第十七夜「悪魔の言葉」



 今にして思えば、正純はその干渉を当然だと思っていた。時折迷惑なその笑顔も、本当は脆くて弱いその素顔も、これから先ずっと傍にあるものなのだと。
 それがどれだけ大事だったのか、知らなくていいのだと気づかないふりをしてきたのだ。

「矢代さんのこと、わからないよ」
 できるだけ落ち着いた声で、正純は告げる。
「どうして今更、そんなことを言うのか。僕のことが好きだって言うなら、御堂は何だったの?二人は愛し合っていたんでしょう」
 恨んで憎んで、ようやく、相手が丈太郎ならよかったと思うことができるようになった。このタイミングで。そんな種明かしは、確かに望んでいなかった。好きになってもらえたら嬉しいと思っていた昔は遠く、今はもう事情が違いすぎる。隣りで過ごした時間を懐かしんでも、取り戻すことなどできないのに。一人で気持ちに折り合いをつけることが、どれだけ大変だったか…。知っているくせに、そんなことを言うなんて。
「おれたちは、とても怖がりだったんだ。恐怖と引き替えにおれは命を手放し、丈太郎くんは呪われた。正純、愛染の呪いを憶えている?これは、自分の大事な人を殺したい衝動にかられる、忌むべき刀でね。おれは、いつ君を殺してもおかしくなかった。それくらい好きだった」
「………」
「正純を殺すか、自分が死ぬか。おれは、選ぶしかなかった」
 頭がどういうことなのか、考えることを拒否している。
「正純、信じるな。そいつの話は聞かんでええ!もうそこにおるんは、甲斐やない。愛染に取り憑かれた、悲しい亡霊や」
「広大にそんな言い方されたら、傷つくな…」
「…甲斐。お前は、約束を破った。何で、そんな話を蒸し返す?」
 周防にまで、肯定されてしまった。本当に?愛されていた?矢代に、自分が?信じられない。そんなこと、思いつきもしなかった。
「そんなの簡単だよ。この身体は、おれのものじゃない。これでやっと、おれは正純に触れることができる。単刀直入に言おうか?…ずっと、ずっと我慢してきたんだ。おれは、正純を抱きたい」
「は」
 凄い勢いで、周防が正純の身体を自分の方へ引き寄せる。力の抜けた正純はされるがまま、呆然と矢代を見た。思考が止まる。何か言わないといけない。そう思うのに、上手く言葉が出てこない。
「な、にを…言ってるのか」
「君を愛してるんだ」
 正純が矢代を怖いと思ったのは、初めてだった。周防の言うように、これは矢代でないと思いたかった。矢代なら絶対に、そんな言葉を口にしない。少なくとも、正純に対しては。だから今目の前にいる人間はまるで、違う生き物のように感じられてしまうのだ。
 矢代でも、丈太郎でもない、悪魔の言葉。
「大丈夫や。正純」
 周防がいてくれて良かったと、正純は心底思う。大人の身体にしがみついて、頼りないけれどないよりマシだ。断然、心強かった。告げる想いを、間違えてはいけない。正純の決断が、四人の未来を決めてしまうというのなら。
「…矢代さん。僕の中では、終わった恋だ。御堂に身体を返してあげて」
 告白する隙は、意識的に与えられなかった。この狡い男は今まで、作為的に正純の行為を無視してきた。そりゃあ、殺されてもよかったなんて、そこまで恋にのめりこんではいなかったけれど。今更こんな最悪の条件下、想いを告げられてもどうしようもない。どうすることもできない。
「やけに丈太郎くんの肩を持つね、正純。まさか好きになった?彼を?」
 好意なら抱き始めていると、素直に正純は思うのだ。それが恋愛感情かと問われれば、否定せざるを得ないが。友達になってみたい。今度こそ、正しい形で、二人の関係を作っていくことができたならば。
「馬鹿言うな、甲斐。仮にそうなったとしても、お前が文句を言う権利はない。…俺もその恋に、賛成はせんけど」
「駄目だ。だって、丈太郎くんはおれのものだもの。おれはとても、丈太郎くんを大事に思っている。こんな現実から引き離して、おれの中に永遠に閉じこめてしまいたいくらいに。正純のお願いでもきけないよ」
 その返答に、正純と周防は思わず顔を見合わせた。お互いの疑問は、それだけで解消できそうもなかったが。
 澄んだ目は丈太郎のもので、濁りがないから余計に怖い。こういうのを、狂気と呼んでいいだろうか。他にどう、形容すればいいかわからない。彼ら二人の繋がりが、一体どういうものなのか…当人以外には計りようもないものだ。どれほど深くて、強固なものか。それを絶てるほどの決意と覚悟が、自分に存在しているのか?そこまでの確信は、まだ正純にはない。
