放浪の王子 第3章 -1-

 小さな窓からはいってくる朝の陽の光と晩秋の空気の冷たさに目覚めたアルクマルトは、となりに人がいるのに驚きあわてて周囲を見まわした。
(そうか、私は……)
 茶色の短い髪のたくましい男の名はエリアスだ。砦の傭兵だが、その正体はアルクマルトを探していた神殿の配下の者である。
 ようやくゆうべの出来事を思いだして、肩の力を抜いた。
 酔ったいきおいで誰か男に買われたのかと焦ったのだ。酒場では客から酒をふるまわれることもあったし、酔わせて身体を無理強いする客もちらほらいた。彼らが人買いであったり枕探しであったりする危険性をも考えて、用心深く避けていた。
 神剣を盗まれたりしたら、アルクマルトを命がけで逃がしてくれた者たちに顔向けできない。そしてやはり知らぬ男に身を任せることを、自分の心身は拒んでいたからだ。
「……お目覚めでいらっしゃいますか?」
 エリアスの声に、アルクマルトは驚いて身をすくめた。
「起きていたのか……!」
「はい」
 アルクマルトを起こさないため、エリアスは目が覚めてもそのまま横になっていたのだろう。
 ふたりは身じたくをしてから階下におりて朝食をとった。
 エリアスは砦に暇を請うからと出かけることになり、アルクマルトはそのままひとりで宿に残ることになった。
 エリアスが交渉したようで、宿の主人は了解していた。エリアスの帰りを待つあいだ、アルクマルトは踊り子たちに教えてもらって宿の裏手の川で水浴びをして身体を清めた。
 まとめた荷物を持ってエリアスが帰ってきたのが夕方だったので、けっきょくもう一夜泊まることになった。その代わり今後のことを相談する時間を作ることは出来た。
 エリアスが夕食を部屋に運ばせたのは、夜になって酒場を訪れた砦の傭兵たちに見られないようにとの配慮だろう。
 マグニスの町は主だった街道からはずれているので酒場の他に宿屋がなく、しかたなく猥雑な宿での滞在になったが、アルクマルトは慣れているのでとくに気にもならなかった。むしろ周囲に聞かれにくいぶん、相談ごとをするには好都合でもあった。

