放浪の王子 第14章 -2-

「ベレウス殿、炊き出しの人員が足りないようです」
「承知しました。……今日は棟内の清掃にあたっている当番もみな炊き出しに回るように!」
 神官長サンジェリスが礼拝所の裏手に来てそう告げると、ベレウスはすぐに神官たちに指示を出した。
 神殿は巡礼の民に炊き出しをしてねぎらっているのだが、今日も王子目当ての人々がたくさん集まってきたために、目が回るような忙しさになったようだ。そろそろ陽も傾こうかという午後の遅い時間であったが、神殿はいつもの静けさとはうらはらに、あわただしく人が行き交っていた。
 アルクマルトが礼拝所から客間へ戻ろうとするのに、ちょうどサンジェリスが付き従ってきたところである。
「しかし驚きました。ここの保存食の備蓄量は、神殿のなかでも群を抜いていますね。この騒ぎももう五日になりますし、炊き出しもかなりの量になっているというのに、あまり減ったように見えません」
「巡礼の民もおおく訪れますし、保存食が足りずに冬の終わり頃に食べるのに困る民もけっこう出ますのでね」
「備えあれば憂いなしですか……。おかげで助かります」
「なんの。それがわたくしめの務めでございますれば」
 そのやりとりを見ていたアルクマルトは、
「私にできることがあれば手伝うが……」
 と声をかけた。
 ここに来てからずっと客人扱いなのがすこし居心地悪かった。できればバルームのときのように、なんらかの作業に従事していたいと思っていた。
 しかし上級神官ベレウスは首をふった。
「いいえ、殿下。お気持ちはたいへんありがたいのですが、あれこれごった返しておりますれば、表に出ることはお控えくださいますよう……」
「そうか。しかし……私だけなにもしないわけにもいかぬ。裏方の仕事でもなんでもかまわないのだが……」
 サンジェリスがほんのりと微笑んだ。
「おそらく今は神殿内どこもあれこれ忙しくしておりましょう」
「……」
「殿下。……剣の稽古はなさいませんか?」
「あ、ああ。稽古をしてもかまわぬのか?」
「あざを作るほど激しい稽古はおやめいただければ。……エリアスには殿下のお部屋周辺の警護を命じてありますので、おそらくすぐ見つかるでしょう」
「そうか、わかった」
 身体を動かしたかったこともあり、アルクマルトはすぐ自分が滞在している客間のほうへと向かった。人前に出るからとすこし重々しい長衣を着せられていたので、エリアスをさがすまえに、動きやすい恰好に着がえようと思ったのだ。
 礼拝所の人員整理や巡礼たちの炊き出しでかなりの神官が表のほうへ出払っているためか、すれ違う者はすくなかった。
 客間の扉をあけようとして、アルクマルトはふと動きをとめた。
(人の気配——?)
 部屋のなかに誰かいる。
 世話係の誰かだろうか。それならば部屋の中にいても不思議ではない。
 しかし、不穏な気配をつよく感じた。今このなかに踏み込んではいけないという勘のようなものが、アルクマルトの動きをとめる。
 そっと部屋から離れようとしたとき、腰に帯びた神剣が柱に当たって音をたてた。
(しまった……!)
 気づかれたか。
 おもわず柄に手をかけた。するりと抜くや、それを右手に持ち様子をうかがう。
 背後から、若い神官の不審げな声がした。
「どうなさいました、殿下? なにかございましたか?」
「——!」
 つぎの瞬間、頭巾をかぶった小柄な男が部屋から勢いよく飛び出してきた。手に小ぶりの剣がその刃を光らせていた。
 扉から目をそらさなかったアルクマルトには、その男が自分にむかって斬りかかってくるのがハッキリと見えていた。
 身体はしぜんに動いていた。相手が振りかぶったその剣を右手に持った神剣が受けとめる。
 鋭い音とともに、刃が青白い光を帯びた。
 重い手応えは、エリアスと稽古をしているときの比ではない。本気で斬りにきている。
「ひっ……ああ……っ」
 神官の声がした。恐怖ゆえか、その場に座り込んで動けなくなったらしい。様子を見てやる余裕はアルクマルトにはなかった。
 気をそらせば自分が斬られる。相手はそう確信できるだけの手練れだ。間違いない。
(速い……!)
