第十六夜「裏切り行為」



 懐かしい人に会った。ずっと会いたくて、大切に想っていた人と。

 ただそれは丈太郎の錯覚で、他人の夢を、自分のことのように感じただけだったのだ。
 すがりついた身体を抱きしめて、謝罪したのは自分じゃない。だけど確かに誰より近くて…、今は誰より遠い人。丈太郎は、彼を知らなかった。正確に言えば、忘れてしまっているから記憶の中にいない。
 ただ、その映像を映画のように、実際に他人事として丈太郎は眺めていた。見て良かったのか、躊躇するほど互いの葛藤は切実な、切羽詰まったものだったけれど。見えて、しまった。
(…はあ。なんか、喉乾いた)
 丈太郎は目を覚ますと、向かいにあるベットで眠り込む正純を起こさないように、静かに身を起こした。時計の針は、午前三時前。部屋は真っ暗で視界も暗いが、丈太郎にはあまり関係のないことだ。
 おそらく夢の原因は、泣きながら眠る少年の回想に反応してしまったとか、そんなところだろう。厄介なものだ。何の成果か知らないが、楽園での数日間は、丈太郎の能力をより一層開花させてしまったらしい。よくわからない薬を嫌々、丈太郎は教授に飲まされた。命に別状はないし、君を陥れるものではないと、生理的に受け付けない笑顔で、あの男は命令を下したのだった。
(台所。お茶、水でもいい…けど)
 深夜の和ノ宮邸は、気味が悪いくらいの静謐を保っている。
 丈太郎たち什宝会メンバーの部屋があるのは、和ノ宮家が住んでいる本宅とは、別の離れである。大体、敷地内に病院や研究施設、墓地、寺、土蔵なんかもあったりするから、もうこれらを何と呼んでいいのか丈太郎の庶民的な感覚では、全くわからないのだった。一般常識には疎いところがあるだろうが、丈太郎も金銭面は、普通の感覚を持っている。
 信之介の話では、什宝会は情報班と戦闘班に分かれている上、直接密な関わりはないにせよ、医療班というチームも存在するらしい。もしかしたら、もっと細かく仕事は分類されているのかもしれない。
(…ここか)
 案内されたわけではないが、迷いもなく台所までたどりついた丈太郎は、明かりが漏れていることに一瞬戸惑い、そこにいるのが信之介と周防だとわかると、室内へ足を踏み込んだ。
「丈太郎っ…」
 そんなつもりはなかったのに、途端に空気は張りつめてしまった。
「なんか、目が覚めちゃって。喉乾いたから」
 動揺した様子の周防には気づかないふりをして、丈太郎は笑顔を浮かべる。どうやら周防も、正純と同じで丈太郎の思い出の中に、深く関わっているらしいのだ。
 丈太郎の、というよりはもう一人の誰か、と表現する方が正しいかもしれない。しかも、自分の中にいる。他の人間は彼…矢代甲斐のことを、一体どう思っているのか。自分は、どう思っていたのだろう。かといって一人一人、聞いて廻るわけにもいかない。頭の隅で考え事をしながら、丈太郎は溜息を殺す。
「そ、そうか。冷蔵庫ん中、好きなもん飲めばええよ」
「何挙動不審になってるんだよ、広大。丈太郎くん、そこ座って。オレ、お茶でよければ用意するよ」
 信之介は、違う。面識の無さが安堵感に代わるとは、皮肉なものだけれど。
(信さんは、俺の味方でいてくれるといいな。…せめて)
 周防が聞いたらショックを受けそうなことを、そっと考えてみたりするのだ。反発というよりは、周防に対する思いは不安なのだろうが。自分を受け入れてはくれないと。もう一人の存在に対する思い入れが、強すぎるのだ。
「ありがと。信さん」
「いえいえ、どういたしまして」
 一人落ち込んでいるような周防は、ちらりと伺うように、丈太郎へ問いかけた。
「………不安か?丈太郎」
 まさにその態度が、と答えれば周防は、どんな反応をするだろう。そんな意地悪さは持ち合わせていないが、たちの悪い興味が、丈太郎の頭をかすめる。
「だーかーら、広大は自分を棚に上げて、丈太郎くんを気遣わなくてもいいから。どうぞ」
「話の邪魔しちゃって、すみません。飲んだらすぐ、戻るんで」
 自分がこの場の雰囲気を乱しているのだろうと推測すると、なんだかいたたまれなくなる。
 酒も入り、無礼講だった宴会はともかく、だ。おかえりと言われても、仲間だと言われても、すぐに順応できるほどの図太さは丈太郎になかった。なるべく早く、気持ちを切り替えなければ自分が辛いだけだとわかっている。今は、余裕がないにしても。
「そんなこと言うなよ、丈太郎くん。丁度買ってきたプリンがあるから、食べるかい?」
「あ、そういえば俺ずっと、甘いものが食べたくて食べたくて…。頂きます」
 温にいくら頼んでも、おあずけをくらっていたもの。
 丈太郎のその何気ない言葉に、周防はますます憂鬱な表情で俯いた。
「広大。お前、もう部屋に戻―――」
 さっきまで散々悩みを吐露された信之介は、すぐに察してそう提案してみたのだけれど。
「っ!」
