放浪の王子 第1章 -2-

 教えられた一角に立ち並ぶ酒屋の中から、いちばん大きく賑やかな声のもれる店の扉を、彼は開けた。
 むっとする酒の匂い、男の匂い、女の白粉の匂いが濃くたちこめていた。
 確かに飲んでいる客は姿形からして兵士らしい。しかもほとんどが傭兵のようだった。
 入ってきた彼をみて、幾人かが杯を持つ手を止めた。踊り子もまた呆気にとられたように酌をする手を止める。
「おい、ずいぶんと……」
「流れの詩人か?」
 ひそひそと話す声が聞こえてきたが、その中を邪魔にならないように歌人は歩き、カウンターの奥にいる主人らしき男に話しかけた。
「失礼、ご亭主ですか?」
「……ああ、そうだが」
「こちらの店で唄わせていただきたいのですが」
 禿げた頭に細い目の亭主は、じろりと歌人を見ると意地悪そうに言い放った。
「あんたの商売は、歌か? それとも身体かね?」
「……歌です」
「その顔じゃ、身体のほうが実入りが良かろう?」
 そういうことは言われ慣れているのか、詩人は顔色も変えずに微笑んだ。
「……お邪魔いたしました」
 すぐにも商売の許可がおりないとなれば、出直したほうが良いのだ。男の詩人はしばしば男娼と見なされるし、そういう存在を快く思わない人間も多い。
 だが引き返しかけた詩人を、客の男たちが引きとめた。
「おいご亭主! 年増ばっかの女よか、こっちのほうがよっぽどかわい子ちゃんじゃねえか」
「本当だ。よく見りゃ綺麗な顔してるぜえ」
「まだ若いねえ、兄ちゃん。いくつだよ?」
「商売させてやりな! 歌でも身体でもいいじゃないかよ」
 酔っているとはいえ、客にこう言われては店の主も反対はしきれない。
「わかった。……商売してもいいぞ」
 カウンターの奥からむすっとした声が届いた。詩人はやや表情をゆるめて、
「ありがとうございます」
 と、礼を述べた。その物腰は村人たちが驚いたように、どこか優雅で高貴な匂いがした。
 客の多くはもうすでに出来上がっているらしい。踊り子たちの酌もあまり進んではいない。来る時間が遅かったためだろう。
 小さな椅子を借りると、竪琴を取り出して指先で軽く鳴らす。
 すぐ横の卓で飲んでいたこれも傭兵らしき出で立ちの男が、おもむろに話しかけてきた。
「おまえさん、名前はなんて言うんだ?」
「キリークと申します」
「そうか……いい名だ」
「お、エリアス。さっそく口説いてるって?」
 まわりから茶化した声がとんでくる。エリアスと呼ばれたその男は、淡い茶色の髪でがっしりとした体格の持ち主だった。
 エリアスはなおも話しかけながら手を伸ばして、キリークの髪を指でもてあそんだ。
 酒場でこういったことは日常茶飯事であるから、詩人はとくに表情も変えない。
「……おまえさん、アルダーナの古謡は唄えるのかい?」
 詩人は驚いたように弦を調整する手をとめた。
「え? は、はい」
「そいつは良かった。俺はアルダーナの出身でね」
 それを聞いて、周囲の男たちが口々に声をあげた。
「おいおいエリアス、それヒミツじゃねえのかい?」
「この砦じゃ、アルダーナの狂王の侵攻にビクビクしてるってのによ」
 傭兵の出身地はバラバラである。中には侵略の目的地が故国であるとわかっていて雇われ赴く傭兵もいる。
 彼らは生活の糧、金のために郷愁は捨てる。それゆえにさげすまれることもあるが、天涯孤独の者が多く故国への深い思いを持つ理由がさほどないのだ。
 エリアスは杯をあおりながら苦笑いした。
「いいじゃないか。酒の席のことだ。……まあちょっとばかし昔を思い出してもいいだろう?」
「……さては、イイ子がいたってか?」
「まあな。……というわけで頼むよ」
 この男は他の兵士たちほど勢いよく酒を飲んではいないようで、まだ酔いが浅いようだった。
 うながされて、詩人はうなずいた。
「わかりました。……お好きなものはありますか?」
「古謡でかい? そうだな、こんな席でなんだけど……猛き王ハダラーと麗しの君シャロナの悲恋のやつがいいな」
「……はい、では」
 流れの詩人は流行り歌には強いが、古謡を唄えるとなると限られてくる。特に古語を多用するものは難しく、それなりの師匠に習って身につけねばならない。
 この年若き詩人はとくにためらいも見せず、すぐに竪琴を奏でながら歌いはじめた。
 酒場のざわめきが次第に穏やかになり、そのうちに皆がその歌に聞き入り始める。
 透明な歌声にのって語られる独特の響きは、なじみがないが神秘的に聞こえるものだった。古い言い回しではあるが内容がわからないわけではないので、かえって新鮮に響いたかもしれない。
 アルダーナ国の伝説の王と美しい村娘の恋が、やがて悲しい結末を迎えるその顛末に、みなしばし聞き耳をたてた。