「正気じゃないよ…。矢代さん。本当に、愛染に取り憑かれちゃったの?」
 矢代が唇を歪ませる。その瞳の色は、狂気そのものだった。
「そうだ、そうすれば…こんな汚い世の中から、丈太郎くんを守ることができる。現実は、彼に辛すぎるからね。おれは丈太郎くんを守りたいし、正純を愛したい。二つの願いが叶うじゃないか、この身体を乗っ取ったら」
「す、周防さん…」
 絶句する以外にない。どうすればいいのか、どういう心の整理をしたらいいのか、正純には対処できそうもない。そんな時こそ、普段は頼りない隣りの男の出番なのだった。
「そんなことはさせん」
「おれの邪魔するの?広大。後悔するよ」
 楽しげな含みすらあったかもしれない、その声音には。
 愛染を構えた切っ先は、苦渋の表情を浮かべる周防に向けられる。また、空気が淀むのを感じた。気持ちが悪い。得体の知れない闇にそんな感情を抱くのは、正純だけではないだろう。周防はあーあ、と諦めたように溜息を吐き出す。それから正純を後ろに下がらせると、自分の武器を呼び出した。ナポレオンという名の付いた、十文字槍。周防は大抵戦闘は他人任せで、正純も目にするのは三度目くらいだ。
「…今のおれは、痛みなんて感じない。それに、傷つくのは丈太郎くんの身体だよ」
「関係ないわ。お前は、調子に乗りすぎた」
 長いつきあい。お互いの癖は、熟知している。良いところも、悪いところも。昔からそうだった。この二人は三人でいた時、正純が入り込めないような空気を作り出すことがある。
 矢代と丈太郎の間に流れる空気がどんなものだったかは、当人以外知りようのないことだったけれど。
「俺にも、守りたいもんの一つや二つあるんでね」
「広大にはできない!」
 金属のぶつかる音が、正純の耳に痛いくらいに鳴り響く。周防は冷静に、矢代の猛攻を受け流していた。だが、やはり丈太郎の身体が気になるのだろう。攻勢になれない。様子見というよりは、耐えるのが精一杯。槍と刀では射程距離も違うし、その心境を考えたら仕方のないことなのかもしれない。
 正純は、段々不安になってきた。そしてその不安は、見事に的中してしまった。
「がら空きだよ、広大」
 勝負は、呆気なくついた。武器を弾き飛ばされた周防は、おどけたようにお手上げのポーズを取る。駆け寄ろうとした正純へ、ちらりと矢代が視線を投げる。それだけで、足が竦んだ。助けることができない。矢代と正純の力関係は、対等ではないのだ。大抵は、矢代の思う通りに物事が運ぶ。
「周防さんっ!!」
「おれがいなくなって、一人でずっと寂しかったんだろう?広大。連れて行ってあげる」
「甲斐…」
 丈太郎の顔から、周防は目を背けた。せめて、矢代の姿をしていたら?そんな考えが浮かび、舌を噛んで死にたいような気分になる。ただ、正純をこのままにはしておけなかった。
「やめてよ、矢代さん!やめて…っ!!もう、やめて……」
 なんだか思い出まで汚れてしまうような気がして、正純は泣きながら叫ぶ。もう嫌だ。我慢できない、こんなのは辛すぎる。これ以上こんな矢代を見ているのは、苦痛以外の何でもない。丈太郎を返してほしいし、周防のことも解放してあげてほしかった。
「こんなの違う、矢代さんじゃない!お前なんか…っ、矢代さんでも、御堂でもない!!」
 想い人の悲鳴に、矢代は悲しい表情で微笑んだ。そんな笑顔が、どれだけの効果を与えるかわかっているのだろうか。胸が苦しい。
「もう少しだけ、ええか。甲斐。どうしても、正純に話しておかないかんことがある」
「未練がましいね」
 嫌みたらしい承諾に、周防は唇を歪めて笑った。この世に執着が無さ過ぎる人間には、わからないことなのかもしれない。そういう危うい思想さえ、自分は…。
「周防さん…」
 矢代があと一振りさえすれば、周防は簡単に息絶えてしまうのだろう。
「愛染の所有者には、必ず監視者が付けられる。暴走を止める人間として。パートナーと表現すれば、聞こえはええな。甲斐の監視者は俺。それは表面上、お前が甲斐のパートナーになろうが、コイツが死のうが関係ない。俺がその『呪文』を唱えるまで、契約は解除されない」 
「話が長いよ、広大」
 矢代の察しの良さは、相変わらずだ。けれどもう、周防はとっくに心中する覚悟を決めていたのだ。遅かれ早かれ、いずれこんな時は訪れると知っていた。望んでいた、という表現が正しいのかもしれない。死ぬのならお前に、お前を死なせるなら俺が、
「やめて―――っ!!」
 それは、最後の瞬間だった。その呪文というのは、矢代に向けて、あまりにも周防の心にこびりついた言葉だっただろう。

