放浪の王子 第13章 -4-

 そのとき、誰かが蔵書室に入ってきた。
「お話中のところ、失礼いたします」
 上級神官ベレウスだった。上級神官であるからには、この蔵書室に足を踏み入れるのは問題ないのだろう。彼は手に盆を持っていた。
「ベレウス殿」
「殿下。お話が長くなるようでしたら、お茶でもどうかと思いまして」
 盆に載せられていたのは、茶器であった。
「ああ、ありがとう」
「もうこの季節になりますと、部屋もかなり冷えます。そういう時はあたたかいお茶がいちばんでございますよ」
 そそがれる茶からたちのぼる湯気と香気に、アルクマルトはほっとした。そういえばこの部屋にきてから緊張しっぱなしだった。
 椅子に腰をおろすと、そっと茶器がさしだされる。
 サンジェリスとそして自分のぶんまでそそぎ終え、ベレウスもおなじように腰をおろした。
「殿下、すこしお顔の色がお悪いようですな」
「ああ……。ここにいるとすこし、気を張ってしまうからかもしれない」
「それは我々も同じでございますよ」
「そうか……」
「われわれエルフィード神殿の者は古い力を護り継いでまいりましたが、それをすべて御しきれているわけでもございません。ここの神殿はとくに古くて書物もたくさんございますが、いま我らにはその半分ほどしか把握できておりませんので」
「……」
 たちのぼる湯気ごしに、サンジェリスが何も言わずいつものようにゆったりと茶を味わっている姿が見えた。
「長いあいだに失われたものがたくさんありますれば……」
 宙を見つめながら、ベレウスがしみじみと言った。
「それを取り戻そうともがくことが良いのかどうかすら、わからなくなって参ります」
 エルフィード神殿は王家つまり政治と結びついてから、いろいろと迷走をくり返してきたのだろう。自分たちだけの世界を構築し孤高の存在でいたのなら、失われるものはもっと少なくて済んだかもしれない。
 彼らが王都に反旗をひるがえしてでも護りたいものは、ここにもあったのだ。
 アルクマルトはずっと疑問に思ってきたことを、ふたりにたずねることにした。
「聞きたいことがある」
「なんでございましょう?」
 返事をしたのはベレウスだった。
「神剣は——素質のあるものを選ぶというなら、それは王家の者に限らないということか?」
「理屈のうえでは、そうなります」
「では国中の民に試させてみれば? 他にも主人になる者がいるかもしれぬ」
「それも——理屈のうえでは、そうなります」
「そうか。そういうものなのだな」
 神剣の主人が王となるべきだと、そういう言い伝えは後付けでしかないのだ。
 なんとなく予想はできていたものの、あらためてそれを知ってしまえば思いは複雑だった。自分が神剣の主人になったばかりに起こってしまった過去のできごとが胸に痛い。
 サンジェリスが真剣なまなざしをこちらに向けた。
「ですが、殿下。さきほど申しあげましたように、王の素質が必要ならば、そう滅多なことでは持ち主は生まれません。また平民に生まれたとすれば、それこそ本当に大きな動乱で国家が転覆でもしないかぎり、その者は王にはなれないでしょう」
「……」
「王家の血筋に、神剣の主人が生まれた。そのことに意味があるのだとわたくしは考えております」
「……」
「前神官長のトリティアス様が、あなた様に「稀なる者」という名をつけたのは、そういう意味も込められてのことかと」
 それはアルクマルトのもう一つの名前キリークのことだった。神官に名付けられるその名は、古い言葉でそれぞれ意味を持つのだという。
「……」
 ベレウスが付け加えた。
「エルフィード神殿の神官長は、もっとも秘術にすぐれた者が選ばれるのです。前神官長は、ひじょうにすぐれたお力の持ち主でしたから、殿下のなかの王の素質を見抜いていらっしゃったのやもしれません」
 神官たちの語る言葉は、独特の世界観があって難しい。アルクマルトはひとつひとつの意味を考えながらも、彼らの言わんとすることを察した。
 彼らの基準では、王の条件にいちばんあてはまるのがアルクマルトなのだ。それだけはよくわかった。
 神剣の主人となろうが、王位に即かなければその素質にも意味はない。神官たちの思うところとはちがい、アルクマルト自身は王の素質がどうのという話にさして興味はなかった。
 素質はあくまで素質でしかない。大事なのは、じっさいに何ができるかということのはずだ。
「ではぎゃくに……私は神官になれるのか?」
 意表を突かれたのか、ベレウスは目を見ひらいたまま言葉に詰まったようだった。代わりになのか、サンジェリスがほんのりと微笑んで答えた。
「ええ、おなりになれます」
「!」
「神官としての素質は、じゅうぶんにお持ちです」
「……そうか」
「はい」
 神官長はただアルクマルトの疑問にだけ的確に答えをかえした。余計なことはなにも言わずに。
 めいめいが茶を飲み終えるとサンジェリスは、
「そろそろここを出ましょう。殿下をこれ以上お疲れさせるわけにもいきません」
 と席をたった。
 たしかにここにいると疲れる。それはアルクマルトも感じていた。
 蔵書室を出てそこがふつうに神殿の廊下だったとき、なんともいえない安堵感があった。
「殿下」
「なんだ?」
 サンジェリスがそっと耳もとにささやいてきた。
「どうか、神剣をお離しになりませんように。……お休みのときもつねに枕元にお置きください」
「えっ?」
「殿下がわれわれとともにあり、と知れれば、あなた様のお命を狙う輩がここに侵入してくる可能性もあります」
「それは……覚悟のうえだが」
「われわれも警戒を強めておりますので、そうそう神殿内には不穏な者を近づけたりはいたしませんが——」
「……」
「なにが起こるか油断は禁物です。いざとなれば神剣があなた様をお護りいたしますので」
「……わかった」
 自分の声に力がこもるのがわかった。神殿の中にいても、危険はしのびよってくるということだ。そのことを忘れてはいけないのだと、アルクマルトはあらためて気をひきしめた。

 その日の夕食は、センティアットにアルクマルトを迎えたことを祝って、ひじょうに贅沢な献立であった。
 やわらかな子羊の肉をじっくりとあぶり、肉汁とキノコで作ったソースをかけたものがメインだった。いかに牧羊の盛んな地とはいえ、子羊の肉そのものは貴重品である。
 煮込んだ根菜とベーコンを詰めたパイ、白くて柔らかな小麦のパン、何種類かの豆を裏ごしして作られたスープ。そしてデザートが卵の白身を泡立てて焼いた甘い菓子とリンゴの砂糖煮だった。それに葡萄酒がふるまわれた。
 冬を越すまえのこの季節に、これだけの献立は特別である。
 食堂にみなが集まったのち上級神官ベレウスによって短い話と祈りの言葉があり、それから食事が始まった。若い神官たちのなかにはふだん見慣れぬ献立のせいか、目の色をかえてかきこむ者もいた。
 席についているものだけで総勢六十名ほどはいるだろうか。厨房の係などで席にいない者もいるし、神官の数はかなりのものだった。人数だけでいえば、王宮の晩餐会にもひけをとらないだろう。
 食事の席にはバルームから同行したサウロスとマルス、そしてゼルオスもいた。離れたテーブルに座っているエリアスも見えた。エリアスはアルクマルトの視線に気づくと、いつものように軽く会釈した。
 ただそれだけのことなのに、アルクマルトはほんのりと嬉しくなる自分を自覚した。

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