放浪の王子 第17章 -3-

「……殿下」
 横たわったアルクマルトの黒髪をなでながら、エリアスがそう声をかけてきた。アルクマルトはゆっくりと視線を彼のほうへむけた。
「ん……?」
 夜は冷えるのでふたりで寝具をかぶってはいるが、エリアスのほうはすこし身体を起こしていた。自分はもう寝てしまえばいいが、エリアスは不寝番を務めねばならない。いっしょに朝まで寝台ですごしたいといってはみたものの、エリアスには固辞されてしまった。
 柔らかな淡い茶色の髪と明るい灰色の瞳をした、真面目で堅物な性格——それがエリアスという男だ。他にも神殿から派遣された兵士はいたというが、他の男でなくエリアスと出会ったことで、いまの自分がある。
「わたくしを……雇っていただけますか?」
「あ……」
 その返事がまだだった。この街を出るまではエリアスは神殿に雇われた護衛の兵士であるが、そのあとは自由の身である。
「……私でいいのか? 命の危険があるというのに?」
 報酬も払えない身でも、いっしょにいたいと言ってくれるのは嬉しかった。だが自分たちはひじょうに危険な賭けに出ようとしているのだ。お互いに命を落としてしまう可能性も大きい。
「はい」
 エリアスがにっこりと笑った。すこしも迷いはないようだった。それを見ると、アルクマルトの気持ちもどこか和らいだ。
「……私はな、エリアス」
「はい」
「すべてが無事に終わったら——神官として生きていこうと思っている」
「……殿下」
 それはこのセンティアットの街に来てから考えるようになったことである。神剣の主人として神官の素質があると聞かされたとき、もしかして自分の生きる道はここにあるのかもしれないと思うようになった。
 おだやかでゆっくりと時間の流れるこの空間は、自分の感覚にとても合うと感じた。
「それならばわたくしは……あなたを護るために、神殿の用心棒でもいたしましょう」
「……そうだな。それがいい」
 アルクマルトは髪をなでるエリアスの大きな手にそっと手をかさねると、それを自分のほほにあてた。武器を持ち慣れたごつごつした手だが、愛撫のときは繊細にうごく手だ。
「……私は旅のあいだ身体を売るかどうかずっと迷っていた」
 ながいあいだ胸に秘めていたことだ。エリアスには話しておきたかった。
「はい」
「とくに唄で稼ぐことに慣れていないころは、飢えて凍えてもう死ぬかと思うことも何度かあった」
「……」
 王宮と違い、態度にはっきり出る町民たちのまえで唄うことに慣れていなかった。しかも流行りの詩はあまり知らず、客あしらいも下手でどうしようもなかった。王族として生まれ育った身で、いきなり自分一人で生計をたてろと言われたところで出来るはずもない。しばらくの間は商売にもならず、食事にありつくことも宿に泊まることさえなかなかできなかった。
「……このままでは死ぬと思って、いちどだけ金持ちの男に買われたことがある」
「……」
 痩せて汚れた流れの詩人を買うという奇特な金持ちがいたものだ。知らない男に抱かれることへの恐れがないわけではないが、アルクマルトもただ目の前の食べ物と寝床がほしかった。
「たまたま酒場に来ていた男だ。よく見れば派手ではないが仕立てのよい服を着ていて金持ちなのはわかった。その男のほうをじっと見ていたせいなのか……ひと晩どうかと誘われた」
「それで……どう、しました?」
 今でも鮮明におぼえている。街でいちばん大きな宿屋に連れていかれた。その立派できらびやかな宿は、ふだん利用している宿とは比ぶべくもなかった。
「私は湯を使って身体をきれいにしたあと、食事を食べさせてもらった」
「……」
 その食事もかなり豪奢なものだった。安い宿屋で出るような火を通しただけの料理ではなく、鶏肉の内部に野菜と木の実の詰め物をしてじっくり蒸し焼きにしたもの、魚をパイ皮で包んで焼いたもの、ゆでた豆を何種類も裏ごしして生クリームをまぜたポタージュなど、手がこんでいて華やかな献立ばかりだった。王子として生まれ育った身には懐かしいものばかりだったが、貧しい詩人の口にはとうてい入るものではない。
