第十夜「誘い/あるいは、祈り」



 まさかこんな形で、誘いと対峙するとは考えたくもなかった。弱さ脆さの発露、自分の影(シャドウ)。本来浄化するべき側の丈太郎が、…滑稽にもほどがある。気を引き締めなければいけない。ありがた迷惑というのか、その瞬間丈太郎は我に返った。
「契約なんか、するわけないだろう」
 丈太郎が喉から絞り出した声は、不自然なほど硬く強張っている。それでも、その気持ちには迷いがなかった。
 悩みこそあれど、それとこれとは話が別だ。自分が自分でなくなるなんて、冗談じゃない。誘いに憑かれた成れの果てを、第一丈太郎はもう知っているのだし…。クラスメイトを手に掛けた。あの夜体育館での出来事を、忘れてはいけない。無駄にしては、いけない。
「失せろ」
 空を切った愛染に、自在に避けてみせた影が可笑しそうに笑う気配がする。苛立ちに任せ、唇を噛む。必死さのせいか血の味がして、丈太郎は眉間に皺を寄せた。
「斬れるわけがない。わからないのか?俺は、お前の弱さ。…お前自身なんだから」
「俺は、契約しない!」
「自分がない。本当は楽になりたい。どうしていいのかわからない」
「っ!」
 丈太郎の声が、自分自身を追いつめて責め立てる。この現象が何なのか、考える余裕もなく丈太郎は言葉に詰まった。
「お前の本当の願いは何だ?それすら思いつかないのか…。つまらない人間だ」
「俺は…」
(俺は?俺は一体、どうしたいんだ…)
「矢代甲斐の願いは、既に叶えられている」
「何を…」
「白鳥正純が、お前をパートナーとして受け入れること。それが、矢代さんの望みだった」
 付け足すように告げた言葉は、丈太郎のものと何ら違和感もない。別の意識が矢代さん、と親しげに発音することに丈太郎は気持ち悪くなる。同時に、腹が立った。
「矢代さんは誘いには、憑かれていなかった!嘘をつくなっ」
 誘いに憑かれている人間は、丈太郎には判別できるはずだった。その為に生まれてきたようなものだ。楽園の道具として、真眼として。矢代には、そんな陰はなかった。
「お前の気持ちは、白鳥正純を裏切っている。ここにいることそのものが、伏見温をも裏切っている。誰もお前の味方ではない」
「うるさい…。うるさいっ!!」
 力任せに愛染を振るう。不意に開けられたドアから、怯えたような悲鳴が聞こえた。
「キャッ!」
「え!?」
 途端に誘いはどこかへと、消えてしまったようだった。消えたというよりは、丈太郎自身の中へ落ちていったのか…気配がない。
「あ、あのっ私、ご飯を届けるように言われて―――…」
「美咲…さん?」
 すっかり毒気を抜かれた丈太郎は、目を丸くして床に座り込んだ。身体中の緊張が、解けてしまった。一瞬、学校に居るような錯覚を感じてきつく眉を顰める。美咲かなえ。丈太郎のクラスに転校してきた彼女は確かに、楽園の信徒という話だったが…。
 まともに会話をするのすら初めてで、お互いの間に微妙な空気が流れる。
「ごめんなさい!ノックをしても返事がなかったから、勝手に…」
 流れるような栗色の髪が、丈太郎の前で綺麗に揺れる。なんだかいい匂いがする。彼女の何もかもが、危険ではないと訴えていて丈太郎は汗を拭った。
「どうして、君が…」
「…私。楽園の恋人だから」
「楽園の恋人?」
 聞き慣れない言葉。もしかすると楽園の信者が発する言葉は、丈太郎にとってすべてそう聞こえるかもしれない。
「次期代表の婚約者候補は、みんなそう呼ばれているの」
「だから、ここに住んでるのか…」
 みんなということは、他にも同じような立場の女性はいるのだろう。めぼしい信者を囲って…、本当に楽園の実態は眉唾ものだ。丈太郎は、溜息を殺した。
「ね、お腹空いてない?グラタン嫌いじゃなかったら、食べて」
「そういえば、暫く何も食べてなかったような気がする…」
 美咲はグラタンの載った盆を丈太郎に差し出すと、すぐに退室してしまった。
(聞きたいこととか色々、あったんだけど。まあいいか)
 丈太郎は湯気の立つグラタンにスプーンを差し、ゆっくりとそれを口に運んだ。
 食欲性欲睡眠欲、人間の三大欲求だったか…。このところ性欲ばかり強くて、他のことがおざなりになっていた。それももう、失せてしまったが。元々は割と無欲というか、そういう基本的なことは一切教えられてこなかった。
 そう、たとえば神津のように。たった一つ唯一のことだけを心に留めて、それだけが生きる希望だった。研究所にいた頃は、そこから外の世界へ行くこと。外の世界に抜け出してからは、この幸せを維持する力を得ること。行き当たりばったりに見えたとしても、丈太郎は体当たりで懸命にやってきた。
 それなのに。愛染を手に入れてしまったら、どうしていいかわからなくなった。力があれば安心できると、思っていたのに。余計に、怖くなってしまった…それは、予想外な現実。見えるばかりで、無力な自分が嫌いだった。怖かった。強くなりたかった。なのにどうして?
 正純を守らなければいけない、という義務感だけが心に残って。

 ―――覚悟が必要だよ?