「殿下、いま貴方を連れてまっすぐ西に向かい、王都にはいる……というわけにはいかないようです。いくつかの街道に陛下の手のものがいるとの情報がありますので」
「なんだって……」
「とりあえずこのイディオルから南のフィオリへ抜け、そこからアルダーナの辺境へ入りましょう」
「フィオリからか? もしやアスル山を越えるつもりか?」
 アルダーナの東には農業国家イディオルがあり、イディオルの南に山に囲まれたフィオリという国があった。
 そのフィオリとアルダーナの南端部を隔てているのがアスル山である。
 人を寄せつけないほどの厳しい山ではないが、人がほとんど住んでおらず、水や食料になる動植物に乏しかった。そのため旅人は山には登らずに迂回するのが常だった。
「はい。アスル山のアルダーナ側のふもとの砦には、神殿の手のものがおりますので便宜をはかってくれるでしょう。その近くには小さいながらもエルフィード神殿がございます。そこにたどり着ければあとは楽になりましょう」
「アスル山を越えるとなると、早くせねば冬になってしまうな」
「はい。まんがいちの場合はフィオリで冬を越すことも考えますが、できるなら早いうちに山を越えてしまいましょう」
「できるだけ早く……か。そうだな」
 アルクマルトは王都へ帰れば兄ローディオスと対決せねばならないだろう。王の名乗りをあげたところで、臣下の者が認めねば王にはなれないのだ。
 王になりたいかと問われれば、そうだとは答えられない。そもそも彼は、自分は長じてのちローディオスの臣下になりその治世を助けるのだと、ずっとそう考えていたのだ。
 だがこのままローディオスが国民に負担を強いるようになっていくなら、止めねばならないと思う。
「殿下、路銀のことですが…」
「……?」
「おそれながらわたくしめが、神殿よりまとまった額を預かっております。このからの食事や宿のことなどは、お任せいただけますでしょうか?」
「それは……」
 アルクマルトは少なからず驚いた。必要とあらばはこれからも酒場で稼いで旅をすすめるつもりだった。
 エリアスを見上げると、笑顔でうなずかれた。
「大丈夫です。もう殿下があのような商売をする必要はございませんので……」
「アルダーナに戻るまで、かなりの日数がかかるはず……。それほどの金額を……?」
 食事も宿も、それなりに金はかかるものだ。
 アルクマルトの逃亡を手助けした女官長が用意してくれた路銀は、一ヶ月ほどで底をついた。その間にすこしずつ酒場で覚えた商売のやりかたでなんとか食いつないできた。
 だが水商売というのは波があるものだ。体調が悪くて声が出なかったり、高名な吟遊詩人が町に来ていたりで、まったく稼げない日が続くこともあった。金がなければ野宿するしかなく、食べ物にありつけない日もあった。
 そういう時のためにできるかぎり節約することを覚えた。
 アルクマルトにとって、粗末なパンとシチューですら高いものなのだ。宿屋となるとさらに贅沢だった。
「ご心配にはおよびません。……それよりも、殿下があのように酒場で目立たれるほうが危険かと」
「……それは……」
「失礼ながら、あのようないかがわしい場所でもし殿下のお身になにかあってもいけませんし」
 エリアスの口調からは、旅の心配をする必要がないのだという余裕のようなものが感じられた。
「神殿は……そなたをずいぶんと信頼しているのだな」
 それほどの路銀を一人の男に預けるほどに。
 王宮で生活していたころのアルクマルトには、神殿の存在はただ国の祭祀をつかさどるものだという認識しかなかった。
 だがいざ外へ出てみて驚いたのは、意外にも権力と財力をかなり持っていたことだ。
 所有地からの作物収入だけが神殿の財力ではなかった。商人や貴族などからの寄進もそれなりにあるのだ。
 それだけ民からの信望を集めているということは、王政にとっては脅威でもあった。
 その神殿から任務を任されているエリアス自身もまた、神殿側の人間であることは間違いない。
「わたくしは子供のころ、神殿の孤児院で育ちましたので……」
「そうか……」
 ローディオス自身がアルクマルトを探しているというのだから、それを逃れて自分で国に帰ろうとするなら、神殿の力を頼るしかないだろう。
 エリアスは、微笑みながら遠慮がちに言った。
「衣類でもなんでも、ご不自由があればお申しつけください。できる限りのことは……」
「……エリアス、そこまで気をつかわずとも」
「殿下」
「私は野宿も慣れてるし、着るものも今のままで大丈夫だ」
「はあ……」
 余裕があるからあれこれ買おうと思えなくなっているのが本音だが、今のままでもそれほど気にならないというのも確かだった。
「……すまないな。心配してくれてありがとう、エリアス」
 確かに今アルクマルトが身につけているものは、どれもお世辞にも良いとは言えない粗末なものばかりだ。それを気にかけてくれたのだろう。
「いえ、こちらこそ殿下にお気遣いいただいて申しわけございません……。ですがどうかこれだけは……」
「なんだ?」
「トゥトの町で馬を二頭買おうと思います」
「馬を? 二頭も?」
 アルクマルトは驚いた。これもまた徒歩での行程以外を考えていなかったのだ。
 馬はかなりの贅沢品である。農耕馬でなく騎馬であれば、一頭の値が宿で言えば一ヶ月分の宿泊費にも相当するのだ。
「はい。慣れていらっしゃるとは言え野宿はお体に障ります。宿場と宿場の間がかなり離れている場合などは、やはり馬で移動したいと思いますので」
「私は……野宿でもかまわないが」
 アルクマルトは面食らって思わずそう言ってしまった。しかし馬で旅をすれば格段に楽なのは確かだ。
 野宿は辛い。野獣や夜盗に用心しながら横になってもそう疲労はとれない。気候によっては明け方冷えて凍えるような思いもする。
 エリアスは少しこまったようにアルクマルトを見た。
「……徒歩では、いざというときにあなた様だけお逃がしすることもできませんゆえ」
「……!」
「どうかお願いいたします」
 それはいざという時にアルクマルトだけを逃がして自分は盾になるということだ。この男はそれだけの覚悟をしている。
 アルクマルトはうなずいた。それしか出来なかった。
「わかった……」
「殿下」
「すまないな、エリアス。……なにもかも……痛みいる」
 おもわずアルクマルトは頭をさげた。エリアスのその心意気がありがたくそして申しわけなかった。
 三年前に自分を逃がしてくれた女官長や侍従たちも、おなじように命を賭けてくれた。こんな自分のために。
 兄ローディオスの慰み者であった自分に、そこまでの価値があるのかどうかすらわからないというのに。
 ただ頭がさがる思いだった。それゆえの礼の言葉だったのだが、エリアスは逆に驚いたようだった。
「で、殿下! 私は当たり前のことをしているまでです。礼には及びません。王族のかたがそのように礼を言われるなど……」
 それは王宮にいれば侍従がくりかえし言っていた言葉だった。目下の者が王子のことを考えて尽くすのは当然のことなのだと、そうふるまうよう教えられて育った。
 だがアルクマルトは首をふった。
「おかしいか? だが感謝する気持ちがなければ王族の資格もない……私はそう思う」
「え?」
「王の子であると言うだけで、国民の税で贅沢な暮らしができる。家臣や使用人たちが世話をしてくれて、場合によっては命を賭して護ってくれる。……王族ならあたりまえ、ではない」
「……」
「ただ感謝すればいいというものでもない。その価値にみあったものを民に返さねば……ならない」
「殿下……」
 自分たちが安定して暮らせるなら、その王を尊ぶだろう。そうでなければ忌み嫌うことになるだろう。
 王と民の関係はそういうものだった。
 こうやって流れの民として暮らしてはじめて、わかったことだ。流れの民は定住する民のように王の施政に直接影響されることは少ない。それでも訪れる町が平和で豊かであれば商売はやりやすかった。
「驚きました……」
 エリアスは目を丸くして、嘆息まじりにそう言った。
「驚いた?」
「いえ……。殿下がそういうお考えをお持ちであることに、です」
「?」
「お気に障りましたら、お許しを。……こうやってお会いするまで、殿下のことはあまり……王宮内の噂くらいでしか存じませんでしたので」
 王族の近くに侍るのが近衛兵とはいえ、ちょくせつ身の回りの世話をする侍従たちほど事情には明るくないのだろう。
「そろそろお休みください。明日は早めに出立しようと思いますので」
「……あ、ああ。わかった」
 アルクマルトはうながされるままに上着を脱いで、寝台に横になる。今日も昨日と同じように一緒に寝ることになるが、そのことは別に気にはならなかった。
 ただ、エリアスが自分とローディオスのことを王宮内の噂で聞いたのだとしたらと考え、すこしいたままれない気持ちだった。

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