放浪の王子 第8章 -4-

 サンジェリスはゆっくりと、紙包みの破片をぱらぱらと香炉にくべはじめた。
 ほのかな甘く不思議な香りがただよってくる。旅のあいだは高級な香のことなど忘れてさえいた。
「あなた様には神剣が——天空神のご加護がある。そんなお方を王と崇めなくては神殿の立場もないでしょう?」
「しかし——神剣の主であることと、王として私がふさわしいかどうかはまた別ではないのか?」
「王は一人でなるものではありません。いきなりなれるものでもありません。ですが、王としての資質はじゅうぶんにお持ちだとお見うけしました。神官にまじって働かれるあなたなら」
 神官長はそう言ってくれるが、アルクマルトが躊躇うのはもっと違うところだった。
「だが——私は、その——兄上に……」
「お気になさっておいでか——」
 最後まで言わせずにサンジェリスは言葉を接いだ。
 アルクマルトにとっては、ローディオスに抱かれて悦ぶ自分は許せないものだった。夜ごとにその愛撫を乞うて乱れることは醜いことなのだと、そんな自分に王子としての資格すらないものと思っていた。
 膝のうえに置いていた手がふるえる。忘れようと心の奥に押し込めていた記憶がよみがえってくる。
 サンジェリスはゆったりと立ち上がり、アルクマルトのかたわらにひざまずいた。そしてふるえる手をそっと自分の手で包みこんだ。
「ずいぶんと手が荒れていらっしゃる……蜜蝋の軟膏はお気に召しませんでしたか?」
 香油と蜜蝋を練ったものをアルクマルトの部屋に届けさせたのは彼だったのだ。
「私には——あれは使えない」
「——できるだけ綺麗なお姿のほうが良かったのですが」
 そう、綺麗にしてこいと言われていたのだ。それで念入りに身体を洗いはしたけれど、理由もわからないままに肌や髪の手入れをするのは抵抗があった。
「陛下の……兄上のことを恨んでおいでですか?」
「恨んでいるというよりも——私は」
「……」
「私はただ、自分が許せないのだ」
「……」
「……あんな……あんなこと」
 サンジェリスはアルクマルトの手をとって、そっと立ち上がらせた。そしてアルクマルトのほほに手をあてた。
「殿下がもし、男に抱かれたことを許せないとおっしゃっているのなら、そんなことは王の資質にはなんの問題もないと申しあげておきましょう」
「え——?」
 ほほに置かれた手が、そっとアルクマルトの唇へと移動した。
「ああ、唇も荒れていらっしゃる。——男娼として数多くの男と交わった者でも、神官長になることは出来るのですから」
「……!」
 おどろいてその緑の瞳を見返す。それが誰のことなのかすぐにわかったが納得はしづらかった。
「——まあもちろんそれを悪く言う人もおりましたが。私が神官長に選ばれたのは、陛下かセダス公と寝たからだ、などとね」
「……」
「気にすることなどございません、殿下。あなたがそうしたいならすればよろしいのです」
「そんな——」
 アルクマルトは香炉から立ちのぼるあまい香りに酔いそうだった。それに神官長の話しかたはどこか心を惑わせる。
「人の身体は快楽を欲しがるようにできております。その快楽のかたちは人それぞれ」
「……」
「自分の心と身体に、素直になっていいのですよ」
「サンジェリス殿——」
 では思うままに男に抱かれてよろこべということなのか。素直になれといわれても、いままでそれを心の奥に押し込めて生きてきたアルクマルトには、なかなか納得できなかった。
「自分を否定すれば、心と身体がバラバラになってしまいます。それはとてもつらいことです」
 かつてアルクマルトは気力をうしなって、ただ毎日を横になって過ごすだけになってしまった。ついには自分で食事をとることもしなくなり、侍従たちにむりに流動食を食べさせられるまでになった。侍医がローディオスに荘園での養生をすすめたのは、その状態を見かねたからだった。
「……」
 無理をしていたのだろうか。あの乱れるさまが自分の本当の姿だと認めたほうが楽だったのだろうか。
「長くなりそうなので、お話の続きはまた明日にでも。ですが、殿下。最後にひとつ——」
「——?」
 いつのまにかサンジェリスの手には、小さな容器があった。かれはそこから指先にほんのすこし何かを乗せ、それをアルクマルトの唇にそっと塗った。
 花の香の香油を蜜蝋に混ぜたそのやわらかな軟膏で、アルクマルトの荒れた唇に艶がうまれた。
「ああ、やはり唇に艶があるほうがお綺麗ですよ」
「……」
「陛下に——兄上にお会いしたいと思われませんか?」
「えっ……」
 何を言い出すのだろう。兄——ローディオスに会いたいかなどと、なぜそんなことを訊くのだろう。
 会いたい? 彼のもとから逃げ出したのは自分のほうなのに?
「もしあなた様が会いたいとお思いなら、すこし——お手伝いが出来ると思います」
「兄上に? どうやって?」
 すぐに聞き返してしまうのはなぜだろう。こんなに心が躍っているのは——
「古の秘術で——あなたのお心だけを王宮へ飛ばせることは出来ます」
「そんなことが——できるのか?」
 サンジェリスはそっとうなずいた。緑の瞳がアルクマルトを強く見返す。
「わたくしを信じていただけるのでしたら」
 あれから三年たっている。ローディオスは——兄はどうなっているのだろう。考えないようにしていたのに、考えてしまえば怖ろしいほどせつない。
「——」
 答える代わりに、アルクマルトはサンジェリスの瞳を見つめた。なかば助けを求めるように。
「では、こちらに横になってください」
 長椅子をしめされ、アルクマルトはよろよろとそこに横になる。
「神剣ハーラトゥールを——これはこの部屋に結界を張って、あなた様をお護りするものですから、しっかりと胸に抱いていてください」
 素直に言われたとおりにする。今はそれしか考えられなかった。
 香炉からただよう甘い香りが、いちだんと強くなった気がした。
「目をとじてください。王宮を——あなた様が昔すごした場所を思い浮かべるように」
 不思議な韻律の言葉が、神官長の口から流れだす。パウラスが唱えていたのをより複雑にしたような言葉だった。
 王宮——は古くて大きな建物だった。広くてさまざまな棟にわかれていて、たくさんの使用人をかかえている。
 表は政治をおこなうためのもので、謁見の間や晩餐会のための広間があった。りっぱな王の居室や寝室があり、そして後宮を出た王子たちの居室もあった。
 だが記憶に強く残っているのは、後宮の亡き母の部屋だ。白を基調に青をあしらって美しく装飾されたその部屋で、アルクマルトは一年のあいだ幽閉されていた。
 居間に客間や化粧室もあったけれども、ほとんどそれらを使う機会はなかった。幽閉の最初は手首に鎖までつながれていたので寝室を出ることすらもなかった。
 鎖はしばらくして外されたのだが、その頃にはすでにアルクマルトには逃亡の気力はなくなっていた。
 周囲に紗を幾重にも垂らした豪奢な寝台のある寝室。そこで見た景色がいちばんハッキリと思い出された。今はだれかべつの人間が使っているのだろうか。
 気づけば自分はその寝室に立っていた。
 部屋には誰かがいた。寝台に腰かけてぼんやりとしている。
 波うつ金の髪、高級な生地で仕立てた衣装を身にまとったそれは——
(兄上——)
 アルクマルトの異母兄、ローディオスだった。

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