放浪の王子 第10章 -3-

 神官長サンジェリスは、昼食のとき食堂に姿をあらわさなかった。アルクマルトはミルラウスから、各地の神殿と情報や意見の交換をしているのだと聞かされた。神殿の司となる彼ら上級神官には、遠くはなれた場所と連絡をとることのできる古の秘術がある。
 午後、アルクマルトは神官たちと肉の塩漬けの作業をおこなった。餌がすくなくなる秋には、かなりの家畜が屠殺されてこうやって保存食へと加工されていくのだ。
 たしかにきれいな作業ではない。だが仕事は仕事だ。農村などでは家庭でこうやって保存食をつくるのだというし、自分たちがなにげなく食べていたものは、こういう課程で作られているのだと知ることが興味深かった。
 塩漬けの作業がはやめに終わり、アルクマルトは空いた時間に厩で鹿毛の世話をしてやることにした。
 風は冷たいが空気が澄んでいるため、神殿の外にが出られるなら遠乗りにでも行きたいところだった。
 厩係の神官に中に入れてもらうと、鹿毛がさっそく嬉しそうにいなないた。
「……外に連れていってやれなくて、悪いな」
 そう話しかけながら体にブラシをかけてやる。いちおう昼間は神殿内のかなり奥庭に放しているようだが、もの足りないのではないだろうか。
 アルクマルトは馬の世話をしていると発声練習がてら、つい詩を口ずさんでしまう。これは昔からの習慣だが、唄えるということは自分にそれだけの元気があると知ることでもあった。あと喉の調子がすぐわかるので、風邪の予防もかねている。
「殿下、今日はなんだかご機嫌のようですね」
 厩当番のこのマルスという神官とは、いろいろな作業でよく一緒になっていて何かと教えてもらっていた。それで最近は向こうからもそれなりに話しかけてくれる。まだ十五歳くらいだが、王宮にいたときの自分よりはよほどしっかりした少年だ。
「……そう見えるか?」
「はい、どこか楽しそうに見えます。良いことがおありだったのですか?」
 良いこと——と言われて、とっさにゆうべのことを思いだしてしまい、アルクマルトは頬が熱くなるのを感じた。
「い、いや……ちょっと……まあ……な」
 慌てるあまり、おもわず口ごもってしまう。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。
「よろしゅうございました。楽しい気持ちでいられることがいちばんです」
 楽しいといわれるとすこし違うような気もしたが、マルスの言うことを否定もできなかった。
「干し草を積みこみに行ってまいりますので、殿下はゆっくりなさっててください」
「ああ、ありがとう」
 厩の番は馬の世話につかう干し草や藁も用意せねばならない。ひろい畑のすみの藁小屋に積み上げてある干し草などを運んでくるのも仕事だった。
 鹿毛がアルクマルトの黒髪をかじろうとするのをよけながら、マッサージのようにその身体をなでてやる。こうやって過ごす、おだやかな日々もけっして悪くないものだった。
 おそらくは何日かのうちにここバルームを離れねばならなくなるだろう。だからこそ、いまの時間が愛おしかった。
 神官たちががずっとこうやって平和に暮らしてくれるだろうか。いや、そういう国であってほしい。
 アルクマルトはあらためて、神官長が背に負う重みを知った。そしてその重みがまた、自分の背にもかかっているのだということも。