 突如訪れた胃のむかつきに、丈太郎は思いきり顔をしかめた。スプーンが、カン、と音を立て床に落ちる。たかが柔らかい優しい色合いが、どうしてこんな変化をもたらすのかわからなかった。
「丈太郎!?どうかしたんか…。顔真っ青やぞ」
 人のことをとやかく言えないような顔色で、周防が尋ねる。すぐには、答えられなかった。
「…みませっ、吐く、かも」
 丈太郎は込み上げてきた不愉快な現象を必死で押し殺し、お茶を喉に流し込む。嫌な感じ、だった。他に表現しようもないほどに。気持ち悪くて、身体全体が受け付けようとしない。
(?)
「シンちゃん、そのプリン。何かおかしいもんを…」
「馬鹿言え。オレが、そんなことするわけないだろう?丈太郎くんにさ。昨日、雅さんが差し入れしてくれたもんらしいし。モモもシゲも、味見済みだって言って…」
「ちょっと貸し。…別に、普通に甘いだけで何の変哲もない味やな。ほら、シンちゃん」
 二人のやりとりが、すごく遠い。じわじわと、毒のように浸食してくる説明しがたいもの。これは一体、何なのだろうか。
「甘いな…。丈太郎くん?大丈夫!?」
 信之介につられて丈太郎へと視線を向けた周防も、露骨に眉をひそめた。
「え…、いえ。俺は、何で……?」
 急に悲しい気持ちになって、自然と涙が零れ落ちてくる。説明のつかない衝動に、丈太郎は揺さぶられるかのように嗚咽を堪えた。寂しいとかせつないとか、漠然とした感情が胸を詰まらせる。涙が、止まらなくなった。
「丈太郎くん…」
「丈太郎。ごめん、俺が悪かった。こんな形でなくちゃんと、お前を迎えに行けば良かった。楽園まで。不安にさせたり、傷つけるつもりなんか本当はなかったのに…」
 申し訳なさで一杯になった、表情。疲れと重なって、見ている方が痛々しい気がする。宴会の後、もしかしたら周防は、延々とそんなことを悩んでいたのだろうか。
「俺にもわからないことを、謝らないでください」
 プリンが泣くほど嫌いだったとか、そんな思い出は憶えていない。謝られてもわからないから、意味がないし、聞きたくない。ただ、丈太郎には不思議だったのだ。
「俺、部屋に戻ります。おやすみなさい」
「あ…」
「丈太郎くん、おやすみ。明日は、ゆっくり起きてくればいいよ」
 引き留めようとした周防を制し、信之介が笑顔を向ける。頷いて、丈太郎は二人に背を向けた。廊下に人気はない。ざっと見渡してみても、監視カメラのようなものは付けられていないようだ。
(まあ、見極めるまではここにいるけど。何が起こっているのか、それから…色んなことを)
 楽園の日々でわかったことといえば、温に親子二代で、異常な執着を抱かれていることくらいか。信頼という建前の、温に向けられていた甘えの感情なんて、今はもう何処にもない。かといって蓄積され、育んできた温との関係を、切り捨てるかといえばそれも違う気もする。
(…寝よ寝よ)
 丈太郎が部屋に戻ると、ベットに座り待っていたらしい正純が、ホッとしたような息をつく。電気は消えたままで、暗くて表情まではよくわからない。それでも丈太郎には正純が、確かに安心したように見えたのだ。
「…どこ行ってたの?トイレかと思ったけど、なかなか戻ってこないから心配した」
 詮索というよりは純粋な心配に、丈太郎は妙に嬉しい気分になる。
「起こしちゃった?ごめんな、白鳥」
 丈太郎が無理やり笑顔を作ると、正純は暫く沈黙した後、別にそういうわけじゃない。眠れなかっただけだと目を伏せて、静かに続けた。
「僕は、御堂が帰ってきてくれて嬉しいよ。色々あったけど…忘れた思い出は、これから新しく作っていけばいいし」
「嬉しいのは、俺が帰ってきたからじゃなくて。矢代さんと、会えたからじゃないのか?」
「!」
 疑問に思ったから訊いただけで、別に困らせようと思ったわけではなかった。
「違うよ。僕は、御堂の中に矢代さんがいるなんて知らなかったから…。驚きはしたし、確かに嬉しかったけど。それとこれとは話が別で、御堂のことをずっと待ってたから。迎えに行こうと思ったことだって、あった。…信じてもらえなくても、無理はないか」   
「やっぱり俺の中には、矢代さんがいるんだな。記憶が時々飛んでるのは、そのせいか」
 一体いつから、そんな風になってしまったのだろう。少なくとも昔楽園で暮らしていた頃は、そんな事はありえなかったのに。思い出そうにも、記憶はあやふやだ。
「カマかけたの!?」
「ごめん。確認を取りたかったんだ。でも、おかげで謎が解けた気がする。ありがとう」
 正直に丈太郎が頭を下げると、正純もそれ以上怒ったりはしなかった。いくらか同情もあるのだろうが、些細な喧嘩で仲違いしたくはないので、丈太郎は内心ホッとする。
「………僕は、御堂のことをよく知らないんだ。周防さんなら、何か知ってると思うんだけど。だから、御堂には色々教えてほしいって思ってた」
「俺とその矢代さんが、会話できればいいんだけどな。そうもいかないみたいだ」
