第十八夜「光」



 何かが、腐ったような匂い。誘いを浄化した後、犬上はいつもそんな気分の悪いものを鼻先に感じる。最もそれ、を感じるのはいつも自分だけで、何度か尋ねたことがあるのだけれど、新尾はないと簡潔に答えた。もしかしたらその匂いを発しているのは誘いの方ではなくて、自分の精神的な歪みが匂いとなって現れているのかもしれない。そんなことを考えると、犬上は本当に憂鬱な気分になる。臭くて、気持ち悪い。
 今夜も、楽しい仕事ではなかった。大体、同じ組織の中に好きな人間がいるから辛うじて、続けられているだけ。それくらい、肉体的というよりは精神的な負荷がかかる。これは作業だと割り切って、時に誰かの命を奪って。この先に待っているのは、破滅の他に何があるだろうか?明るい未来の為、そういう建前があるはずなのにどうしても、綺麗な嘘を信じることができない。信じて、後で馬鹿をみて泣いたりなんてしたくない。
「浄化完了しました。…ええ、三人とも何ともありません。今から帰還します……え?」
 情報班と通信を行っていた相棒が、ちらりと自分に視線を走らせたのを犬上は何となく感じ取った。戦闘を終えたばかりで昂揚した精神は、いつもより感覚が研ぎ澄まされる。年齢よりも大人びた新尾は、滅多にその感情を取り乱すこともない。だから一緒にいて、この上なく楽な存在。適当に見えて、その実計算された会話に犬上はいつも全てを任せる。友情に似せた、信頼において。
 今三人が居る場所は、光の楽園のとある支部。誘いに集団感染、というのが幹部の見解だったようだが…。指導者を失い、楽園がどれほど混乱の中にあるのか、犬上たちはまざまざと思い知らされたのだった。拠り所が揺らいでいるその戦闘能力は、人数さえ多いものの相手にもならない。その殆どは、病院へ搬送され何人か自殺者を出してしまった。それは異常な光景で、けれど初めて対峙するものではないから、少しずつ感覚が麻痺してくる。
 人間と思うのは、止めにした。誘い、という別の生き物。そんなすりかえでも、多少は気分を楽にしてくれる。ただやっぱり堪えきれず、犬上には堪える気もなく、途中退場してトイレで吐く有様になったのだけれど。自分ができないことは、他の誰かがやる。何もかもを自分が、と気負うこともないのだ。せめてそれくらいが、犬上が什宝会に所属して学んだ教訓だった。その代わり、誰かができないことは自分が。そのスタンスで、ありがたいことに今までも何の問題もなかった。多分、これからもそれで大丈夫だと。
「………わかりました。…いえ、……はい、はい。失礼します」
 ようやく、意味深だった通話が終わった。多分犬上が話しかけてくることを、新尾は先に予想くらいはしていたのだろう。長いつきあいだ。
「新尾、何かあった?」
 大体新尾は、犬上のあしらい方は天下一品なのだ。
 怪訝な表情でそう問いかけても、にこっと笑顔を浮かべるだけで、何も教えてはくれない。その笑顔に、女はみんな騙されるんだと犬上は面白くない気持ちになる。自分も誤魔化されてしまうから、余計に。
 新尾は女を途切れさせないモテる男で、「女とヤッている時だけが唯一安らげる時間だ」と少し本気っぽく、犬上に話してくれたこともある。一度だけ姿を見た噂の彼女は、マイナスイオンが出ているのではないかと感じたくらい優しそうな人だった。
「報告も済んだし、帰ろうか。桜内さん、お願いします」
「ああ。早く風呂に入りたいな」
 車に乗り込みながら、桜内は口調だけはいつも爽やかだと、犬上は思う。今日犬上が酔ってしまった理由の一つは、この男の陰惨なプレイとでも表現したい行為だったのだが。
「…そうですね。なあ、清、帰ったら背中流してやろうか」
「はっ!?趣旨替え…?」