「甲斐。俺は、お前を愛している」

「周防さんっっ!!」
 周防が全ての想いを込めた視線を、受けとめる気もない矢代の無情な刃が、鮮血に染める。正純は、滲んだ視界が目映い光に包まれて、僅かに空気が変わることだけ肌で感じた。障気が薄れていく。
 死体を呆然と見下ろす男は、何の毒気も孕んでいない。外から見れば完全に殺人犯で、そして部外者だった。矢代の気配は消え、そこに存在しているのは間違いなく、御堂丈太郎。
「…っ……嫌だ、嫌だよ…周防さん……」
 時間を巻き戻すことができたら、もっと自分に強さがあれば、一体どこに後悔すればいい?
 正純が堪えようと思っても、壊れた涙腺から涙が零れて止まらない。確かに時は流れているのに、二人は動こうとせず、許される限りいつまでもそうしていた…。


  ***


 一方、楽園内では優の事件が、どこからなのか情報が漏れだしていた。それと同時に、優の兄である王崎充の存在も。指針を失った信者は、新しい光に救いを見いだそうとしている。本人の意志など、お構いなしに。
 王崎は、疲れ果てていた。望まない全てのお膳立てが、友人だった神津を筆頭に日々着々と進んでいる。あの日から、王崎はいっそう孤独になってしまった。友人は、一人だけ神津がいてくれればいいと思っていた。その友情を否定されてしまったら、他に心の拠り所もない。静かな寂しさが、時折泣きたくなるようなせつなさを引き連れる。  丈太郎は今、一体どうしているのだろう。ふと、そんな疑問が頭をかすめる。ただのクラスメイトだった。多分、お互いに。今はもうそんな繋がりさえ、何もない相手なのだけれど。何かにつけつっかかってくる、何か言いたげなあの態度。どういう意味合いかはわからないが、意識はしてくれていたのかもしれない。最後に交わしたのは、確か優しい言葉だったような気がする。
 そんなとりとめのないものを思い出せばだすほどに、今おかれている現状の異常さに眩暈がする。何が探偵ごっこだ、自分の足できちんと立つことすら出来ないくせに。そう自重して、王崎は唇を噛んだ。
「王崎くん」
 水色のワンピース。ふわりと上品に揺れる女らしさを認識すると、王崎は笑顔を浮かべる。
 美咲かなえは、神津の言いつけなのか時折、王崎に会いに来るようになった。初めはその楽園思想ぶりに、気分も悪くなったものだったが…今では唯一の、心安らげる時間と感じるようになっていた。慣れというものは怖い。きっとこれも、美咲と自分をくっつけようとする何かの企みに違いないのに。楽園の花嫁だなんて、人権を無視している。馬鹿らしい。そんなシステム、廃止してやりたい。
「甘いものは好き?私、チーズケーキを焼いたんだけど。よかったら…」
「甘いものか…。そういえば、すごい甘党がいたな。学校に」
 丈太郎はいつしか、近寄るだけで甘い匂いを醸し出すようになっていた。一年の頃は、そうでもなかったような気がする。目立ちたがりというわけでもなく、王崎のように取り巻きを連れているわけでもなかったが…丈太郎はどことなく、目を惹く男だった。二年で同じクラスになってからだろう、あの匂いは。おそらく。
「そんなにすごかった?」
「毎日のように、放課後ケーキ屋に通ってた。病気だと思った。習慣というかそうすることで、何かを守るみたいな雰囲気だったかもしれない。よく、知らないけどな」
「なんだか、その人に興味があったみたい。王崎くん」
「変な奴だったよ」
 興味なら、確かにあったように思う。今でもどうしているか、考えるくらいなのだから。
「美咲が作ったのなら、食べてみたい。君の料理は、美味しいから」  
「ありがとう」
 差しだされたケーキは買ってきたものだと言われても、何の遜色もない出来だった。甘すぎないのに濃厚な口溶けは、王崎にも素直に美味しいと思える。
「話は変わるんだけどね。悪魔の言葉、って聞いたことある?」
「いや」
「誘いが、自分に語りかけてくる言葉。誘いに憑かれた人間が、他人に向けて発する言葉。それを悪魔の言葉、って呼ぶらしいの。堕ちたら最後、言い得て妙でしょう?」
「なるほど。上手い表現だな」
 ただ、和やかなティータイムにする話題でもない。そんな風に思い、王崎は肩を竦める。
「悪魔の言葉って、一体どんな風なんだと思う?」
「さあ…。オレにはわからない」
 美咲が微笑む。さすが花嫁候補というだけあって、磨かれ培われてきた、女の性は感心するほどだった。どういう表情で男が転ぶのか、そんなことまで逐一しつけられているのではないか、と思えるほど完璧なのだ。
 ただそれがあまりにも形通りなものだから、そこに感情が込められていない気がして、王崎の琴線に触れることは、未だない。清廉さや天然というものは、いくらでも装えるだろうから。それを信用できない自分は、人間不信なのかもしれない。触れてしまえば露見される他人の感情に、何度も何度も嫌な思いをしてきたのだ。美咲は大丈夫だろうか、自分の味方でいてくれるだろうか?
「あ」
 考えごとをしていたせいか、王崎はフォークを床に落としてしまった。拾おうとした美咲の手と、王崎の手が触れた瞬間。