 相手の動きはおそろしく素早かった。そのうえ短めの刀身は波状攻撃をくりだすのに好都合だ。無言のままなんども斬りかかってくる相手を、アルクマルトは間一髪のところで避けていた。
 訓練された動きだった。ただの物盗りでないことは明らかだ。
 鋭い金属音がひびく。
 打ち合いになれば防戦一方のアルクマルトのほうが不利だ。なんとか状況を変えたいところだが、相手の攻撃を避けるのがやっとで、自分から斬りかかることすらできない。
 押されて後じさったとき、アルクマルトは回廊の段差に足を取られた。
(しまっ……)
 相手から目を離さないままで体勢を立てなおすことはできず、おおきくよろける。
 仰向けにたおれたアルクマルトの目に、自分の胸をめがけて振りおろされる剣が見えた。
(……!)
 にぶい嫌な音がした。剣が肉をつらぬく音だった。同時に、なまあたたかいものがビシャッと上半身に降りそそいだ。
「な……なぜ……だ……。なぜ……はずし……」
 アルクマルトを襲った男が、苦鳴にもにた声をもらした。彼の目は、信じられないものを見たかのように、見ひらかれ血走っていた。
 その胸からは、長剣の切っ先が突き出ていた。
 降りそそいだのはその男の血だった。あたりに生臭いにおいがたちこめる。
 彼が振りおろした剣は、たおれたアルクマルトの肩をかすめただけだった。
 胸をつらぬかれてなお、男は剣を持ち直そうとした。だが次の瞬間、その腕は切って落とされた。ふたたび血がほとばしる。彼はそのまま横倒しに倒れた。
 アルクマルトは倒れる男のうしろにエリアスの姿を見た。けわしい表情で抜き身の剣を手にした彼もまた、おなじように返り血を浴びていた。
 男が動かなくなったのを見届けると、エリアスはアルクマルトに駆けよってきた。そして剣を地面に置くや、力強くアルクマルトを抱き起こした。
「殿下!」
「……あ」 
「ご無事ですか!?」
「……」
 まさかここでエリアスが現れるとは思ってもみなかった。おもわずその腕にすがりついていた。
「殿下……?」
 長衣の肩口がすこし切られたようだが、意識するほどの傷はない。それよりも斬られたと思ったはずの自分が無事なことに、アルクマルトは動揺していた。
 何も言わないアルクマルトを案じたのか、エリアスはそっと顔をのぞきこんできた。
「お気をたしかに……」
「あ、ああ……」
 回廊にバタバタと足音がひびいた。サンジェリスとベレウス、そして何名かの神官が駆けよってきた。
 さきほどの若い神官はまだ腰を抜かしたままだ。だれかが伝令に向かった様子もなかったのに、異変にきづいたらしい。
「殿下!」
 サンジェリスは焦ったような表情でアルクマルトのよこにひざまずいた。あたりは血の海という悽愴な光景だが、それには動揺していないようだった。
「神剣を抜かれましたね? なにごとかと思えば……!」
 彼はかたわらのエリアスに視線を向け、説明をうながした。
「どうやら殿下の留守をねらって、部屋にひそんでいたようです」
「……どこの手のものです? 生きて捕らえることは無理でしたか?」
「申しわけございませんが、殿下をお助けするためには、斬らねば間に合いませんでした」
「そうですか。……ああ、殿下。ご無事でようございました」
 神官長はそう言って、よこに控えていた神官になにやら命じると、
「血まみれでご不快でしょう。すぐに湯殿で湯浴みをなさいませ。エリアス、そなたも」
 ふたりに湯殿の方角をさししめした。
 アルクマルトはゆっくりと自力で起きあがり、抜き身の神剣を鞘にもどした。
 自分の髪や衣服から血がしたたっている。不快なのはたしかだが、不用意にこのまま歩いていけば神殿の中を汚してしまう。
 長衣をぬぎ、それでしたたる血をふきとる。すこし高級な仕立ての長衣だったが、これだけ血を浴びてしまえばどちらにしろもう着ることはできないだろう。
 いっそここで裸になったほうがすっきりして良いのだが、さすがにそこまではしなかった。
「殿下、わたくしめが湯殿までお連れいたします」
 エリアスが浴びた血は、まだアルクマルトより少ないようだった。
「ああ……たのむ」
 置いていた剣を取り上げ、血糊をふりはらって鞘におさめると、エリアスは自分の長衣を脱いでアルクマルトをくるんで抱き上げた。
 サンジェリスはすこしぼんやりしているアルクマルトを心配したのか、
「ここの湯殿は、お部屋で湯浴みなさるよりも広うございます。どうかお心が鎮まられるまでゆっくりと……汚れをお落としくださいませ」
 そう声をかけてきた。
「ありがとう……。気づかい感謝する」
 アルクマルトはなんとか笑顔をつくって彼にそう答えた。

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