放浪の王子 第9章 -2-

 エリアスは部屋で地図の確認をしていた。国の情勢は日々変わるものだし、しばらくアルダーナを出ていたので、自分の知識に間違いがないか確認をしておかねばならなかった。
 神殿から与えられた部屋はそうひろくはないのだが、個室という点だけは助かっていた。間諜めいた自分の任務のことはたとえ神官といえどあまり知られたくはなかったからだ。
 彼らは神官は神殿のなかでおだやかに生活する道をえらんだ。神官にも自分と同じように孤児院で育った者が多いのだが、兵士となる道をえらんだ自分とは住む世界がちがうのだ。
「?」
 奥の棟と客間をつなぐ回廊のほうから金属的な音が聞こえた。まもなく消灯というこんな時間に、誰か何かを落としたような音だった。
(まさか……王宮の手のものか?)
 どんな時にも万が一ということはある。エリアスはそっと部屋を出て、足音を忍ばせながら回廊のほうへむかった。
(あれは……)
 誰かがよろめいて廊下の壁にもたれていた。神官の衣装は身につけていない。長い黒髪のその後ろ姿を見間違えるはずがなかった。
「殿下!」
 見ればアルクマルトの足もとには剣が落ちている。さきほどの音はこれだろう。
 こちらをふりかえったアルクマルトの表情に、エリアスは胸が詰まった。
「エリ……アス」
 旅のあいだ一度も見せたことがない、せつなげな顔だった。目尻やまつげが濡れているようにも見える。
 腕をさしのべると、アルクマルトはすがりついてきた。どうやら足に力がはいらないらしい。
「殿下」
「……」
「どうか……なさいましたか?」
 訊いても答えはなかった。その代わりに袖をつかむ手に力がこめられた。体調が悪そうな感じではない。だがこんな状態の王子は初めてだった。
 落ちた神剣を拾って自分の腰帯にはさんだ。それからアルクマルトを抱きあげる。すこし肉がついたとはいえ、あいかわらず身長のわりに軽い身体だ。
 回廊の奥にアルクマルトが逗留している客間がある。部屋の扉はきちんと閉められておらずにわずかな隙間があった。そのまま扉を足で軽く蹴るようにして開ける。
 当番の神官が部屋に燭台をいくつか置いていったようで、中は思っていたより明るかった。
 広くてゆったりとした寝台のうえにそっとアルクマルトをおろす。だが、離れようとしたエリアスの腕を、王子はつかんではなさなかった。
「殿下……?」
「……」
「……なにかおつらいことでも?」
 青い瞳が涙でうるんでいるのがわかった。神官長と話をしていたはずなのだが、いったい何があったというのだろう。旅のあいだも、弱音などけっして見せなかったというのに。
「エリアス……」
「はい」
「……抱いてくれ」
「——えっ?」
 その瞬間、頭を殴られたような衝撃をおぼえた。
「……くるしい。このままでは苦しい。おねがいだ……」
 抱くという言葉の意味が頭のなかでぐるぐると渦を巻く。王子が言っているのは、その意味なのだろうか。
 ふいにアルクマルトに腕を強く引きよせられ、バランスを崩して彼のうえに倒れこんでしまった。
 自分の下にある細い肢体に息をのむ。こんなふうに密着してしまうと、どうしたって意識してしまう。
「そなたの好きにして——いいから」
「いけません、殿下……」
 エリアスは誘惑を振り切るように首をふった。
「男の……私を……抱くのはイヤか?」
 そういう問題ではないのだ。自分は元近衛兵にすぎない存在で、相手は王子だ。かるがるしく手を出していいわけがない。
 だからこそ今まで耐えてきたのだ。どれほど裸を目にしようとも、どれほどその肢体にふれようとも、心を押し殺して任務に徹してきた。それなのに。
「す、すこし気が動転していらっしゃるのでしょう……。ひと晩ゆっくりお休みになれば……」
「拒まないでくれ……」
「——殿下」
「すこしでも……私のことを想ってくれるなら」
「……」
「たのむ……エリアス」
 なぜこれほど王子が必死なのか、なんとなく想像はついてしまった。王子がほんとうに欲しいのが自分ではないのだということも。
 手を出すべきではない。それはわかっていた。だがこんなふうに迫られているうちに、頭のなかが甘くとろけていく。
