放浪の王子 第5章 -1-

 アルクマルトとエリアスの二人は、フィオリ公国へ入り目的のアスル山のふもとに着いていた。
 おだやかな田舎をたどってイディオル国から南下する旅は、比較的に落ちついたものだった。
 追っ手らしき者に遭遇するかと二人は終始気を張ってはいたが、いまのところは無事に旅をすすめていた。
 旅の合間アルクマルトはエリアスと、木の枝を削った模造の刀で打ち合って汗を流し、そのあとふたり川で水浴びをするのが習慣になっていた。
 最初のころは打ち合いですぐ息切れしていたアルクマルトだが、日がたつごとにそれが減っていき、エリアスも驚くほどの上達を見せた。
 アルクマルト王子は宮廷詩人に習って歌が得意だが剣は好きではない、などと王宮内では語られてもいたけれど、その噂がどこまで本当だったのか。
 いやそもそも王宮内でみずから剣をとって戦いに備えようという気概のある王子がいただろうか。
 途中の田舎町でエリアスはアルクマルトのために新しい衣服を買った。
 みすぼらしい衣服からすこしこぎれいな衣服に着替えると、アルクマルトは見違えるようだった。また食事をそれなりに食べるようになったため、痩せて骨が出ていたところが少しずつ目立たなくなっていた。
 アスル山はいわば岩の多い山で、川も木々もかなりすくなかった。そのため何日かかかる徒歩での山越えは避けられていた。
 雨風をしのげる小屋はあるけれども、水と食料の確保がむずかしく、もし徒歩で越えようというならそれなりに水を持ち込まねばならなかった。
 ふもとの小さな町レベトで水を入れる革袋をよぶんに用意し、また馬のための干し草と麦などを買い込んだ。だが山越えに何日もかけていられるほどの飼料になると重くなるのでむずかしいところだった。
 鹿毛の馬はアルクマルトによくなついていたので、アルクマルトも宿では人に任せずに体を洗ってやったりブラシで毛並みをととのえてやったりした。
 秋の終わり、もうすぐ冬がやってくる。フィオリ公国は比較的あたたかい国だが、アスル山は雪も積もるほど高い峰がある。そのふもとレベトの町もかなり高地にあり、平地よりずっと朝晩の冷え込みが厳しかった。
 山越えをするならはやいにこしたことはない。そうそうにレベトの町を後にし、ふたりはアスル山へ向かった。

「殿下……お体の具合はいかがですか?」
 エリアスは馬上のアルクマルトに声をかけた。すこし体調をくずしているらしい。おそらくは風邪だと思うのだが。
「ああ、大丈夫だ。……うかうか水浴びもできない季節になったな」
 剣術の稽古のあとの水浴びで髪をはやめに乾かさなかったためかもしれない。濡れた髪は秋の風で冷たくなってしまい、肩や背中をも冷やしてしまうのだ。
 エリアスはもうすこし様子を見て、体調がよくなってから出発しようと言ったのだが、アルクマルトに押しきられるかたちになった。
 何日も同じ町に滞在すれば、ローディオスの手のものに見つかってしまうかもしれない。それを恐れているのだと思う。
 しかしもう半日以上もかけて山を登ってきてしまっているので、引き返すにしても判断がむずかしいところだった。
 ときおりアルクマルトの様子をうかがうが、本人がとくに何も言わないのでそのまま進んでいた。
 この一ヶ月近くのあいだともに旅をして、王子がものすごく真面目で我慢強いことには驚かされた。
 むろん三年の放浪の間はかなり厳しい生活をしていたのだから、贅沢を言わないようになっても無理はない。何不自由ない王宮と、流浪の歌人としての生活は雲泥の差だ。
 むしろそんな放浪生活でもたくましく生きていたことのほうが驚きだった。ときには下卑た男たちの欲望にさらされながらも、彼なりにせいいっぱい生きてきたのだろう。
 兄であるローディオス王に陵辱されたという話は、本人を目の前にするまでエリアスにはピンと来なかった。しかしアルクマルト王子をこの目で見てしまえば、納得できてしまったのも確かだ。母親によく似た整った顔立ちという噂そのままだったからだ。
 母親である王妃セイラインはひじょうに美しくまた性質の穏やかな女性だったという。彼女を妃にむかえたとき、先王ムートにはすでに愛妾が何人かいたのだが、セイラインに対してはわざわざ後宮の居室をあたらしくしつらえ、何不自由ない環境を与えた。それほど大事にしたらしい。
 しかし王の寵愛をよそに、アルクマルト王子を生んでから病がちになったセイラインは、ついに二人目の子を流産して亡くなってしまった。
 王子は十二歳までは後宮で生活するため、アルクマルトの母親代わりは、ローディオスの母親である愛妾ヴィジェリンがつとめた。彼女は王都ラグートの織物商の娘であるが、行儀見習いとして王宮で侍女として務めているとき王に見そめられ、長男ローディオスを生んだ女性である。
 ヴィジェリンのもとで育てられたアルクマルトは、ローディオスを本当の兄のように慕うようになっていった。六歳年上のローディオスが十二歳になって王宮内の居室に移ってからは、ちょこちょこと足しげくローディオスの部屋に通って、侍従や女官たちを和ませたらしい。
 いまちょうどアルクマルト王子は十九歳だ。いちばん多感な年頃に兄によって幽閉され、王宮を出てさすらい、そしていまは神剣と王位という重荷に立ち向かおうとしている。
 最初はただ任務だからと割り切っていた。だが気づいたら必要以上にアルクマルト王子を気にかけ心配する自分がいる。それがエリアスには不思議でならなかった。
 侍従や女官たちはアルクマルトになんども手を貸した。一度目は失敗して捕らえられたけれども、二度目となる荘園からの逃亡は成功した。むろん二度目のときは神殿も手を貸したのだが、それでも従者たちは進んで計画に加わったのだ。
 そうさせてしまうものが、王子にはあると思う。それとも、まるで侍従のように世話を焼いている自分がおかしいのだろうか。
 山も中腹にさしかかると、ふもとの景色が見渡せてなかなかのものだった。とくに紅葉が見頃だ。
「きれいだ……」
「ええ、見事です」
「サトウカエデかな……糖蜜はフィオリの特産品だと習ったことがある」
「そうですね。村の近くにある赤いところは、サトウカエデの紅葉でしょう」
「甘いものは……女性が好きだな。……妹たちが甘いお菓子ばかり食べていた」
 糖蜜は庶民には贅沢品であるが、王宮ではふんだんに使われていただろう。

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