(これも一種の、多重人格と呼ぶんだろうか?それとも憑依?)
 勿論、矢代からの応答はない。ある意味それが正常なのだから、残念がるのもおかしい話だ。意外に冷静な自分がいる。何となくだが、矢代は敵にはまわらない気がした。
「矢代さんは、御堂の恋人だったんだよ」
「え!?」
 突然告げられた衝撃の過去に、丈太郎は信じられず言葉を失う。
「僕は、矢代さんに片思いしてた。でもその想いを、今も引きずってるわけじゃない」
 正純は淡々と言葉を続け、懐かしむように目を細めた。執着ではない、穏やかな表情だ。
「…俺は確かに記憶をなくしているけど、でも、多分恋人なんて作れていないと思う」
 自分がどんな生活を送っていたかよくわからないにしても、あの温がそれを許すとも思えなかったし、丈太郎自身恋愛感情には疎いような気がした。教えられていないから、といえばそれまで。大体他の人間だって、誰かに教わって恋愛をするわけでもないだろうに。ただの言い訳だ。考えれば考えるほど、向いていないような気がする。恋愛なんて。
「こんなことで、嘘はつかないよ。君と矢代さんはつきあっていた…。これだけが、周防さんに聞かされた、御堂について僕が知っていることなんだから」
 正純の過去を、静思する。周防が、矢代本人が…丈太郎とつきあっていると正純に告げている。ただその気持ちまで、真眼で見切れるわけではない。だから他人事のようにしか、思えないのだ。直接正純と面識がないなら、自分自身の思い出は探れない。
 何より思い出そうとすると、不快な痛みが邪魔をしてくる。温に聞きたくても、今はその手段が取れない。
「…ハア。この間から、一体何が起こっているのか」
「一つだけ、説明はできるよ。僕たち戦闘班の人間は、直接誘いと対峙し、浄化を行う役目をおってる。その為に、それぞれに対誘い用の武器が支給されてるんだ。勿論、御堂もね。そして、御堂の武器…愛染は、斬りつけた人間の一部を吸収してしまう。矢代さんは、愛染で自殺したから」
 不意に言葉が途切れたのは、強い調子で部屋のドアがノックされたからだ。こんな夜中に。返事も待たず姿を見せた周防は、落ち込んでいた先ほどまでとは、少し雰囲気が違っている。
「誘いが出た。行ってもらえるか?正純、丈太郎」
「僕らは今回はパス。戦い方を忘れてる御堂なんて、足手まといだし第一危ない」
 要請は、速攻で却下されてしまう。
「白鳥…」
 確かにいきなり戦えと言われても、何がなんだか…。もう、丈太郎にはついていけない展開ばかりだった。正純の態度は予想の範囲内だったのか、周防は苦笑いを浮かべている。
「正純」
「嫌」
「そこを何とか。頼むわホンマ〜」
 そんな時だった。強烈な頭痛が、丈太郎を襲ったのは。
(頭、痛い。なんか、…この痛みは憶えがある)
 二人の会話においていかれて、丈太郎は必死で痛みを堪えようとする。
(誰かの声がする?誰、矢代さん?)
 何を言われているのかわからないが、誰かが自分に話しかけているような幻聴がした。メッセージを聞き取ろうとしても、それは直接丈太郎の耳に聞こえてはこず、焦れるような気持ちになる。
「新尾と犬上に頼んで。別に、桜内さんでもいいし。今、大事な話をしてるんだけど」
「新尾と犬上、それに桜内さんにはもう、別件で出てもらった。三人まとめてな」
「………」
 毎度の如く、白熱してきた正純と周防は、丈太郎の変化には気づきもしない。長い間ずっと黙り込んでいた丈太郎は、ようやく二人の間に割って入った。それもいくらか、軽い口調で。
「大丈夫だって、白鳥。緊急事態なんだろ?戦い方なら、思い出すかもしれないし」
「思い出せなかったらどうするの?簡単な話じゃないよ」
 失敗すれば、死ぬ人間もいる。自覚の無さが、危険を招くことも多い。いつまで経っても渋る正純に、周防はもう会話を打ち切ることにしたようだ。毎度のことだ。
「俺がサポートする。それでええやろ、時間が惜しい」
「勝手に決めるなって、いつも言ってるじゃない!」
 周防に対してはごく素直に、正純は感情を爆発させる。それが周防には、嬉しくもあり厄介でもあるのだが。宥めるような落ち着いた声で、丈太郎が静かに正純を促した。
「…大丈夫、行こう。場所は?」
「丈太郎、」
 何か言いかけた周防の言葉は、丈太郎の視線によって遮られた。たったそれだけで、周防は何かを理解したらしい。記憶喪失のくせに周防と二人でアイコンタクトなんて、相棒である自分の立場がない。拗ねたくなる。ぼんやりとその空気を嫌な感じだなあと溜息に代え、正純は最後の抵抗を試みる。
「僕は嫌だ…」
「何も心配しなくていい。大丈夫」
 力強い調子で、丈太郎はそんな風に言う。自信すら、あるようだった。
「一体何を根拠に、そんな」
「文句は車の中で聞く。早よ、行くで」
 その理由はすぐに、正純も思い知ることになったのだけれども。


