放浪の王子 第8章 -1-

「殿下、お目覚めください」
「……ん?」
 エリアスにゆり起こされているのに気づいて、アルクマルトは目を開けた。
「!」
 あわてて飛び起きたが、ここが宿屋ではないことを思いだして、ほうと息をはく。
 ここなら追っ手を恐れなくてもいいはずだ——
「なにもかけずにお休みになられては、また風邪をひきます」
「……私は寝ていたのか」
「そろそろ夕食の時間です。なんでも食堂でいっしょに召し上がるとおっしゃったそうですね?」
 いつもの穏やかなエリアスの顔だった。それがとても安心できた。
「ああ。私ひとりだけで食事はすこし陰気に思えてしまって……。昔はひとりで食べていたのにな」
「……」
 エリアスにつきそわれて、食堂へと向かう。さきほども思ったが、ここは表から見るよりずっと中が広い。何人もの神官が同じような神官装束のまま、やはり食堂に向かって歩いていた。
 エルフィード神殿の神官はすべて男である。使用人は置かず、下働きも畑仕事もみな神官で分担しておこなっていると聞く。
 アルクマルトが食堂に入ると、すでに席についていた他の神官たちはいっせいに緊張したようだった。
 目の前にいるのは王子、しかも彼ら神殿の者が王だとみとめる者とあっては、そうなるのかもしれない。王都の神殿で務めることがない限りは、王族を目にする機会もないだろう。
 長い卓の両側にならんだ神官たちはおよそ三十人といったところだった。これに炊事を担当する者が何人かいるのだろう。
「殿下、こちらへ」
 この神殿の司であるミルラウスが上座につき、アルクマルトはそのすぐとなりの席を指ししめされた。さらに斜めの位置にエリアスが案内される。
 給仕係が順番に皿に料理を盛っていった。すこしばかりの鶏肉と野菜や香草を煮込んだシチュー、ライ麦の黒いパン、かたく熟成させたチーズを切ったもの、そしてすこし濃いめの蜂蜜酒が並べられた。
「我らが崇めます天空なる神ザイデスのお恵みに感謝しまして——」
 祈りの言葉が終わると、各自がいっせいに食べはじめた。
「お口に合いますか……?」
 ミルラウスはおそるおそる尋ねたが、
「ええ、美味しいし量もじゅうぶんだ」
 アルクマルトがそう答えたので安心したようだった。
「エリアスが——殿下はこういう食事でも召し上がってくださると言うので用意いたしましたが」
 金の楓亭は別として、二人で泊まった他の宿よりもここの食事のほうがむしろ新鮮で量もあるくらいだった。贅沢をいわないアルクマルトのことを、エリアスはよくわかっていた。
 若い神官たちはそうそうに食べ終わり、自分たちの皿や杯を厨房まで戻してから食堂を辞していった。
 アルクマルトも食べ終えたので食器をさげようとした。が、よこからすばやくエリアスがそれを取り上げて持っていった。
「ありがとう」
「いえ、お気になさらず」
 それがいつもの会話と変わらなかったので、すこしほっとした気分だった。
 神殿では食後は自由時間になっているとのことだった。水浴びや湯浴みをする者は専用の場所があるのでそちらを使い、また読書をしたり神官同士で談笑したりするという。
 アルクマルトは部屋へ戻ろうとするエリアスを呼びとめた。
「待ってくれ、エリアス」
「はい、殿下」
「そなた、なにか用事があるか?」
「いいえ、とくには」
「ならば詩を——詩を唄いたいのだが。約束していただろう?」
 エリアスはすこし驚いたように目を見開き、そして破顔した。
「ああ、覚えていてくださったのですね。ありがとうございます」
 レベトの町で約束してはいたのだが、ならず者たちのことがあってから休憩の時もあまり気を抜けなかったので、おあずけになっていたのだ。
「中庭に泉水があったな。まだ日は暮れていないし、あそこで待っててくれ。竪琴をとってくる」
「わかりました」
 神官の宿舎やら神殿の本棟などをつなぐ中庭には、ちかくの川から水を引いた泉水がしつらえられていた。
 部屋で二人きりになって唄うよりは、そういう開けた場所のほういいだろうと思ったのだ。
 アルクマルトが部屋から竪琴を持って中庭に行くと、エリアスはちゃんと泉水のふちに腰かけて待っていた。
「待たせたな」
「いいえ」
 おなじように泉水のふちに腰かけると、竪琴の弦を締めなおす。なんどか指で鳴らして調節し納得のいく音が出たので、エリアスのほうへ向きなおった。
「聴きたい詩はあるのか?」
「あ——いえ、とくには」
「なんだ、ないのか?」
「わたくしは、その——詩とかそういうのには疎いほうでして」
 気合いを入れていただけに拍子抜けしたのだが、ふと最初に酒場で出会ったときのことを思い出した。
「そなた、ハダラー王とシャロナの哀詩を知っていたではないか?」
 たしかそれを頼まれて唄ったのだ。あれは宮廷詩人でもなければ唄うことはまずないだろう。
「はあ、あの詩だけは——」
 エリアスは頭をかいた。
「その、以前にわたくしが近衛をしていたとき、王宮内の晩餐会で殿下が唄われたのを聴いたことがあったので」
「そうだったのか。詩歌にも詳しいのかと思ったのだが——」
 なんにでも頭の切れる男だと感心していたのだが、意外に弱点があったようだ。かえって親しみがわく気がして、おもわず笑みがもれた。
「かといってここで酒場の流行り歌を唄うわけにもいかないな……」
 酒場で流行っているような歌は、どちらかというと猥雑な内容のものが多い。神殿の中で歌えるようなものは少なかった。だからこそアルクマルトは得意の古詩を披露できる良い機会だからと張り切ったのだが。
「そうだ、ハダラーの詩にはじつは続きがあるんだ」
「えっ、ふたりが仲を引き裂かれて終わるのではなかったのですか?」
 ハダラー王とシャロナの哀詩は、アルダーナの伝説の王であるハダラーが狩りの時に怪我をして村娘シャロナに助けられ、そこからふたりの悲恋が始まる詩である。
 ジョルジナ村の狩り場で落馬して足を傷めたハダラーは、近くに住む農夫の娘シャロナに助けられ、そこに数日間逗留した。相手が王と知らずにシャロナは献身的に手当をし、飾り気がなく素朴で美しいシャロナに王は恋をする。ハダラーは彼女を愛妾として召し上げようとしたが、シャロナはふつうに結ばれて家庭を築くような関係をのぞんでいた。かくしてふたりは別れを選ぶ——という内容である。
 有名な王に関する詩ではあるが、冒険譚でもなくありがちな悲恋ということであまり出番がない詩だった。だから続きがあることを知っている者も少ないだろう。
「じゃあ今日はその続きでも——」
「ええ是非。お願いします」
 竪琴をかるく鳴らし、アルクマルトは唄いだす。薄暮の景色とあいまって、その歌声は幽玄の響きとなった。

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