 新尾は、無類の女好きなのだからそんなことを言われると、本当に調子が狂う。容赦なく頭に手刀が飛んできて、いてっと犬上は目をつぶった。おまけに、頬をぶにっと引き延ばされる。…そこまで怒らなくていいのに、冗談だと流してくれればいいのに。
「清、今度そんな馬鹿なこと言ったら、この車から蹴り落とすからねー」 
「……………」
 隣りに座った新尾は窓の外を向いて、何となく思いつめたような表情をしている気もする。犬上の視線に気づいているくせに黙り込んだまま、静かに時間が過ぎていく。確かに変だとは、思った。三人は、和ノ宮邸へと帰路を急ぐ。別にその場所が、安らげるというわけでもないのに…。
「清、落ち着いて聞いてくれ。周防さんが死んだ」
 和ノ宮邸に着くなり、淡々とした声音で新尾はそう言った。耳を通り過ぎ、頭で反芻しようとして、その意味を考えることを犬上の頭が拒否する。ふらふらと歩きだした犬上は、正純の部屋へ向かった。今日は確か、正純と丈太郎のお目付役で出向くと周防は言っていたのだ。それがどうして、こんな事態になるのか意味がわからない。もし現実の出来事ならば、怒りと憎悪で、あの大嫌いな少年をどうにかしてしまうかもしれない。
 部屋の電気は真っ暗で、犬上が足を踏み入れると、嗚咽を漏らす声が聞こえてきた。
「…うっ……うう…」
 正純は文字通り膝を抱えて、犬上が部屋に入ってきても顔を上げようともしない。
 勢いこんだような、戸惑ったような、複雑な心情は一気に冷めていった。凍りついたのだと思う、問いかけるまでもなく想い人の不在をはっきりと、全てが物語っていたからだ。
 隣りでそんな正純を労るように佇む丈太郎と、目が合った。何かを見定めようとするようなそれに、犬上は気圧されそうになる自分を必死で堪える。新人相手に恐怖を感じるなんて、犬上清貴の名が泣くというものだ。部屋の中にも関わらず、丈太郎の空気は張りつめている。犬上が不本意な行動をしようものなら、すぐにでも斬りつけられてしまいそうなほどだった。彼は愛染の所有者なのだ、と犬上はぼんやり思い出す。
 周防は、愛染の所有者であった矢代を愛していた。そんなことまで思い出して、口を開いた。犬上は矢代が苦手だった。そして、きっとおそらく丈太郎のことも同じように接してしまうだろう。これから、先。
「なあ、周防さんが死んだって本当なのか?」
 全てを閉ざしていたような空気が、ゆっくりと、僅かに揺れた。声をかけて初めて、正純はそこに立つ犬上の存在に気づいたようだ。ゆらりと立ち上がり、幽霊みたいに近づいて、犬上の身体はギュッと抱きしめられる。それは本当に、正純なのだろうかと疑問に思うほど。普段はあれだけお互い険悪な関係で、正純だって、あの矢代が死んだ時ですら、人前で涙ひとつ見せなかった。
 人のことは言えないが、一言でいえばクソガキ。可愛げがなくて、大人になろうと生き急いで、あの時からめったに笑わなくなってしまった。感情を、素直に見せなくなったのだ。それが、どうだ。年相応の子供みたいに泣きじゃくって、縋るように犬上にしがみつくなんて。多分、同じ気持ちだった。二人ともが、周防の死を一番悲しんでいる。こんなこと、やるせなさすぎる。
「…ごめん、……止められなかっ…」
 最初の言葉は、真摯で切実な謝罪だった。事情なんて、犬上には何もわからない。胸が苦しい。丈太郎が視界の隅で、静かに部屋から出て行った。事情は詳しくわからないが、確かに彼と自分たちの立場は異なっている。かけられる言葉も、ないのだろう。
 周防は誰にでも愛してるよなんて嘯きながら、心の底ではたった一人のことだけをずっと想っていた。だからこそ、正純をすごく大切にしていたし、犬上はその関係性に苛立つばかりだったのに。もうそんな嫉妬する感情は、虚しいだけだった…。