『王崎くんのことが、好き。早く、元気出してもらいたいな』

 今のは唇から発せられた、言葉ではない。
「すまない…」
 慌てて、王崎は手を引いた。こんなことを繰り返すうちに、いつしか潔癖性だと周りに思われるようになった。そう誤解されていれば触れられることもなく、増幅される相手の感情を無視していられるから、都合がよかったのに。
 今はバリアのようだった取り巻きもいないし、何より、美咲の感情は澄んだものだった。不愉快な気持ちを抱くどころか、その素直さに、呆気にとられてしまった。…信じても、いいのだろうか?
「王崎くん?どうしたの?」
 ただ味方が欲しいのか、誰でもいいのか。それが美咲でもかまわないだけなのか…、今の王崎には、判別がつけられない。
 手を出すにはあまりにも、リスクが大きすぎる。その行為自体が、どれだけ周囲に影響を与えるのかを考えると今はまだ、美咲に応える気にはなれなかった。そしてそれが正しい選択だと、疑わなかったのだ。
「チーズケーキ、ありがとう。こんなに美味しいケーキを食べたのは、久しぶりだった」
「よかった!嬉しい」
「小さい頃、母とよく食べていたんだ。思い出すよ」
「そうだったんだ。王崎くんのお母さんは、どんな人?」
 王崎の母は、名を光子(ひかるこ)という。理由あって今は精神病院に入院しているが、とても繊細で傷つきやすい性格をしている。光子は天根矜持を愛していたが、二人の未来は別々のものになってしまった。母の話は、誰にもしたことがない。神津にも誰にも言えない、王崎が一人で抱える秘密の一つだった。
「…美咲の両親は、楽園の信者なんだったな」
「ええ。私は小さい頃から、楽園の思想を教えられてきたの。そういう人は、珍しくはないと思うけど…。そのことで、常識と認識が少しズレている時があって、外の人に驚かれたりするわ。学校に通った時もそうだった」
「美咲は綺麗すぎるから。そういうの、普通の感覚だとわからないんだろう」
「綺麗という言葉は、女性を口説きたい時に使うべきだと思う。…それじゃあ、また来るね」
 ほんのり頬を染め、美咲は部屋を出て行ってしまった。
「充様、美咲さんはいい人です」
「それは、丁度いいという意味か?それとも、都合がいいという意味か?答えろ、仁」
「…素敵な方だと、いう意味です。充様に釣り合った、い、いえ相応しい魅力的な女性だと」
「馬鹿馬鹿しい。彼女の人権を無視してる。もっと楽しい話をしろ、命令だ」
 美咲と入れ替わるように訪れた神津は、それきり黙り込んでしまった。神津との間に流れる沈黙は、嫌いではない。慣れているし、それも普段の二人のやりとりの一部だからだ。
「…そうだな。御堂の話でも聞かせてもらおうか」
 その名前を出すと、わかりやすく神津の表情が歪んだ。こんな時だけだ、神津が正直な態度になるのは。別に丈太郎が今どうしているのかなんて、知りたいわけじゃない気がする。この顔が見たいだけで。
 辛抱強く、王崎は神津の言葉を待った。


  2007.07.21


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