放浪の王子 番外編1 「誓い」

 夜の静寂が、ひろい神殿をつつみこんでいた。
 刺客襲来の事件があってから、エリアスはアルクマルトの身辺警護を神官長から言い渡されていた。
 昼間はつねに近くに付き従って警戒し、夜は寝所のなかで不寝番をするのだ。エリアスが休息するあいだは世話係のゼルオス、マルス、サウロスの三人が代わりにずっと部屋にいることになった。
 当のアルクマルト王子は四六時中見られている環境に、あまりいい気はしないようだった。一人になれなければ気もぬけないし疲れるだろう。
 それでも相手がなにを仕掛けてくるかわからない以上、こうやって警戒していくほかに方法はなかった。アルクマルト王子は神殿にとっては大事な存在なのだ。
「……」
 エリアスの耳には、眠っている王子の寝息が聞こえてくる。冷えてはいけないからと王子はエリアスのために部屋に火鉢を置いてくれたので、床に座っていてもけっこう暖かい。これだけ暖かいとかえって王子が暑いのではないだろうかと心配になっていた。
 エリアスは以前に王宮で近衛兵として務めたことがあるから、寝ずの番は慣れていた。もともと近衛兵は王族の身辺警護が主な仕事で、部屋のそとで一晩中周囲を警戒する当番もまわってくるものだ。
 ただ後宮では、そとから全体を警護するだけで個々の部屋に近づくことは許されなかった。王の愛妾を住まわせる場所だから男性を不用意に近づけないようになっていたのだ。
 そんな後宮にアルクマルト王子が幽閉されていた間、その部屋でなにがどう行われていたかを、直接見聞きした兵士はいない。ただ王ローディオスが夜ごとに後宮を訪れてアルクマルト王子を寵愛していることだけは、侍従や近衛兵たちも充分すぎるほど知っていた。
 警護とはいえこうやってじっと控えていると、どうしても王子の悩ましい姿ばかり頭に浮かんできてしまう。そんな自分にエリアスはためいきをついた。
 いちども彼に触れないままなら、こんなふうに二人きりで近くにいても、こうはならなかっただろう。抱いてしまったから、その身体を知っているから、それが心を乱すのだ。
 そばにいても自分の意のままに抱くことすらかなわない。だからこそつい淫らな想像をしてしまって、そんな自分にあきれてしまう。
 センティアットに来てからは、とても二人きりでそういうことをする状況にはなれなかった。刺客のことがあってからはアルクマルト王子の身辺はつねに人がいる状態である。
 ふたりで夜を過ごすことはあきらめているものの、好きな相手のそばにいれば考えてしまうのが男というものだ。
「う……ん」
 王子はどうやらなんども寝返りをうっているようで、寝具のこすれあう音がひんぱんに聞こえてくる。寝苦しそうな感じだった。
 夜のあいだは世話係の神官たちはおらず、警護はエリアスひとりに任されていた。神官長によると、神剣がそばにあればアルクマルト王子は護られているという。彼に傷をつけられる者はいないというのだ。
 だがなにごとにも万が一ということがある。
 夜は神殿のなかも行き交う人が少なく、そのぶん警戒を強めなければならなかった。もちろん夜間にも神官が見回り当番をしているのだが、夜陰に乗じて入り込んでくる者もいるかもしれない。腕の立つ刺客にとって、剣を持ったこともない神官などものの数にも入らないだろう。
「……あ……」
 夢でも見ているのか、寝台のほうから王子の悩ましい声がした。
「い……いや……。……ゆるし……っ」
「……?」
 じっと控えているべきなのだろうが、アルクマルト王子はこんなに寝言を言うことはない。それが気になって、思わずエリアスは立って寝台に近寄った。寝台横の小卓に置かれた燭台の蝋燭に手燭の火をうつし、部屋を明るくする。
「……あ……っ……それ……だ……けは……」
「殿下?」
 顔をのぞきこめば、アルクマルト王子はうなされているようだった。苦しそうなしかしどこか色っぽい表情で、なにかを押しのけようともがいている。
「……たす……け……あ……あっ……」
「殿下……」
 エリアスはそっと王子をゆさぶった。悪い夢を見ていてはいけないと思った。
「……あっ」
 短い悲鳴をあげて、アルクマルトが目をあけた。汗で髪が額にはりついている。くびすじにも汗がにじんでいた。
「殿下」
「……」
 ここがどこか確かめるようにその視線がさまよう。それがエリアスの顔を見つけたとたん、王子は頬をほんのりあかく染めた。そしてぎこちなく目をそらした。
「お気を……たしかに」
「……」
「暑くありませんか?」
「……あ……あつい……」
 寝苦しいから悪い夢を見たのではないだろうか。彼がかぶっている羽毛の寝具は、かなりあたたかいものだと聞く。
「お召し替えを……」
「ああ……自分で……する」
 アルクマルトはそう言ってゆるゆると体を起こすと、けだるげに髪をかきあげた。まるで事後を思わせるしぐさに、エリアスはどきっとした。
「どこか……お身体の具合でも?」
 そうたずねる声がふるえてしまう。堪えるのがつらい。ふたりきりでいるのに、その距離がとても遠いのだ。
 ちらりとエリアスを見てから、アルクマルトは顔をふせた。
「だいじょうぶ……。どこも……悪くはない」
「……しかし」
「いいから……。見ないで……くれ」
 どこか恥ずかしそうなその様子を見て、エリアスもやっと察した。王子は夢精したのだろう。夢のなかで誰かに抱かれて。
