放浪の王子 第16章 -1-

 センティアットの神殿でアルクマルトが滞在する部屋では、エリアスが不寝番を務めていた。アルクマルトが目覚めて身じたくをするころになると、こんどはエリアスが部屋を辞して睡眠をとることになる。
 ながく同じ部屋ですごしながら、けっして共有とはいえない時間だった。
「おはようございます、殿下。お目覚めでございますか?」
「……おはよう。よい朝だな」
「では、わたくしめはこれにて」
「……」
「おはようございます、殿下。お召し替えのまえにお茶をお入れいたしますね」
 エリアスがいない間はアルクマルトの周囲にバルームから来た三人の神官がついていて、一人っきりになることはなかった。用心のためなのだろうが、誰かがそばにいるとアルクマルトはほんとうの意味で気が休まるときがない。むしろ気配をほとんど感じさせないほど静かなエリアスがいる夜の時間のほうが、アルクマルトは気持ちが落ちついた。
 街の有力者たちがなんどか訪れ、上級神官ベレウスとなにやら話をしていく。そういう光景をなんどか目にした。そして神殿にはふだん扱う食糧などとは違うものがたびたび運び込まれていた。
 センティアットの住民のあいだには王都からの使者が来たことによる動揺はあったが、神殿がなんとかしてくれるという雰囲気が強いようだった。
 王都や王宮、ひいては王という存在よりも、神殿のほうがずっと人々の身近にあった。地方の都市には多かれ少なかれそういう傾向があるのだろう。
 王都には王宮があり、人々はいやでも王の存在をちかく感じて生活している。だが地方の民にはそれがない。広い国土を治めるのに人心の掌握は大事なことなのだが、長くつづく平和な治世がそれをおろそかにさせている——アルクマルトにはそう思えた。
「殿下。——どうかなさいましたか?」
 エリアスが去っていく後ろ姿をぼんやりと目で追っていたせいか、ゼルオスに呼ばれてアルクマルトは我にかえった。
「ああ……。……なんでもない」
 差し出された茶を飲んですこし頭と身体を目覚めさせ、それから顔を洗ったり髪をととのえたりして、着替えをする。ゼルオスはアルクマルトの髪を三つ編みにするのが好きらしかった。
 朝食を終えると、神官長サンジェリスと上級神官ベレウスから話があると言われたので、アルクマルトはそのままふたりについて蔵書室に向かった。
 はじめてここに来た日と同じで、蔵書室はふしぎな緊張感をもたらす部屋だった。神剣が共鳴し、アルクマルトの肌はちりちりとしたしびれるような感覚におそわれる。
「このような場所にお呼び立てして申し訳ございません。ですがここなら、外に聞こえることもありませんから」
「……」
 ぶあつい書棚はもちろんだが、ここにある不思議な力は不用意にこの部屋に近づく者を拒むだろう。まえに三人で座った場所に、そのまま小卓と椅子が置かれていた。うながされて椅子のひとつに腰をおろす。
「王宮でなにかあったのか?」
 使者ベリエストル卿が来てからもう三日は経っただろうか。それなりの動きがあれば伝わってくるころだろう。王宮側の者は知らないだろうが、神官たちが使う秘術では遠く離れていてもお互いに会話をすることが出来るのだ。むろん神官なら誰でも使えるというわけではないのだが、上級神官なら全員が可能だという。
「すこし…予想外の動きが」
「?」
「王宮では、思っていたよりもセダス公の勢力が拡大しているようです」
「なんだって……!」
 驚くアルクマルトのよこで、食堂から茶器をたずさえてきたベレウスが三人分の茶を注いでいる。
「どうやら近衛兵の一部にも彼の力が及んでいると見ました」
「……近衛兵にまで?」
 王や王族の身辺を警護するはずの兵は、王直属であることが基本である。
「はい。どの程度かまではまだハッキリとは……。ですがわれわれ神官に裏取引をもちかけるくらいですから、それなりの根回しはしているはずです」
「……その情報をどこで?」
「王都の留守居役の神官からです。……わたくしの格好で王宮に出仕させるという、かなり酷な仕事を任せてしまいました」
 見た目を変える秘術を使ったのだろう。だが外見をサンジェリスにしたところで、その意図するところまでくんで神官長になりきる役はかなり難しいと思う。それが出来る神官おそらくは上級神官を、王都に残していざというときには任せられるようにしてあったのだ。
「近衛を味方につけるということは……いざとなれば自ら兵を動かすつもりか……」
 差し出された茶に手もつけず、アルクマルトはじっと宙を見据えていた。
 いちばん危険なのは、王ローディオスその人ではないのか。近衛兵を掌握されてしまえば、周りはみな敵ということになってしまう。