   ***


 丈太郎は部屋を出て、人気のない縁側に腰をおろした。傷ついた仲間を慰められたらどれだけ良かったかと思うが、手を掛けたのは間違いなくこの手なのだ。
(…何で、何も思い出せないんだよ!?)
 行き場のない苛立ちに、きつく唇を噛む。心のどこかで感じている喪失感にすら、取り残される感情。腹立たしい、悔しい。泣きたい。

「知りたいですか?丈太郎、あなたは自分の記憶を取り戻したいと願いますか?」

 誰か、にそう問いかけられ丈太郎は息を呑んだ。
 頭の中に直接響いてくる、静かな声。目を閉じればその人は、穏やかな笑顔を丈太郎に向けた。それは、特別な存在だった。誰なのか尋ねることも、その本意を知ることすら、必要でないと思えるくらいに。丈太郎は、知っているのだ。いや、教えられてきた。どれほど自分にとってその人が、大切な存在であるかを。そのことが対峙しただけで、はっきりと丈太郎には理解できた。会ったこともないのに、だ。
「知りたい…。いや、思い出したい。矢代さんや、白鳥のこと。欠落した時間のすべてを」
 そう真剣に訴えることで何かが変わると、自分の中の勘が確信を告げている。
「俺を待っている人がいる。それが、誰なのか思い出せない」
 もう少しで奇跡に手が届くと、無条件に丈太郎は信じた。そこに不安も、疑いもなく。
「…あなたの気持ちは、よくわかりました」
 その言葉が、引き金だった。映画を見るようにというよりは、一瞬のうちに経験として、すべては丈太郎の内に甦ったのである。矢代と過ごした時間、受け継いだもの。家族という家、正純を守ると誓ったこと、楽園と温との確執、それから執着。
(矢代さん…!) 
 強い感情は、矢代が丈太郎へと向けたものだった。同じ身体の中、それなのにすれ違って、結局…。種明かしは単純で、正純を残して死んでさえ平静でいられた彼は、丈太郎が自分の記憶を失ったことにひどく動揺し、自暴自棄になった。それくらいは、想われていたのだ。こんな結末を引き起こすほど。誰からの愛情をも避ける代わり、丈太郎の記憶に留まれる未来を、矢代は選んだはずだったから。
 独占欲の強さときたら、他に類をみないかもしれない。矢代は、温を許せなかった。だから丈太郎を取り返して、それでも全てを忘れた存在に失望し絶望し、行動を起こした…。
 ああ見えてきっと、周防のことも気がかりだったのかもしれない。全部、憶測に過ぎないけれど。正純は強い。年齢こそまだ少年だが、精神的な逞しさは周防を凌駕していた。もしかしたら、矢代すらも。だからこそ、周防のことが心配だったのではないか。それを、本人が気づいていたかどうかはわからないが…ああいう終わり方は、彼にとって幸せだったのだろうか。考えても、丈太郎にはよくわからなかった。
(ごめん。ごめん、矢代さん。周防さん、白鳥…)
 矢代が本当に自分の身体を乗っ取る気があったとは、丈太郎にはどうしても考えられなかった。それが自惚れだとしても、思いこみだとしても、ありえない。お互いの絆は、特別だった。間に誰も介入させずに、たった二人きりで育んできた、永遠に変わらない強固なもの。
(矢代さんのフォローなら、大丈夫だ。俺は、白鳥に対しての、彼らの責任を継ぐ)
 嘘はつき通す。それが一番いいのだと今でも、丈太郎はやはりそういう結論に達した。矢代が振りまいた種は、丈太郎が、代わりに刈り取ってやればいい。そんな役回りなら、喜んで受ける覚悟はあった。
(ああ、それに―――…)
 …王崎充。
「王崎…」
 その名前を呼んで、丈太郎はようやく、自分の心が満たされていくのを感じた。今、王崎はどうしているのだろう。神津が一緒にいるから、大丈夫だと言えるだろうか?
(どうか無事で…できれば、あの偉そうな顔で笑っていてほしいけど)
 ふと人の気配を感じ、丈太郎は顔を動かさず、視線だけでその影を捉えた。殺気や敵意なら、たとえ寝ていようが気づく自信はある。けれど今回は、そうではなかった。
「丈太郎くん、風邪をひくよ。まだ春は遠い」