 アルクマルトは夕食前の湯浴みを終え、洗いたての衣装を身につけて部屋にもどった。
 竪琴をとりだし、ゆるめてあった弦をととのえる。
 荘園を脱走するときに持って出た竪琴は高級なもので、逃亡の身に不相応だから売ってしまった。そのためこれはある町で調達した安物だ。安物ではあるが、音色はそう悪くない。
 弦をはじいて軽く鳴らしてみるが、どうもうまく弾けなかった。自分の指先を見ると、かなり手荒れしていた。
(これでは弦がひっかかってしまう……)
 寝台のわきの小卓に、蜜蝋の軟膏が残っていたのを思いだした。
 容器をそっと手にとり蓋をあける。おもわず昨夜のことが脳裏をよぎり、身体がふるえた。
 昂ぶりかける身体を落ちつかせるために深呼吸をして、指先に軟膏をうすく塗る。しばらくして軟膏が肌に馴染むと、指先がしっとりとして弦にひっかかりにくくなった。
 好きな旋律を奏でているうちに、口からはしぜんに詩が流れでた。寝台に腰かけて、アルクマルトは唄う。心によぎるさまざまな思いを音に託すように。
 唄うことはアルクマルトにとって、子供のころから慣れ親しんだ自分なりに心を落ちつかせる方法でもあった。
 宮廷詩人に教わるようになってからは宴会の席でもたびたび唄ったので、人前で唄うことにあまり抵抗はない。そのおかげで酒場でもなんとか商売をすることができた。
 詩には英雄譚か恋愛のものが多く、自分に経験がなくてもそれなりに学ぶところもあった。
「……」
 酒場で流行っていた詩を唄っているとちゅうで、なぜか声が出せなくなった。喉の調子ではない。唄えないのだ。
 竪琴だけをそのまま奏でつづけるが、詩を口に乗せようとしても力がはいらず声がふるえた。
(ともにあれど心は通じぬ——遠くにあれば思いは届かぬ——さりとて身体をつないでみれば、やはり望みはその心——)
 そういう詩のはずだった。
 きゅうにいろんな思いが胸にこみあげてきて、唄うどころではなくなってしまった。
 なぜそこが唄えないのか、考えれば苦しい。
 肩の力をおとし、竪琴を奏でるのをやめたアルクマルトの耳に、
「……殿下」
 呼びかける声が聞こえた。
 ふりかえると部屋の戸口にエリアスが立っていた。
「!」
「申しわけございません。……お呼びしたのですが、お返事がなかったもので」
 いまの自分の顔をあまりエリアスに見られたくなかった。情けない顔をしている気がする。
「……ああ、つい夢中になっていて」
「そろそろ夕食の時間です。……神官たちが殿下を呼びに部屋に入れなかったようですので」
「……? なぜだ?」
「殿下が夢中で唄っていらっしゃるのを……邪魔できないと」
 遠慮するほどのものではないのだが、やはり神官たちにとっては声をかけづらかったのだろうか。だからエリアスがかりだされてきたのだとは思うが。
「……」
「さきほど、とちゅうで止めてしまわれたようですが……喉の調子がお悪いのですか?」
 エリアスはいつもと変わらない。ゆうべのことなどまるでなかったかのようだ。
「……いや、大丈夫」
「お体の具合は?」
「とくに問題ない」
 だがいつもと変わらないからこそ、こうやって自分もふつうに接することができるのだ。
「……それならよろしいのですが」
「……」
「夕食は、いかがなさいますか?」
「ああ、もう時間なのだな。……私も食堂に行く」
 竪琴の弦をてばやくゆるめて寝台のうえに置くと、アルクマルトは立ちあがった。
「……?」
 部屋から出ると、何人かの神官のすがたが見えた。どうやらまわりでようすを伺っていたらしい。
 アルクマルトは、いつものように後ろからついてくるエリアスをふりかえった。
「私が唄っているときは、そんなに声をかけづらい……か?」
 唐突に問われたせいかエリアスは目を見開いて驚きの表情をしたが、すぐにいつもの笑顔になる。
「いいえ、そうではありません」
「?」
「彼らは……部屋から漏れてくるあなたの声を聴いていたのでしょう」
「ええっ?」
「神殿には娯楽も少ないですから。詩を聴く機会もそうありませんし……」
 歌声が漏れるのは承知していたけれど、そうやって聴くほどのものなのかと思った。だが以前に中庭で唄ったときにたくさんの神官が集まってきていたことを思いだす。
「詩が珍しいのか……?」
 年若い男子が多いのだから、もうすこし娯楽があっても良さそうなものだ。
「……」
 エリアスはやや口ごもったようで、否定も肯定もしなかった。
「珍しいからと私の声に聞き入ってしまうほどなら、酒場の踊り子でも見たらみな卒倒するだろうな……」
 踊り子の衣装はかなりきわどいものが多い。男を誘ってその気にさせるためのものだから、それが普通なのである。ただ、そういうものを見慣れない神官たちには、きっと目の毒だろう。
「……」
「なんだ?」
 ふりかえると、エリアスはすこし苦笑していた。
「いえ……申しわけありません」
「? 私はおかしいことを言ったか?」
「いいえ」
 言いたいことはあるが言いにくそうな感じだった。追及したかったのだが、食堂に着いてしまった。
「おお、殿下。遅いので心配いたしましたぞ」
 食堂ではミルラウスが心配げな表情で出迎えてくれた。エリアスは会釈すると離れて自分の席につく。
「……遅れてもうしわけない」
 朝食にも遅れたことを思いだし、アルクマルトは頭をさげた。
「とんでもない、殿下。ただ体調が悪いのではないかとみな心配しておりましてな」
「いや、体調は問題ないんだ。心配かけてすまない」
「それなら、ようございました。ささ、冷めますのでお席におつきください」
 アルクマルトの部屋の周囲にいた神官たちも、ぞろぞろと遅れて席についた。
 祈りの言葉のあとでみなが食べはじめる。今日は豪勢なことにベーコンを厚く切って焼いたものがメインだった。それにパンと新鮮なチーズ、根菜のスープ、デザートに木イチゴの砂糖煮もついていた。
 神官たちもいつもより豪勢な内容のせいか、嬉しそうに食べている。表情がいつもと違うのだ。
 こういう時間が、とてもいい時間だとアルクマルトは感じていた。
 ただ、サンジェリスだけは夕食のときにも食堂には姿をあらわさなかった。

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