 寝台から起き上がったアルクマルトは、かなり汗をかいていたようだった。エリアスに背を向けてゆっくりと肌着をぬぎそれから下穿きまで取り去ると、それで下半身をぬぐっている。
 王子も若い男だから、夢精をすることはおかしいことではない。だが、夢のなかで誰に抱かれていたのか。それを思うと落ちつかなかった。
 素っ裸のままのアルクマルトの首や背中の汗を、エリアスはそっときれいに拭いた。
「ありがとう……」
 こちらを向いたアルクマルトのほほがまだすこし赤かった。
 枕元には着替え用の肌着が置かれていた。亜麻で織られた肌着は、薄くやわらかくて体の線にそうような仕立てだった。寝具があたたかいので、それ一枚だけ着て寝ているらしい。
 どうどうと裸になったり下穿きもなしに肌着一枚だけだったり、まるで男を誘うようなことをしておいて自覚がないのが困ったものだ。
「暑いようなら……火は消しますので」
 汗をかくほどなら、よほど寝苦しかっただろう。それとも、汗をかいたのは見ていた夢のせいなのだろうか。
「それでは……そなたが寒いではないか」
「わたくしは慣れております。……殿下にはゆっくりお休みいただきたいのです」
 冷え込む夜にそなえて、エリアスも厚手の毛織りのマントを羽織っている。王宮での不寝番はもっと冷える廊下だったし、長時間立ったままで務めていたからかなりきつかった。それに比べれば今こうやって王子の寝所を見守ることは、気は張るけれども体はずっと楽だった。
「……私は」
 アルクマルトはそう言うと、エリアスの手をとり両手でつつみこんだ。
「……?」
「私は……ただ、そなたに寒い思いをしてほしくないだけだ」
「……殿下」
 アルクマルトの手がじんわりとあたたかい。
 エリアスは不思議な気持ちだった。王子が何を言いたいのかよくわからないけれど、自分のことを気づかってくれているのはわかった。
 初めて会った日に、床で寝ると冷えるからと寝台を半分あけてくれた。孤児として育ち兵士として生きてきたエリアスにとって、目上の人間からそんな好意を示されたことは初めてだった。
 王子と言っても遠くから目にしたくらいしかない相手で、神官たちが彼こそ王だと言うから、探索の命を引き受けただけ。
 それがいま、自分の手をあたためてくれている。
 東方の美姫と称された亡き王妃によく似た顔立ちは、とても魅力的だ。それに惹かれなかったといえば嘘になる。だが本当に惹かれたのは——
「……冷たいな」
「……」
「部屋はあたたかくても、床に座っていては……冷えるだろう」
「……」
 いまここで抱きしめたい。いや、出来るものなら自分だけのものにしてしまいたい。
 こんな状況下でなければ、きっとその足もとにひざまずいて請うただろう。貴方を抱いてもいいか、と。
「そなた、私といっしょに寝台で……番をしてはどうだ?」
「えっ?」
 その意味を判じかねて、エリアスはただ青い瞳をじっと見かえした。誘っているふうには見えない。だが寝台で一緒に寝ようと言っているのだから、そういう意味にもとれる。
「床は冷えるが……寝台ならあたたかい」
「……」
 王子のとなりにいて、冷静に不寝番を務められるわけがないだろう。その寝顔を一晩中だまって見ていろというなら、それは苦行にちかい。
 それとも、抱いてもいいと言っているのだろうか。
 意味を問いただせば、王子は答えてくれるとは思う。だが訊いてはいけない気がした。
 おそろしいほどの迷いと葛藤のすえに、エリアスはそっと首をふった。
「いけません、殿下。……あたたかい寝台で寝てしまっては、あなたをお守りすることが出来ません」
「エリアス……」
「わたくしの役目は、殿下に安心してお休みいただくことです」
「……」
「お心遣い、感謝いたします」
「そうか……」
 前にもこうやって、王子の気持ちを無碍に断ってしまったような気がする。だが一番大事なものを見失ってはいけない。いまはここで彼の安らかな眠りを守らねばならない。
 エリアスはふたたび寝室の扉の前にもどった。しばらくして、アルクマルト王子がなにか持って近づいてきた。
「これを……下に敷くといい」
 見ればそれは、寝台に敷かれている羊の毛皮だった。やわらかな毛並みで肌触りの良い高級なものだ。
「……しかし、これは」
「いいんだ。暑いくらいだから」
 貴人用の品を自分が使うわけには——その言葉をエリアスはのみこんだ。自分を見る王子の瞳に不安げな色が浮かんでいるのを見てしまったからだ。
「ありがとうございます」
 そう答えて受けとると、王子は嬉しそうに微笑んだ。その顔を見てエリアスもホッとした。
 ふたたび寝具にもぐりこむ王子を離れたところから見守る。床に敷かれた毛皮はとても良い手触りで、ほんのりとあたたかかった。
 王子の体温を感じながら、エリアスは心が昂ぶるのをおさえきれなかった。
(ああ……殿下)
 自分のような男にこうやって気づかいを見せてくれる王子が、愛おしくてたまらない。
 許されなければその身体には触れることは出来ないけれど、そばにいればこうやって心で触れあうこともできる。少しでも——王子が自分に好意を持ってくれているのなら、今はそれでじゅうぶんだと思えた。
(あなたをお守りいたします。なにがあっても……)
 ひっそりと心のなかで、誓う。自分にできることはそれしかないのだ。
 ふたたび夜のしずけさがおとずれた。朝までアルクマルト王子がうなされることはなかった。

目次へ