放浪の王子 第6章 -4-

 そのまま、抱きあげられたまま金の楓亭の部屋までもどってきた。エリアスはそっと寝台のうえにアルクマルトをおろすと、そのまま床に膝をついて頭をさげた。
 安堵のため息のようなものが聞こえた。おそらく男に絡まれているアルクマルトを見て肝を冷やしたのだろう。
「ご無事で……ようございました……」
「……」
「……どこか、お怪我などはありませんか?」
「……」
「殿下」
「だいじょうぶ……。ちょっと腕をひねられたくらいだ」
「……お見せください」
 アルクマルトは羽織っていたマントを脱いだ。袖口をまくりあげると、腕に青痣がついていた。
「これは……」
「痛いが、動かすのは問題ない」
「骨は大丈夫のようですね。……痛むようなら湿布をいたしましょうか?」
「いや、そこまでしなくていい」
「さようですか」
 けっして責めるようなものの言い方はしない。それは立場の違いをわきまえているからなのだろうが、それだけの距離をも感じさせた。
 がっしりとした体躯をきゅうくつそうに折り曲げている姿も、すっかり見慣れてしまった。上から見ると、みじかい茶色の髪もはじめて会ったときよりずいぶんと伸びていた。
「エリアス……」
「はい」
「そなた、望みはなんだ?」
「えっ?」
 自分でもなぜそんなことを聞いてしまったのか解らなかったが、アルクマルトは彼のその真面目そうな淡い灰色の目をじっと見た。
「望みはなんだと聞いているのだ……」
「——それは、あなたさまを無事に送り届けることです」
 予想どおりの答えだ。だが聞きたいのは任務としての答えではない。
「ここに座れ」
 アルクマルトは自分のよこを指ししめした。エリアスはとんでもないというふうに首をふったが、アルクマルトはその遠慮を許さなかった。
「いいから。——私がここに座ってくれと言ってるのだ。そんなふうに膝をつかれては、話をすることもできないだろう?」
「殿下——」
「ここでは私とそなたの二人だけだ。誰も見ていないのだから、何も気にすることはない」
「……はい」
 押し問答になりそうだったからか、エリアスはそうそうに折れた。こういうやりとりは初めてではないし、兵士であるエリアスは結局は目上であるアルクマルトに従わざるを得ない。
 ならんで腰かけると、アルクマルトはエリアスの目をのぞき込む。ひざまずかれていては、顔をまじまじと見ることすら出来ないのだ。
「エリアス」
「はい」
「ずいぶんと世話になってすまなかった」
「……えっ」
 どう反応して良いのかわからないといったようすで、エリアスはアルクマルトを見返した。
「どうか——なさいましたか?」
「いや。ここ何日かは、とくに過大な迷惑をかけてしまったので——」
「……」
「……出来るなら詫びもかねて礼がしたかった」
「殿下……そんな」
「だが、よく考えればそなたにやれるものも無いしな……。だからせめて少しの時間くらい私のことを忘れて、羽を伸ばしてほしいと思ったのだ」
 そう、いまのアルクマルトはなにひとつ部下にしてやれることが無いのだった。王子といっても幽閉されたあげくに逃亡した身である。
 エリアスはふっと表情をゆるめた。
「殿下——わたくしめはそのお気持ちだけでじゅうぶんです」
「……」
「そもそもあなた様になにかしていただきたくてこの任務を引き受けたわけではありませんから」
 一歩間違えれば自分も命を落とすかもしれないような任務である。それでも引き受けようと思うものが神殿とエリアスのあいだにあるのだろう。彼は神殿直属の孤児院で育った孤児だと言っていたし、それなりに恩義を感じてのことなのかもしれない。
「エリアス……」
「それに殿下にご無理をさせてしまったのはわたくしですから……」
「——そうか」
 肩をおとしたアルクマルトを見て、エリアスは口をひらいた。
「殿下、ひとつだけ——良いでしょうか?」
「なんだ?」
「詩をお聴かせいただけますか?」
「えっ……詩か?」
「はい。お会いした日に聴いてから、ちゃんと聴くこともありませんでした。殿下はよく馬の世話や水浴びの時に練習をなさっておいででしたが……」
 唄うための声は練習を怠ると出にくくなるので、アルクマルトは日頃から発声練習をする癖がついていた。それはエリアスと旅をして酒場でかせぐ必要がなくなってからも続いていたのだ。
「——わかった」
「ありがとうございます」
「ただ、ここではやめておこう。道中のときにでも……」
「はい」
 エリアスは嬉しそうに笑った。それでアルクマルトの気持ちもすこしなごんだ。
 部屋付きの小間使いが夕食まえの茶を運んできたので、二人はそのまま寝台に腰かけて茶を飲むことにした。すがすがしい香りのする茶葉で入れた茶はなかなかの味で、これはやはり町一番の宿ならではだろう。
 エリアスが飲み終わった茶器をそっと寝台脇の小卓に置いた。
「殿下、さきほどの男ふたりですが」
「……?」
「ただの町人ではなさそうでした」
「ああ……顔に傷があったな」
「ええ、あれは剣で切った傷痕です」
「……」
 つまりあの男は剣で切られるようなことを普段からしているということだ。
「体つきから見ても、ふつうの農夫や町人のものではないしょう」
「ならず者か……」
 町の中で男を手籠めにしようするあたりも普通ではないが、彼らにはそれだけの自信があったのだ。町の人間が多少のことは目をつぶるだろうという。
「もしかしたら、このあたりに出るという夜盗の一味かもしれません」
「……」
「あしたは早めに発ちましょう。それから——殿下」
「なんだ?」
「こんどは山越えはやめておきます。すこしこの町では目立ちすぎましたが、山越えをするために逗留していたのは知られておりますので、あえてちがう道を行こうと思います」
「ではアスル山を迂回?」
「はい。そのままアルダーナとラスデラとフィオリの三国の境にある砦に向かいます」
「ベナスの砦? あそこはいちばん警備が厳しいところだぞ」
「それは承知のうえです。……あそこをこえる手段はございます」
「……どうやって?」
 アルクマルトも飲み終えた茶器を卓に置いた。
 国境にある砦はどこも警備が厳しいのは当然だが、とくにベナスの砦は造りも頑丈で兵の数も多く、検問所というよりは城塞である。そんな場所に黒髪で青い目の若い男を調べるようにという通達が出ていないはずはないだろう。
「砦の手前にシフェという小さな村があります。……そこにひとりエルフィード神殿の神官がおります。委細は彼に……お任せください」
「神官に?」
「はい」
 いつもながらエリアスには驚かされる。さまざまな情報に精通しているのはもちろんとして、状況と照らしあわせて冷静な判断ができるというのは兵長クラスである。
 惜しい、自分の部下であれば——ふとそう思った。
 食事が部屋に運ばれてきた。若鶏をじっくりと炙ったもの、新鮮なチーズと栄養豊富なパン、豆のポタージュなどかなり贅沢なものだった。
 アルクマルトは黙って食べることに専念した。エリアスに聴かせる詩のことを考えながら。

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