 矢代は穏やかな声で、丈太郎にそう告げた。その意味が、今ならわかる。愛情の放棄、ある意味でそれが愛染に定められた運命。
(…でも、やっぱり諦めたくない)
 何もかもをだ。一つ残らず、自分が大切に思うもの。
(王崎のことも、温のことも。白鳥のことも、全部)
 誰かが、馬鹿にしたように笑った気配がした。ゆらりと、空気が不愉快に変化する。 
「もうひとつ」
 影がまた、自分と同じ声で丈太郎に話しかけてくる。
(大丈夫。俺は負けない、自分にだけは)
 熱くなった指輪を宥めるように、丈太郎はギュッと左手でそれを握りしめた。誘いを見る。
「面白いことを教えてやろう、御堂丈太郎」
「何だ」
「真眼の持ち主は楽園の守人と呼ばれ、代表の下で守り従い、自分の全てを捧げなければいけない。お前が楽園を出たおかげで、代役が必要になったんだよ」
「代…役……?」
「お前には一人だけ、友達がいたよなあ」
「なっ!?」
 いつも後から知らされる事実は、丈太郎の根本を揺さぶって感情を掻き回す。残念ながら友達の心当たりなんて、一人しかいない。さっきまでこの部屋にいた、温しか。
「お前の実験が失敗して、教授はひどく腹を立てた。今までの方法では手緩いと…、その結果が神津仁。お前のおかげで、アイツの人格は壊れちまった。それから、もう一人。お前の隣りにいる男」
「え?」
「さすがに神津とは違い、人格まではもうどうにもできないようだったが。自分の息子が犯した愚行を、教授自ら裁いたんだよ。その目をもって、一生を楽園に縛りつけた」
「温が、俺のせいで?だって、そんなの一言も…。温が、真眼を持ってるっていうのか!?」
「眼鏡を掛けることで、それなりにコントロールしているようだな。だが、意識はどうすることもできない」
「………嘘だろ」
「信じるかどうかは、お前の判断に任せる」
「どうして、そんなこと知ってるんだ?でまかせを言うのは、やめてくれ!お前は俺なんだろう!?俺はっ、そんなこと知らない…。それが何より、嘘だと示しているんじゃないか?」
「お前は、見ようとしていないだけだ。真眼を持っているにもかかわらず、な」
「………」
 否定の代わりに透明な液体が、丈太郎の頬を静かにつたっていった。自分でも、気づかないうちに。その反応に、誘いは呆れたような言葉を投げかける。
「今更泣いたって、どうにもならないだろうが」
「消えろ。消えろ、消えろ!!」
 ただ、叫ぶことしか出来ない。無力すぎた。自分を助けようとした温の行動には遙かに及ばない、どれだけのことをしたのかしているのか今、楽園に戻ってきたことによって。その意志がどうとか、そんなこと関係ない。行動がすべてだ。温の怒りは、当然のものだ。ないがしろというよりもう本当に、そんな次元で語るべきことじゃない。
「ハイハイ」
「…っ………!」
 だからあんな風に、神津は丈太郎に強い苛立ちを感じるのだろうか。温は温で、丈太郎の言葉にしない事実を知っているから…、何も聞かないで、手を伸ばして。
(ちくしょう…。クソ、クソっ!)  
 頭がこんがらがってきた。なのに、情けないことに涙が止まらない。これは罪悪感?それとも今自分は、後ろ暗い喜びを感じているのだろうか?何に対して?
 そう、なんだとしたら…不思議に思っていたことが、ゆっくりと一つの線になり繋がってしまうのだ。考えれば考えるほど、思考は闇に堕ちる。