 竪琴の音が止まるとともに、大きな喝采が起きた。それは逆に詩人を驚かせたようで、彼は周囲から口々に寄せられる賞賛の声をぽかんとした表情で聞いていた。
「こいつあいい。おまえさんなんだって、こんな流れで歌ってんだい?」
「……本当に、お金持ちがいくらでも召し抱えてくれそうな腕前じゃねえか」
 歌を望んだエリアスでさえ、感嘆の表情でうなっていた。
「まいったね。古謡をこれだけ唄える詩人は少ない。……おまえさん、たいした師匠についていたんじゃないのか?」
「え……いえ、それほどでも」
 見開かれた青い瞳は、あきらかに戸惑いの色を刷いていた。
「どうした? 歌った本人がそんな顔をするとは」
「……こういう場所で古謡を唄ったことはありませんでした。流行りの歌ばかりでしたし……」
 こういった賞賛を受けるのに慣れていないのだ。
「もっと他の歌も唄ってくれるかい?」
「ああ、俺も頼みたいのがある」
 男たちが望んだのはさきほどのような古謡ではなかったが、詩人が気軽に応じるとみなはいちいち感心して聞き入っていた。
 かなり夜も更けてきた。男たちの盛りあがりぶりを心配したのか、エリアスはやや横目で睨みながら、
「もうそろそろ明日に備えて砦に帰る時間帯だろ。…ほどほどにしておこうぜ」
 と声をかけた。実際にテーブルに伏せていびきをかいている者もいるくらいだ。
「へーへー、エリアスは真面目いい子チャンだねえ」
「……帰るか、おい。起きろよ」
「え……せっかく良い夢見てたのに……起こすなよ」
 傭兵たちはそろそろと腰をあげはじめる。中には踊り子をともなって二階へと消えていく者もいた。
 詩人の前には何枚かの銀貨や銅貨が積み上げられていた。これだけあればこの宿に1週間か十日くらいは泊まれそうな額である。金回りと気前がいいのが傭兵とは言え、思ったいじょうの収穫に詩人はおそるおそるそれを懐におさめた。
「悪かったな、商売の邪魔をして」
 エリアスはキリークという詩人にあやまった。
 あのまま放っておけば一晩中でも唄えたかもしれないが、傭兵たちには明日も砦の警備という仕事がある。それを止めさせたことを詫びたのだ。
 詩人は首をふって答えた。
「いえ、今日は充分商売させていただきましたから……」
 言葉はとちゅうで止まった。エリアスのごつごつした手が、彼の白い頬をすっと撫で上げたからだ。
 その手は右の頬から耳にかけて、黒い髪をかきあげるようにした。詩人の右耳には金色の小さな耳飾りがきらりと光っていた。
 キリークは動かない。その彼に向かって、エリアスは静かにつぶやいた。
「今夜ひと晩、おまえさんを欲しい。……どうする?」
「!」
 表情はこわばったが、キリークはすぐには答えなかった。横を通って砦に引きあげる傭兵たちがからかいの声を投げてよこす。
「やっぱ口説いてるじゃねーの」
「……二人きりになりたかったんだろ」
 エリアスは外野の声を気にしたふうもなく、じっとキリークを見つめていた。
「欲しいっていっても、何もしやしないよ。……ただちょっと懐かしくて……故郷のことを話したくてな」
「それは……」
「おまえさんの時間を買うのだから、金は払うさ」
 詩人は目のまえの男をじっと見た。先ほど見たとおり、そう酔ってはいない真面目そうな表情で、エリアスは見返した。
 やや戸惑うような沈黙ののち、詩人はそっとうなずいた。

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