 信之介が隣りに並び、丈太郎に向かって笑顔を見せる。はい、と手渡された湯飲みをありがたく頂戴し、丈太郎もつられたように笑った。
「はは。なんか、信さんの言葉って妙に詩的ですよね。俺、思い出したんです。全部」
 信之介になら、気軽な調子で何でも話せてしまいそうな気がする。それを重くも軽くもなく、柔軟に受けとめてくれるようなイメージがあるから。まだろくに知りもしないのに、そういう陽と静の雰囲気が、信之介に同居しているように、丈太郎には感じるのだ。
「君の思い出の中に、オレがいないのが残念だ。これからいっぱい作っていこうな」
「あはは、よろしくお願いします」
 想像しようとしてみたが、どうしても上手くヴィジョンになって見えてこない。自分の未来が、だ。丈太郎は真眼を持っているとはいえ、目に浮かぶのは過去の出来事、現在起こっている出来事まで、だ。しかも自分の過去すら、生まれた時の記憶がない。
 何も自分だけが、悩んでいるわけではない。そこをはき違えないようにしておかないと、後で思い知ることになる。不安を笑顔で打ち消して、丈太郎は溜息を殺した。
「それから、オレは広大の後任になったから。これからは、スカウトに就くことになったんだ。…というわけで、悩みがあったらおにーさんに相談しなさい。少年」
「ありがとうございます。でもきっと、信さんのその言葉を欲しがってる人は、他にもいるんじゃないかな」
「ん〜…。まあ、なんせ、オレは君の天使だからね?どうしたって、丈太郎くんが気になってしまうよ。君がどこで何を見ていても、それが君にとって、優しいものであったならいい」
「信さん…」
 なんだかその優しさが妙に居心地悪くなり、丈太郎は信之介から視線を逸らした。
 信之介と接するのは、初めて家族ができた時の感情と、なんだか似ているような気もする。触れるのに慣れていないから、照れくさいとでも表現すれば正しいだろうか。享受しても、かまわない?他人の優しさ。自分に向けられる柔らかな好意は、丈太郎をひどく落ち着かない気分にさせる。不確かな信頼。
「考えすぎるな、大丈夫。君は少し真面目すぎるんだ…、丈太郎くん。いいかい?よく聞いてほしいんだ。人生は、楽しいことしか起こらない。だから、そんなに張りつめなくていい。何も心配しなくても」
 こんな状況で白々しいと、憤る気持ちになんてならなかった。周防のことは、信之介だって辛いはずだ。嘘だとしても、かまわない。こんな優しい嘘が、暗い闇の中に、光を灯してくれたりもするのだから。
 丈太郎は今度こそ、何も言えなくなってしまった。なんだか泣きたいような気持ちになったけれど、込み上げるほどの衝動は曖昧に胸にうずくまったまま、じわじわと言葉の穏やかさが、身体中を満たしていく。
 この瞬間まで、多分、本当の意味で、丈太郎に余裕はなかった。生きることにただ、必死だったのだ。随分と。それが、ああそうかという感じで素直に、信之介の言葉を信じようと思えたのだった。不思議な感覚だった。
 いきなり何か、楽になった。信之介が発したというよりは、誰か…そう、神という存在がもし居るとすればの話、たとえば信之介の声を借りて丈太郎に届けてくれたような、そんな風な神聖な気持ちになった。
「そうだったらいいな…」
「そう、なんだよ」
 色んな人間に対しての罪悪感が、勿論その会話で軽減されるわけでもない。ただ、丈太郎にそんな優しい言葉をかけてくれる存在がいてくれることに、本当に感謝したかった。嬉しかった。ありがたかった。
 こんな夜は特に、本当はきっと誰かに傍にいてほしい。そういう自分の奥底の願望を、信之介はさりげなく叶えてくれた。
(信さん、ありがとう)
 単純な身体に、ようやく睡魔が訪れようとしている。きっと見る夢は、明るいといい。気がつけば白い夜明けが、すぐそこに迫っている。うっすらと染まり始めた空は、静かに夜を塗り替えるのだった…。


  2007.08.17


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