   ***
 

 車の中は静かだった。
 周防の運転は本人の性格からしてみれば、意外といえるほど落ち着いたもので、これは特技といっていいかもしれない。褒めれば調子に乗るので、正純が口にしたことはないが。
 後部座席に座った丈太郎は窓の外を見たまま、何も喋ろうとしない。話しかけづらい空気が車内中に漂っており、正純は釈然としない気持ちのまま、ただ俯くだけだった。誘いの気配が近づくからなのか、段々と濃度の高い不愉快な何か、が大きくなっている気がする。
「着いた。あそこ、あの二人組や」
 人気の少ない公園で、周防の言う通り、確かに男の二人組がホームレスを囲んでいる。外灯は僅かで、ぼやけたような小さな明かりが、かろうじて真っ暗な闇を照らしているだけ。早く助けに行かないと、被害者の生存も危うい状況だ。
「…二対二か。ねえ、御堂本当に大丈夫?」
「そこで見てて。一人で、十分だから。なあ、愛染」
 返事は、迷いのない笑みだった。
 二人は随分久しぶりに、その禍々しい光を見た。突如、放たれる黒い障気。先ほどから感じていた気分の悪さは、誘いによるものではなく、相棒の妖刀によるものだと気がついて、正純は眉をひそめる。周防は、無反応だった。
 昔と変わらぬ隙の無さは、一度だけ戦ったことのある、丈太郎自身のものではなかったのだ。真っ直ぐに誘いへと向かう、刃。いつも圧倒的で、躊躇がない。正純なんかより、ずっと。あっという間だ。一人が聞き取れない叫びを上げ、土の上に転がる。見事だった。
 正純と目が合うと、周防はそれは罰の悪そうな表情になる。どうやら彼は、最初からわかっていたらしい。
「周防さん。今そこにいるのは、誰?」
「…正純」
「答えて。御堂は、一体どこに行ったの?いつのまに、入れ替わったわけ?どういうこと…」
 疑問は、次から次へとわきあがる。確かに矢代なら、実戦も問題ないだろう。ただ、すんなりと納得はできないが。
 正純の問いにも答えられず、周防は首を横に振る。精神的な疲労からか、若干顔色が悪い。
「俺が聞きたいくらいやわ。…それにしても、気持ち悪いな。ここら一体が、息苦しく感じるなんて。こんなにヤバイ刀やったか?アレは。久しぶりやけん、負荷が強いだけなんやろか」
 丈太郎…ではなく、矢代はすぐに結果を出した。その手から愛染が見えなくなっても、立ちこめるような不穏なものは、未だこの場に居残ったままだ。医療班が処理に動き出す隣りで、丈太郎の顔をした矢代が、二人に向かって微笑む。
「こんなのはおかしいよ」
 ぽつりと正純は呟いて、震える拳を握りしめた。
 とにかく、矢代に対しての周防の使え無さときたらよく知っているのだし。しっかりしなければ、と思う。自分の為に、丈太郎の為に。それに、隣りで立ちつくすこの男の為にも、だ。
「矢代さん!」
 呼びかけると暗闇の中、矢代が柔らかく目を細める。その笑みが、記憶の底を呼び起こしてくる。もう恐らくは、自動的に矢代へと変換されているのだ。周防も自分も…、お互いに。
「正純が心配することなんて、何もないんだよ。大丈夫だっただろう?」
 気持ち悪さは、何も消えていなかった。
 妙な不安。気味の悪い、違和感。どんな返事が返ってきても、この不信は拭えないだろう。
「御堂は?御堂に身体を返してあげて、お願いだから」
「…正純はいつも、真っ直ぐだね。君は昔から、そうだったな」