 切り分けた料理を差し出されるとアルクマルトはすなおに受けとり、うながされるままに口に運んだ。
「その男は自分も食事をしながら、私が食べる様子をじっと見ていたな……」
「……」
「とにかく空腹だったから、食べることに夢中で……そのあたりはよく覚えていない」
 食事を終えてからすこしばかりの軽い酒が供されたのち、アルクマルトは肩を抱かれて寝室に向かった。そのときあらためて自分がその男に買われたことを思いだし、全身がこわばったことを思いだす。
「だが……寝台で、男は私に手もふれずそのまま寝てしまったのだ」
「……!」
 緊張して身体に力がはいったまま何が起こるかと待っていたが、やがて男の寝息が聞こえてきてアルクマルトは驚いた。
「翌朝も彼はなにもせず……朝食だけ食べさせてもらって別れた。代金は断ったのだが、無理やりもたされてな……」
「……そうですか」
 飢え死にしそうな少年を助けるつもりで買ったのだろうか。今となってはもうその理由はわからないし、考えても仕方のないことだ。ただ一夜の宿をひさしぶりに得られたことへの感謝は大きかった。
 そのときの代金であたらしい服を買って、かなり身ぎれいになった。そうすると少しずつだが商売させてくれる酒場もできて、流れの詩人という商売も形になっていったのだ。
 アルクマルトが手をはなしても、エリアスはほほをそっと撫でていた。
「もっと早くにお会いできていれば、そんな苦労をおかけしなくてすんだのですが……」
「そうかもしれないな。だが……ああやって苦労せねば……見えないこともあったと思う」
 幸いに夜盗や追いはぎにあうことはなく、神剣を失わずに旅をすることができた。
「はい。ですが……殿下、ひとつだけ教えていただけますか?」
「なんだ?」
「初めてお会いした日、あのとき……殿下は……わたくしに抱かれる覚悟でいらっしゃったのですか?」
 たしかにアルクマルトは酒場でエリアスに買われた。ひと晩どうかと言われてうなずいたのだ。
「あ、あれは……そなたが何もしないと言ったから……」
「それが嘘だったら……?」
 男のそういう言葉には都合のいい嘘が多いことも、アルクマルトは知っていた。だがそれでも何故かエリアスのことは信じてしまったのだ。
「それは……」
「……」
「もしそうなったとしても、そなたなら手荒なことはしないだろうと思った。それで……」
 故国アルダーナの古詩を唄い、懐かしさと寂しさでいっぱいだった。人恋しくなったから、気持ちがゆるんでしまったのかもしれない。
 誰ともふかく交流することのないまま放浪していた三年、心が渇いていたのは確かだった。喜びも悲しみもわかちあう相手がいないという孤独で、自分の心は疲れていたのだ。
 エリアスに正体を看破されてつい感情をぶつけてしまったのも、そのせいだと思う。彼はそんな自分にそっと寄り添ってくれた。たとえそれが神殿に依頼された任務のためでも、嬉しかった。
「……」
「わたくしを信じていただけて……良かった」
 エリアスの手がゆっくりと移動して耳にふれてきた。
「……ん」
 耳はアルクマルトがとくに感じやすいところで、なぜか金の耳飾りをつけている右耳のほうが敏感だった。
 ゆったりと落ちついていたはずなのに、これだけですぐに身体が熱くなる。
「もういちど……いいですか?」
「……っ」
 そんなこと聞かなくてもいいのにとアルクマルトがやや顔をふせた瞬間、エリアスがアルクマルトを抱き込むようにゆったりと覆いかぶさってきた。
「あなたの唇が……とてもすきです」
「な……」
 そのまま口づけされる。やさしくゆっくりと唇をついばむように触れ、それから舌がアルクマルトの唇をわって中に入ってきた。
 口づけだけでもう体中がとろけそうになってしまう。
「すきだ……エリアス……。もっと……もっと欲しい」
 ささやく自分の声が熱くふるえている。
「ええ、でんか。……いくらでも」
 アルクマルトはエリアスの髪に指をさしいれてそっと愛おしげに触れてから、その背中に腕をまわして身体をあずけた。

18章-1-