   ***


 居心地が悪い。什宝会の空気はピリピリと張りつめていて、正純はここ暫く落ち着いた気分になれなかった。そもそも何も確かめもしないで、勝手に楽園側を敵と判断している幹部の判断にはどうかと思うし、安易にパートナーを差し向けたあげく、諦めきって、変な決意をかためている上司にはうんざりする。
 唯一の気分転換である学校生活といえば、什宝会の任務優先で大嫌いな和ノ宮邸に拘束されて、授業の内容なんて、本当に忘れてしまいそうだ。緊急事態に備えて待機と言われても、なんだか釈然としないというか。更に悪条件をあげれば、パートナーを組む戦闘員は基本的に一人で誘いを浄化することが許されず、正純は暇をもてあましながら、一日中殆ど部屋か、書庫の中に引きこもっていた。
「白鳥、ちょっといいか?」
「今忙しい」
 ドア越しに否定を返したというのに、仲間の一人である戦闘班の桜内が、部屋に入ってくる。正純は内心舌打ちして、不本意な来客を迎え入れた。
 誰ともパートナーを組まない桜内はもうすぐ三十近い年上で、割と他のメンバーに気を遣う。正純を目の敵にする他の人間とは違うが、それでも仲間意識を感じたことはなかった。誘いを赦せない正純は、戦闘において抹殺か完全な浄化を望む。対峙した時、自分に浄化するだけの力が残っていない場合は、遠慮なく殺してしまう。
 何度か誘いの後遺症が残った人間を見たことがあるが、あれなら死んだ方がマシだと正純は考える。気が狂う、ということはこういうことを指すんだと寒気がした。恐ろしくなった。だがこの桜内という男は、たちが悪い。怖い男だ。完全な浄化を好まず、誘いを潜在意識に引きずり出したところで、それを本人に知覚させておしまい。それから先は気が狂うも、完全に自分の力で打ち克つかも本人次第というわけだ。什宝会はその人間を観察するなり研究するなりして、今後に生かしているらしい。悪趣味すぎる。
 一度誘いが発症した人間は、他人を殺害した上自殺。それが大体の世間の認識だったけれども、どうやら世の中は広いもので、誘いを自分で飼い慣らすことができる強さを持つ人間も、本当に少ないが存在はするらしい。もう二度と誘いは現れないのか、それとも姿を隠しているのか…。未だ、研究は途上のようだが。
「夕飯、鍋だってよ。白鳥も食うだろう?」
「いらない」
 正純はその宣告に、即座に首を横に振る。他のメンバーと和気藹々と鍋を囲む図を想像したら、食欲なんてあっという間に失せてしまった。
「そうか?まあ、お前シャイだもんな。後で、広大に何か持ってこさせるよ」
「自分で取りに行くからいい。確かに僕は一番年下だけど、そういう扱いはしてほしくない」
 この立ち振る舞いのどの辺りが、桜内にとって「シャイ」の一言で済む問題なのだろうと頭を悩ませ、正純は唇をとがらせた。考えるだけ、思考回路の無駄遣いだと切り捨てる。
「ハハ。いいなあ、若いって」
「………出てってよ、桜内さん」
「甲斐があんなに執着してた理由が、白鳥を見てると何となくわかる気がする」
「っ…」
 その、名前を出すのは。弾かれたように表情を変えた正純は、ようやく年相応の素顔になる。赤く染まる頬は、隠せない。本当に、ここにいる大人たちはデリカシーの欠片もない。プライバシーも皆無に等しい。周防相手ならウザイ、殺す、で引き下るのに(むしろいつものことなので、ちょっかいを出すのをやめる)。
「御堂って奴もさ、きっといい奴なんだろうな。早く会ってみたいな」
「え…?」 
「うん?どうかしたか、白鳥」
「桜内さんて、御堂のこと疎ましく思っていないの。僕もそうだけど…」
 どうも正純自身、什宝会の他のメンバーとは折り合いが悪い。しかも丈太郎が加わると、更に、だ。理由は考えてみてもよくわからないのだが、そんな心情など欠片も興味がなかったし、それは目の前の男に対してもいえることで、正純は不思議そうに瞬きする。
「同じ仲間じゃないか」
 桜内の一切合切を飛び越えたその返答に、軽く眩暈がした。
「本当、御堂が早く戻ってくればいいのに。そうしたら今好き勝手言ってる奴ら、どうなっても知らないって感じ」
 というか、誰よりも周防をケチョンケチョンに罵ってやりたい!そう心の隅で思って、正純は唇を歪める。
「信頼してるんだな」
「まだ、そこまでの関係じゃないよ」
「じゃあ、これからだな。楽しみだな、戻ってくるの」
 これからはどうなるんだろう。信頼関係を築けるのだろうか、二人で?矢代とは、出来なかったこと。丈太郎と一緒に、やってみたいこと。二人なら、出来ること。
 そんな考えに辿り着き、正純は丈太郎に会いたいと素直に思った。この気持ちを、本人が聞いたらどう思うのだろう。知ってほしいような気もするし、知らなくていいような気もする。ささやかな期待が、なんだか気恥ずかしい。でも嬉しいような、くすぐったい気持ち。
 
「早く、戻ってきてよね…。僕のところに」
 一人きりになった部屋で、正純は祈るように小さな声で囁いた。


  2006.11.30


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