落ちないのだが、綺麗にしてこいと言われたからには、言うとおりにしていったほうが良いのだろう。
 ちょうど湯浴み場にエリアスもいた。彼もまた日々神官と同じ作業をもくもくとこなしていた。
 全身を丁寧に洗い、髪を洗うのをエリアスに手伝ってもらう。いつもより時間をかけての湯浴みのあと、洗いたての神官の衣装を受け取って身につける。
 夕食のときは神官長のサンジェリスも加わった。彼はまだ先ほどの旅装束のままだった。立ち居振る舞いも優美なので、男ばかりの風景がパッと華やいだようだった。
 神官長を迎えて若い神官たちが緊張でかたくなっているなか、アルクマルトは早めに食べ終えて、与えられている自分の部屋である客間に戻った。
 寝台脇の小卓には、自分が旅のあいだ身につけていた長衣が、きれいにととのえられて置いてあった。さらに服の横には蜜蝋に香油を混ぜて練ったものが入った小瓶までそえてある。おもに女性が肌の手入れに使うものだ。
 王宮にいたころはふつうにこういうもので身体の手入れをしていた。そう、とくに後宮に幽閉されてからは、ことさら丁寧に肌も髪も綺麗にされていたことを思い出してしまう。
 いや、後宮ではこれをもうひとつ別の目的でも使っていた。
「……」
 とても手をふれる気にはなれなかった。アルクマルトは着替え終わるとそのまま神剣をつかんで部屋を出た。ミルラウスの自室がある奥の棟へと向かう。
 まもなく日が暮れる時間であたりは暗くなっており、廊下には灯火が一定の距離を置いて灯されていた。
 アルクマルトが扉のまえに立つと、なにも言わないのに中から声が聞こえた。
「どうぞ、お入りくださいませ」
 神官長の声だった。アルクマルトは両開きの扉をあけて中に踏み込んだ。
 かすかに香を焚いている煙がただよっている。
「おかけくださいませ、アルクマルト=キリーク=アルデアナ殿下」
 立ってアルクマルトを迎えたのはサンジェリス一人だった。ミルラウスは席をはずしているらしい。すすめられるままに椅子に腰かける。
「その名前を……?」
「前神官長が名付け親だと聞きました。キリークというのは古い言葉で『稀なる者』を意味するのです」
「そんな意味だったのか」
「ええ、ちゃんと意味のある名前なのです。ただご本人とご両親以外には秘密だなんてもったいぶってしまったせいか、あまり重要視されていないようで……。神官が名づけることじたいも、ずいぶんと形式的になってしまっていますからね」
 ふだん着のアルクマルトとは逆に、サンジェリスは神官の装束に着替えていた。大きめの帽子と顔の周りを覆う布で見事な巻き毛が隠れてしまうと、端正な顔がより際立つようだった。
 サンジェリスはアルクマルトのむかいがわの椅子にそっと腰をおろす。ふたりのあいだの小卓には、ちいさな香炉が置かれていた。
「なにはともあれ、殿下がご無事でようございました。三年もの放浪生活はお辛かったこととお察しいたします」
「……」
「我々はあなた様こそ王と考えておりますれば。さて——なにからお話しすれば良いか——」
 アルクマルトも言いたいことや聞きたいことはたくさんあるような気がしていたが、いざ神官長本人を目の前にすると、なかなか出てこない。
「私に——王になってほしいのは何故だ?」
 なにやら小さな紙包みを小卓のうえに広げながら、サンジェリスはゆったりと視線をあげた。
「神剣が選びそして先王の遺言があった。——あなたが王であることを否定する条件がほかに?」
 穏やかな外見ながらその言葉は鋭い。
「しかし、王太子は兄上だった」
「——そうですね」
 紙にはなにかこまかな樹脂の破片のようなものがわずかに包まれていた。
「あなた様も賢いおかただ。隠しごとはしないでおきましょう」
「……」
「我々があなたを王と推すのは、もちろんエルフィード神殿の復権を考えるがため」
 あまりにも正直な物言いだったので、アルクマルトはかえって拍子抜けした。だが予想どおりの答えであったのは確かだ。
「エリアスを——彼ほどの人材を使う力があって、なにも望んでいないはずはないと思っていた」
「——そう、あなたをここまでお連れしたのはエリアスでしたね」
 サンジェリスはゆっくりと言葉を選んで話している。
「我々としても、あなたを荘園から逃がしたまでは良かったものの、逃亡の幇助をとがめられ神官長は更迭。そして神殿に監視がつく始末。我々がつかさどっていた国の祭祀でさえ、いまは最低限しか許されません」
「しかし——エルフィード神殿と王家はアルダーナの二柱だ。民はそれでは納得しないはず」
 天候を支配する神であるザイデスを祀っていることから、エルフィード神殿には国民の信も篤かった。重臣たちはあまり神殿を重んじない風潮があったが、それでも表向きには尊重する形をとっていた。ないがしろにすれば国民の信をうしない、王政への信頼も揺らぐ危険がある。
「そうですね、殿下もお解りのとおりアルダーナはそういう情勢です。——ですが陛下のお怒りがよほどだったのでしょう」
「……」
「それで大々的に人を外国へ向けることは無理になってしまいました。王都では神殿の動きはみな監視されております。むろんわたくしなどはその監視の筆頭にあたります。——それで出入りの商人の姿を借りて、こっそりここまでやってきた次第です」
 アルクマルトが考えていたいじょうに、エルフィード神殿への締めつけは厳しかったようだ。
「ですから、兵士のなかで神殿にゆかりのある者を厳選して送り出しました。そのひとりがエリアスでした。彼は手練れなだけでなく、頭が切れるうえに真面目です。あなたを見つけたのがエリアスなのも天の配剤かと……」
 神官みずからが動くよりも、腕に覚えのある者を選んで任を託すほうがまだ国の監視の目をかいくぐりやすいだろう。また神殿と兵士の結びつきも、王宮側には想像しにくいものだ。
 神殿と神官は祭祀をおこなうが、そのイメージは武力的なものとはほど遠い。髪まで隠してしまう装束は、神官たちが男なのだとすら感じさせないほど世俗と離れた存在のように見せてしまうのだ。
「シフェの村にいたパウラス殿は——」
「ええ、彼はうまく国外へ出ることができました。派遣した兵士たちを金銭や情報で助けるためにあそこにいるのです」
 神官が外国へ出向き商家の主にまで身をやつしてまで、秘密裏に兵士たちをサポートしていたのだ。それは間諜の任務である。
「ですが、我らの努力は報われました。あなた様をエルフィード神殿にお迎えできたことで」

8章-4-へ