 この三人の中で確実に、正純は一番まともな感覚を持っていた。正純の強さであり、長所だ。こんな状態は、あってはいけないのだ。正しい方向へ、戻さないといけない。全てが歪んでしまっている。そんなのは、気持ちが悪い。正しくない。
「聞いて、矢代さん。それは、あなたのものじゃないんだ。そんな風に勝手に、出たり入ったりしないで。御堂のことが大切なら、わかるでしょう?彼に、迷惑をかけないで」 
 少年の真摯な訴えに、その純粋すぎる言葉の全てに、矢代は思わず笑ってしまった。
「本当はね、おれの大切なものは昔から、ただ一つだけなんだよ。正純」 
「え?」
 あまりにも昔と何も変わらない風だから、正純は戸惑ってしまう。流されるわけにはいかないのに、押されるような勢いもないのに、何故か矢代には誰もが弱い。
 周防が、矢代を睨みつける。責めるというより、もはや懇願に近かった。
「言うな、甲斐!言ったらあかん。絶対にや。約束したやろ、丈太郎にも、俺にもや。アイツの気持ちも全部、無駄にする気なんか?お前は。頼む、黙って消えてくれ。それでもう二度と、俺らの前には…」
 泣き声のような叫びが痛切に響くのに、矢代には届かないのだろうか。いつも何度でもこうやってないがしろにされているような気がして、その度周防は、心が折れそうになる。一番深いところには、どうしたって触れさせてもらえない。いつも自分は、選ばれない。
「正純は、それを知りたいと思う?」
 無視。傷ついている場合ではないのに、こんなささやかな願いでさえ、聞いてもらえない。
 何かを考えているようで、正純は黙り込んだままだ。手遅れになる前に、どうにかしなければいけない。まだ間に合うはず、間に合わせなければ…
「正純!聞くな、頼む!一生のお願いや。丈太郎も望むわけがない、だからっ」
 矢代が死んだ理由に直結する、言葉。それを聞かせたら、正純はどれだけショックを受けるだろう。その為に、傷つけてまで嘘をついて芝居を続けたはずなのに、今更心変わりされても困る。周防は正純を守りたいのに、何より矢代には敵うわけがなかった。
「…落ち着いてよ、周防さん。ちょっと静かにして」

「おれが好きで、大切に想っているのは…正純だけだよ。ずっと、ずっとね」
 
 嘘をついているようには、見えなかった。周防の焦燥と、告げられた矢代の感情が、どうも上手くリンクしないだけで。
 もしこの場に丈太郎がいてくれたら、きっとその言葉を、正純は一番信じられるような気がする。大人が平気で嘘をつくことくらい、つけることくらい、よく知っているのだ。正純は。
 周防が動き、鈍い音が耳に響く。為すがまま殴られた矢代…、丈太郎の頬は赤く腫れた。嗚咽を漏らす声は、周防だ。やるせないような、申し訳なさそうな、いたたまれなさがそこにはある。彼の余裕の無さは時折無性に、慰めてやりたくなるような懸命さすら、抱いてしまうのだけれども。
 丈太郎の澄んだ目が、正純を真っ直ぐに見つめる。けれどこれは、丈太郎ではない。正純は思う。何にも騙されたくはない、それが矢代であろうとも。ただ、真実を見定めたかった。

 気を抜けば呑み込まれてしまいそうなほどに、夜の闇は深い。


  2007.06.16


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