「まだそこまでは近衛兵もセダス公に全幅の信頼を置いているわけでもないでしょう。……ですが、すこしずつそれが広がっていると見て間違いないでしょう。……近衛兵だけでもかなりの数がいると聞きます」
「ああ……。近衛は王宮に百人、王都ぜんたいで三百人になる。だが通常の軍隊からより抜きの精鋭を集めているから……な」
 アルクマルトはすっと立ちあがった。
「……王都に……行かねば」
「殿下」
「このままでは……兄上が……」
 自分の足がふるえているのがわかった。兄の——ローディオスの置かれている立場を思うと、おそろしくてふるえてしまうのだ。
 助けたい——だが自分になにができるだろう。ただ、いてもたってもいられなかった。
「どうか……おかけくださいませ」
「……しかし」
「あなた様を引き渡せと、陛下からじきじきのご沙汰がございました。今日にも王都の神殿から使者が、こちらに向かって発つでしょう」
 王宮で神官長サンジェリス——の代役が王からじきじきに言い渡されたことだ。あくまで秘術のことは伏せられているため、神殿は王に答えたとおりに使者をたてる。早馬を使っても二三日はかかる道のりだけに、そのあいだ策を練ることもできると言うのだろう。
 アルクマルトはしぶしぶ腰をおろした。
 サンジェリスは茶器をそっとおくと、真剣なまなざしでアルクマルトのほうを見た。
「それほど……陛下のことをお慕いしておいでですか」
「……!」
「殿下がそれほど焦った様子をはじめて拝見しました」
「……それは」
 慕っているという言葉で説明がつかない感情だった。
 幼いころから実の兄のように思って育った。家臣と侍従たちに囲まれて育つなかで、すなおに自分の気持ちをぶつけられる対等な相手は同じ王の子として生まれた兄弟くらいしかいなかった。そのなかでも特に可愛がってくれたのがローディオスだ。
 そうして育った自分には、将来は兄を助けるのだという意識がつよくなっていった。
 あの日、捕らえられて陵辱されるまでは、ローディオスのことは兄であり兄以上に大事な存在だったのだ。
 今は——
「……幽閉されて、兄上を大好きだった幼い私はいちど死んだ。心の繋がりを欲しかったのに、そこであったのは身体の繋がりだけだったから……」
「……」
 サンジェリスもベレウスも、アルクマルトがどういう境遇にあったかは知っているはずだ。
「だから逃亡したのだ。あのまま王宮にいればきっと……兄上を心から憎まねばならなかったから」
 声がふるえた。自分でも整理のつかなかった気持ちがすこし見えた気がした。
 本当は憎みたくなかったのだ、ローディオスを。だが抱かれるばかりの無力な立場を思えば、憎まなければ自分がつらさに追い込まれていくばかりだった。身体を求められることだけでなく、そばにいて助けたいという長年の夢があっさりと挫かれたこともショックだった。
「……殿下」
「だが……おなじ王族として、その孤独をわかるのも私だけだ。だから……助けたいと思う」
 つまり自分はまだ兄のことが好きなのだ。——だがそれは、兄弟としての情である。
「……そうですか」
 サンジェリスはやさしげな表情でそっとうなずいた。
「さ、冷めないうちにどうですか。気持ちが落ちつきます」
 ベレウスがそっと湯気の立つ茶器をアルクマルトのまえに押しやったので、アルクマルトもようやく茶を口にした。
「お気持ちはお察しいたしますが、殿下。……王都に近づくのは危険です」
「!」
 その言葉で、アルクマルトは思いだした。サンジェリスの秘術で兄ローディオスと会ったとき、彼が「王都に近寄るな」と言っていたことを。
「そういえば兄上が……王都には近寄ってはならぬと……」
 あれはそういう意味だったのか。もし近衛兵のなかにセダス公の配下となった者がいれば、王都が危険な場所であるのは確かだ。その近衛が刺客となってアルクマルトを襲う可能性も大いにある。
(兄上……ご存じなのか……)
 それをアルクマルトに忠告したということは、ローディオス自身もそのことは把握していたのだろう。
 誰もいない後宮の部屋で、彼はなにを思ってたたずんでいたのか。
「たしかにいま王都へは近づかないほうがいいでしょう」
「……しかし」
 サンジェリスはすこし考えるふうに目をふせていたが、やがてその翠の瞳をじっとアルクマルトに向けて言った。
「わたくしにひとつ策がございます」
「どのような?」
「……かなり危険を伴いますが」
「かまわぬ。どうせ三年のあいだに死んでいてもおかしくなかった身だ」
「では……」

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