放浪の王子 第17章 -1-

 エリアスはいつものように不寝番のため、アルクマルトの部屋へと向かった。歩く道筋もいつもと同じだが、いつもと違っているのは、自分がとても身軽な気持ちになっていることだった。
「エリアスです。殿下の警護にまいりました」
 部屋の外でそう告げると、世話係の神官が向こうから扉をあけて迎えいれてくれるのだ。
 今日の王子の世話係はサウロスだった。彼もマルスやゼルオスとおなじくバルームの町からやってきた神官である。そこそこの年齢ではあるが、おだやかな人柄で若い神官たちにも慕われていた。
「エリアス殿、それでは後をよろしくお頼みいたします」
 そう会釈して彼は王子の部屋を辞した。
「失礼いたします」
 部屋にはいると、アルクマルト王子は椅子に座って微笑んでむかえてくれた。とてもおだやかな優しい笑みだった。その笑顔を見れば胸が締めつけられるようにせつなかった。
 この人に辛い顔や悲しい顔をさせたくない、ずっと笑顔でいて欲しい。
「いつもありがとう、エリアス」
 センティアットに来てからの王子は、湯浴みのあと肌や髪の手入れをされているらしく、いつもかすかな花の香りがした。
 人前に出ることも多いから、見栄えがするようにとの神官長の気づかいなのだろう。肌も髪もつやがでてよりいっそう人目を惹くようになった。民衆のあいだの人気に彼の容姿がおおいに影響しているのは間違いないだろう。
 貴人のまえで立ったままでいることは本来なら失礼にあたるのだが、王子はそういうことは気にしなくていいとエリアスに言っていた。だがらついその顔を見下ろしてしまう。あまりじっと見つめすぎたせいか、王子が怪訝な表情をした。
「……? どうした、私の顔になにかついているのか?」
「いいえ、殿下」
「?」
 まだ寝台に入るにははやい時間だ。寝るまでの間、アルクマルト王子は用意された机と椅子で読書をしてすごしている。三年間——いや四年間ほとんど書物に接する機会がなかったためか、いつもとても熱心に読んでいた。そのまま寝入ってしまい、エリアスが寝ぼけた王子を抱いて寝台に運んだこともある。
 今日も本を読むつもりなのか——そう思った矢先に、アルクマルト王子のほうが口をひらいた。
「……エリアス」
「はい」
「こんど王宮からの使者が到着すれば、私はここを去らねばならない」
「……承知しております」
 まっすぐ自分を見ていた目をふせ、王子はどこか言いにくそうにつぎの言葉をゆっくりと吐き出した。
「そなたには……ずいぶんと世話になった」
「……」
「……ここでお別れだ」
「……」
 そう言うだろうとはわかっていたが、あらためてその口で言われると、かなりこたえる言葉だった。それだけ自分が王子と離れがたく思っているのを、思い知らされる。
「私は……その、そなたと会えて良かったと思っている」
「殿下……」
 だが違う。神殿に雇われていた自分なら、ここで別れねばならないだろう。だがいまの自分は違うのだ。
「……」
 自分を見る青い瞳が、どこか不安げな様子だった。エリアスの反応を待っているのだ。ならばと思いきって、その言葉を口に出してみる。
「お別れは、いたしません」
「……えっ?」
 なにを言い出すんだという表情をした王子の手を、エリアスはそっと握りしめた。
「神官長からはお暇をいただきました。もうわたくしは、神殿の雇われ兵士ではありません」
「……」
「ですから……どうか、お願いです」
「……なんだ?」
「わたくしを雇ってはいただけませんか?」
 アルクマルト王子はきょとんとした顔をしたかと思うと、つぎにとても困ったようにエリアスをじっと見た。
「そなたを雇いたくても、私には報酬を支払うこともできない……」
 そう答えるだろうこともわかっていた。
「殿下……わたくしは報酬がほしいのではありません。ですから、そのことはお気になさらずに」
「……なんだって?」
 口をぽかんとあけたまま、王子はしばらく動かなかった。金はいらないから雇ってくれという兵士など、ふつうはいない。だから無理もないのだが、本当に自分が意図しているところが伝わっていなくて、エリアスは心の中でかるくため息をついた。
「あなたのおそばに……いたいのです。おそばにいてあなた様を護ってさしあげたい。ただそれだけです」
「……それは……気持ちは嬉しいが、私はもうここを去るのだぞ?」
「ですから、いっしょに参ります」
「なんだって!」
 王子は首をふり、たちあがった。
「セダス公を討つために行くのだ。場合によっては命を落とすことになる。そんな危険なことに、そなたを巻き込むわけには」
「……なぜ、いけないのですか?」
 そう聞かずにはおれなかった。王子は真剣な表情で、エリアスを止めようとしていた。
「そなたにはそなたの人生がある。……幸せになってほしいからだ」
「しあわせ?」
「そなたほどの腕があれば、雇い主には事欠かないだろう。兵士として生きるなら、よい主君を見つけて……」
「殿下!」
 おもわず王子の言葉をさえぎってしまった。失礼にあたるとかそういう意識よりも、王子の口からそんなことを聞きたくないという気持ちが強かったのだ。
「……エリアス」
 言葉ほど、気持ちを伝えるのに不自由なものはない。いま自分がどれほど王子を失いたくないかを伝えたいのに、よい言葉が思い浮かばなかった。
 おもわず手が伸びていた。
「……!」
 エリアスはアルクマルト王子のほうへかがみこむと、つよく抱きしめていた。その身体ははじめて会った夜に比べれば、肩や背中の骨のういた感じがへってよりしなやかになっていた。
 酒場で会ったときのことが、今でも鮮明に思い出せる。
 みずぼらしい身なりをしているくせに、内からにじみでる輝きを隠しきれていない流れの詩人だった。どこにいるかわからない王子を探すことなど夢物語だと思っていたのに、見つけ出してしまったのだ。
 あのとき王子に会わなければ、いまのエリアスもなかっただろう。ずっと傭兵暮らしかどこかの国で兵士になって、本気で人を愛することも知らずに生きていたはずだ。
「無礼は承知です……。ですが、これだけは……お聞きください」
「……」
「わたくしの主君は、あなただけです」
「……えっ」
「あなただけのために戦い、生きていきたいのです」
「……」
「それがわたくしの幸せなのですよ、殿下……」
「……」
 もっとなにか言わねば伝えねばと思うのだけど、こうやって王子の身体を抱きしめていると、どうしても気持ちが昂ぶってしまう。それでなくても、王子の身体からはほんのりと香油の香りがしてエリアスを惑わせるというのに。
「あなたが好きです。愛しています」
 焦りもあって、ついそんな言葉が出てしまった。目上のものに言うべき言葉ではないのだが、そう言わないと王子には伝わらない気がした。
「エリアス……」
 王子は驚いたように顔をあげた。その頬がほんのりと赤くなっている。
「そ……そなた。本気……なのか?」
「わたくしめが冗談を言っているように見えますか?」
「いや……そういうつもりではく……その」
「?」
「私を抱いたのは、頼まれて仕方なく……だったのでは……」
 アルクマルト王子のほうから誘惑してきたあの夜のことを言っているのだろう。仕方なくもなにも、あれだけ何度も交わったことをそんなふうに考えていることは、すこし残念な気持ちだった。だいたいエリアスはあの時に王子のことを好きだと言ったはずなのだ。
「そんなことはありません」
「……」
「仕方なくで、こう……なりますか?」
 エリアスは大胆にも、王子の手をとりそれを自分の股間へ導いた。
「……!」
「あなたが欲しい。あなたを私のものにしたいのです。だからこんなふうに……」     

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