 最初はただの任務だとわりきっているつもりだった。無事に神殿まで王子を送りとどけること、そのためにできるだけ大事に接するようにしていた。
 たいした身分でもない自分のような男に、アルクマルト王子はつねに真摯だった。信頼してすべて任せてくれた。
 そんな彼に対していつしか任務以上に過保護になってしまっている自分が不思議だった。
 熱で倒れた彼を腕に抱いたときに、エリアスはやっと自分の思いを自覚した。これは恋なのだと。自分はアルクマルト王子に恋していたのだと。
 ならず者に襲われて肝を冷やしたのも、そのあと思わず抱きしめてしまったのも、任務として王子の身を案じたからではなかった。大事なひとを傷つけられたくなかった、ただそれだけだ。
 だがこの恋はけっして実現もしない。ならば胸のおくに秘めてただ彼を護るだけの存在でいればいい。そう自分に言い聞かせて忘れるつもりだった。
 よりによってここで、王子のほうから誘惑されるとは。
「……!」
 エリアスは自分のしたにある王子の身体が昂ぶっているのを感じとった。
 欲情しているのだ——まぎれもなく。
「……このままでは……ねむれな……」
 ほんのりと涙のにじんだ目とうすくひらかれた口が、エリアスを誘惑する。
「……どうかおゆるしを」
 エリアスはアルクマルトの髪をそっとなでた。あまり手入れに気をつかう余裕がないためにすこし傷んではいるが、まっすぐで綺麗な黒髪だった。
「殿下……わたくしは」
 その黒髪をひとすじ手にとって口づけた。
「お慕いしております……あなたを。ですが、このようなことは——」
「たのむから……」
「いけません——」
 だがエリアスの身体もまたどうしようもなく昂ぶっていた。恋しい相手からこんなふうに誘惑されて、平常心でいられる男などいない。
 言葉とはうらはらに、もう拒みようがないのは自分でもわかっていた。
 ふいにアルクマルトの手が、熱くなったエリアスのそこを布越しに撫で上げた。
「……っ……あっ……」
 絶妙な刺激に、腰がびくんと跳ねてしまった。
「もう……こんなになっているのにか……?」
 エリアスはとうとう観念した。好きになってしまったいじょう、どうあがいたって敵わないのだ、自分の負けだ。
 遠慮がちに唇をちかづけると、アルクマルトのほうがエリアスの頭に手をまわして引き寄せてきた。
「ん……っ」
 唇がふれるや、たちまちにそれは濃厚な口づけになった。
 口づけがこれほど甘美なのは初めてだった。からみあう舌がこんなに淫靡なのも初めてだった。
「……ふ……んんっ……」
 王子の口からあまい声がもれる。それだけでも心がおどった。こぼれ落ちる唾液ですら惜しんでしまうほど、エリアスは口づけをむさぼった。
「ああ……」
 アルクマルトの頬は上気し、目もとが色っぽい。それは口づけとそのあとにくる行為をしっている顔だった。
「服を……ぬがないと」
 そう言われてエリアスは身体をおこす。アルクマルトは寝台のうえに横になったまま、器用に服を脱ぎはじめた。ためらいもなく肌着までもすばやく取り去ってしまう。熱くかたくなったものすら隠そうともせずに。
 エリアスも腰帯にはさんでいた神剣をそっと寝台脇の小卓に置くと、自分の服を脱いでいく。ほんとうはそうやって服を脱ぐ間すらもどかしかった。
「ああ……殿下」
 背中の下にそっと腕をさしいれ、素肌の彼を抱きしめる。感触を確かめるように背や腰を手で撫でながら、首筋に舌を這わせた。
「……あっ……ん……」
 敏感に反応してエリアスにしがみついてくる。それがよりいっそうエリアスをあおる。
 首すじから鎖骨を唇と舌でじっくりと愛撫し、つぎに胸の突起をやさしく指でなでた。かるく触れただけで、アルクマルトはのけぞって喘いだ。
「ああっ……あ……っ」
 ここがとくに弱いのだろう。刺激に応えるかのように、下半身がびくんと跳ねている。
「ああ、ここが……いいんですね……?」
 指での愛撫にくわえて、舌でも舐めあげる。
「ひっ……だ……だめ……っ……そんな……あうっ……」
 ひとりで旅をしているあいだ、いったいどうしていたのだろう。こんな身体をずっと持てあましていたのだろうか。

9章-3-へ