放浪の王子 第9章 -1-

 ローディオスは何をするでもなく、ただぼんやりとそこに腰かけていた。きれいにととのえられた寝台には、使われている形跡はないようだ。
 アルクマルトはそっと彼に近づいた。まさかこの部屋に兄がいるとは思わなかった。
 気配を察したのか、ローディオスが顔をこちらに向ける。
「——!」
 驚くのも無理はないだろう。今の自分がどう見えているかわからないが、実体ではないから幽鬼のような感じだろうか。
 ローディオスはあの頃よりやや精悍さが増したように見える。当たり前のことだが、やわらかな曲線を描く金の髪や濃い灰色の瞳はそのままだった。
(あにうえ……)
 そう言いたかったが、言葉は出せなかった。ちょうど夢を見ているときのように、口はうごくが声が出ないのだ。
「アルマ——?」
 ローディオスの声だ。なつかしい、自分を呼ぶときのあの声だ。
(兄上!)
「まさか——死んだわけではあるまいな?」
 アルクマルトはあわてて首をふる。ローディオスは安心したように立ち上がった。
「——そなた、背がのびたな」
 黒髪をなでようとしたのか伸ばされた手の、その感触を感じることはできなかった。
「髪ものびた。それに——いちだんと」
(あにうえ……)
「綺麗になったな」
 なぜだろう。兄の姿を見ていると、腕をまわしてすがりつきたくなるのは。
(兄上、私は……)
「どこでどうやって今まで——いや、病もなく健やかでいるならそれでいい」
(——あにうえ)
 たしか静養先の荘園で会ったのが最後だった。
 アルクマルトが自分で食事ができるようになり、家畜たちの世話や果樹の手入れをするほど元気になったので、ローディオスがみずから馬を駆って見舞いにきたのだ。
 王都へ帰る彼とさいごにかわした口づけをおぼえている。
(もしかして、私のことを——?)
 逃亡したアルクマルトの身をずっと案じてくれていたのだろうか。
 間近で見れば、その濃い灰色の瞳は自分が思っていたよりずっとやさしい気がした。
「生きていてくれて、良かった」
(……!)
 アルクマルトの記憶の中のローディオスは、こんなことを言う性格ではなかった。
 王太子として育てられたローディオスは、雄々しくて誇り高くそして欲望に忠実だった。いつも自信たっぷりに振るまっていた。
 実の母を亡くし王宮内ので立場が弱かったアルクマルトにとって、そんな兄はとても頼もしく見えた。第二王子ザグデナスや第三王子イダはアルクマルトには冷たかったし、いわれのない虐めを受けたことも多々あった。それから庇ってくれたのもローディオスだった。
 彼の言葉がひとつひとつ胸をしめつけて苦しい。もしかしてあの一年間、自分はなにか大きな思いちがいをしていたのではないだろうか。
 いずれは兄を助ける立場になりたいと思っていた気持ちを裏切られ、それ以来ずっといろいろなものから目をそむけてしまっていたのではないだろうか。
 そう、自分のほんとうの気持ちからも。
 気づけば、涙が頬をつたっていた。ローディオスは困ったような表情で、
「——泣くな、アルマ。そなたを苦しめたいわけではない」
 と言った。なんどか寝台のうえで聞いた言葉でもあった。
 アルクマルトは首をふる。
(ああ、兄上。違うんです! こんな話をしたいわけではないのに——)
 ふいに部屋の景色がうすれだした。もう秘術の効力が切れかけているのだろう。
(ああ……こんな)
 最後にせめて——そう思ったのがわかったのか、ローディオスはそっと顔をよせてきた。
 もちろん唇のふれた感触はない。だが、この想いだけでも伝わっただろうか。
 さらに寝室の景色がうすれる。おそらくローディオスから見たアルクマルトも消えかけているだろう。
 ローディオスは思い出したように、アルクマルトに向かって言った。
「アルマ——もしいまアルダーナにいるなら、王都には近寄ってはならぬ」
(えっ——?)
「よいな、王都には——」
(あにうえ、それはどういう——)
 そこからはもう声は聞こえなくなった。
 景色がぐるぐると渦を巻いたかと思うと、なにもかもがあっという間に遠ざかっていった。

「あにうえ……」
 自分の声でアルクマルトは気がついた。目を開けると、神官長サンジェリスがやさしげな笑みをうかべて見まもっていた。
「——ああ」
 戻ってきてしまったのだ。
 まばたきをすれば、目から熱いものがこぼれおちた。
 のろのろと長椅子から体を起こす。部屋に漂っていた甘い香りもいつのまにかほとんど薄れていた。
「殿下、今日はもうお疲れのことと存じます。——部屋に戻ってお休みください」
「……」
 言われるまでもなく、今はなにも考えられなかった。王位のことや国政の不安、エルフィード神殿の不遇だとか、そんなことはまるで遠い世界のできごとのように感じられた。
 なぜこれほど苦しいのだろう。
「そんなにお泣きなさいますな」
 ぽろぽろとこぼれていた涙を、やわらかい布でぬぐわれた。
 涙はとまったが、胸のうちの苦しさはだんだんと大きくなっていく。
 何も言わず、アルクマルトはふらふらと立ち上がり、剣を持って扉のほうへと向かった。
 神官長はただ、
「おやすみなさいませ。よい夜を——」
 そう言ってアルクマルトを見送った。

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