「世界」



 片思いがこんなに苦しくて、つらいものだなんて知らなかった。
 …知りたくもなかった。


 岡崎がピアノを弾かなくなってから、一週間が過ぎただろうか。奴を想ったところでオレは、いつもの成績に何の支障もない。授業なんて、元より大抵聞いていない。
 時折オレと目が合うと、それこそ何か不愉快極まりないものを見るような目つきで、岡崎はふいと視線を逸らす。…この状態に慣れるどころか、オレが心臓発作で死んだら、岡崎のせいだ。恋の病。
 やってられない。めげずに話しかけようとしても、岡崎は上手くかわしていつの間にかいなくなる。いつまでたってもこのままなんて、嫌なのに。なかなか、思うようにならない。
 この機会に男を磨く、なんて。自分の長所が、何なのかわからないで…焦るばかりで身動きが取れなくて、それでも日々は、平凡に過ぎていくことに変わりはなくて。
「渚、一緒に帰ろ」
 生徒会のミーティングが終わり、羽柴が人懐っこい笑みを浮かべて、オレの隣りに並んでくる。
 ここのとこ覇気のないオレに、何か言いたそうな表情をしていたのは知っていたんだけど、ついにきたかって感じだ。一体、何を言われるのか気が重い。心配してくれるのは、ありがたいが。
「ラーメン食べたい。ラーメン。なーぎさ」
「オレは、カツ丼の気分なんだけど。じゃんけんしようぜ、羽柴」
 …どうしてなのか結局、ラーメンになるんだよな。
 のれんをくぐると食欲を煽る匂いが、オレたちの鼻をくすぐってくる。
「チャーシュー二つに餃子ひとつ、お願いしまぁす」
「はいよ!」
 あっという間に目の前に運ばれてきたチャーシュー麺は、それはそれは美味そうだ。
 暫く、二人でそれを黙々と口に流し込む。
「あのさ、」
「うん?」
「たとえばの話だけど」
 羽柴はいったん言葉を切って、辺りを見回すかのようにキョロキョロと視線を動かした。
「…もし、本当は…数票差で、生徒会長に当選したのは渚の方で。俺が仲の良い長谷川先生にお願いして、不正に当選したんだ。って言ったら、どうする?」
「は?」
 ラーメンが、喉から逆流しそうになるじゃないか。
 またこれは…とんでもないことを言い出す会長だ、本当に。バカなことを。そんなこと、信じるわけがない。開票のシステムは公正に、しっかり行われているのだし…。
 羽柴は大真面目な表情で、オレを真っ直ぐに見つめてくる。
「そうだって言ったら、それは渚の自信になる?」
 こんな方法で、自信なんか手に入るもんか。
 オレは心底羽柴に腹が立って、思わず声を荒げてしまった。
「何言ってるんだよ!羽柴…。冗談でも、そういうこと―――――」
「…そんなことなんだ、渚。大抵の、心配ごとや不安感なんて」
「簡単に、割り切れるものじゃない。馬鹿だろ、お前。二度と言うなよ、そんな嘘!」
 クソ、話が噛み合ってない。羽柴のこういうところ、妙に腹立たしくなるのは前からだけど。
 オレが本気で怒ったことに、羽柴は驚いたようだった。
「ごめん」
 しゅんと、隣りから反省したような声が耳に届く。
「…ごめん。倉内によく、言われるんだ。人の考えに、先回りするなって。俺のこと、嫌わないで。渚」
 なんだかなあ。オレ、羽柴にそんなことを言わせるほど、元気無かったんだろうか。
 落ち込んだ頭をぽんと叩いて、オレは軽快に笑ってみせた。
「…お前って、ホントにバカ。気ぃ遣いすぎなんだよ。羽柴。将来ハゲるぞ」
「そんなつもりはないんだけど、気をつける。…ありがとう」
 はにかむように、羽柴がほほえむ。羽柴のこんな笑い方を見たのは、初めてだ。
 なんだか無性に、照れくさくなってしまった。
「オレのことなら、大丈夫だからさ。何とかなるし、たぶん」
「うん」
 何とかしなくてはいけない。やる時はやるのが、男ってものだ。
「心配かけて悪かった。あーもう!お互い、頑張ろうぜ」
「うん」
 恥ずかしさが伝わってるんじゃないかと思うくらい、自分でも顔が赤くなっているのがわかる。
 あんまり得意じゃないんだよな、こういうのは。さっさと、話題を替えてしまおう。
「これから塾なんだろ?羽柴」
「もう、始まっちゃってるよ。たまにはいいんだ、今日はサボリ」
 時計を見もせず、羽柴がのんきな返事をする。
「余裕だな…」
「渚と一緒にしないでね。俺は、勉強あんまり好きじゃない」
 一年の最初の頃は、羽柴はあまり成績も良くなかったらしい。
 どういう心境の変化なのか、劇的に変化を遂げた羽柴の気持ちなんて、オレにはわからないけれど、羽柴は今、医大を目指している。目指すものが何かあるなんて、とても羨ましい話だ。
「わかんないとこがあったら、聞いていい?渚」
「いつでもどぉぞ」
 下手な、ウインクまでしてみせる。
 ただしオレの説明は、わかりにくいと周りには不評だ。どこで詰まるのか何がわからないのか、理解し辛くて説明が下手くそなのだ。
「…俺も、渚みたいならよかったな」
 羽柴がぽつりと呟いて、溜息をつく。
 オレみたい、ってどんなんだ?聞き返そうと思ったのに、羽柴が心底悔しそうに唇を噛んでいて、聞けなかった。見ちゃいけないものを見てしまったんだ、と思った。


   ***


 いい加減、この状況をどうにかしなくてはいけない。羽柴に心配をかけ、修介に至ってはオレが、何か言い出すのをじっと大人しく待っているらしく、気持ち悪いくらい優しい日々だ。
 学校へ歩く足取りは、重い。信号待ちで立ち止まったところで、タイミングよく岡崎がオレの隣りに並んだ。内心ドキッとしすぎたせいで、オレはコンビニの袋を道路に落としてしまう。慌てて拾って、つぶれたパンに涙をのみながら口を開いた。
「おはよう、岡崎」
「………」
 無視。心臓が、鈍い痛みに軋む。この間から謝罪の言葉もなく、岡崎はずっとこんな調子だ。
 もう堪えられない。オレは精一杯の勇気を出し、岡崎に再度話しかけてみる。
「岡崎、オレ」
「俺はもう、渚の前でピアノは弾かない」
 宣告は、唐突なものだった。
「え…?」
 今まで聴いたフレーズの中で、一番ショックだったかもしれない。
 自嘲するように笑うと、吐き捨てるように岡崎は続ける。
「だから君が、俺を追いかける必要もないわけだ」
 遠回しな拒絶は、いとも簡単にオレの胸を抉るばかりで。
「…岡崎。そん…なに、オレのことが」
 迷惑なのか?そんなに嫌われてたのか、オレ?やばい。泣きそうだ。顔の筋肉が、不自然に引きつっている。オレ、涙腺は弱くないとばかり思っていたけど。
 信号が、青になった。
「ああ。関わりたくないんだ、渚とは。君とは、住む世界が違うんだよ」
 とどめのセリフは、こんなんだ。オレはもう岡崎に何も、言葉をかけることができなかった。
 住む世界が違う、とか。そんなことを言う奴が、いるなんてな。それが、岡崎がオレに言った言葉だなんて…。
 同じ場所にいるのに。その言葉の意味を、まざまざと身を以て実感しているのはオレ自身。だからこそ、きっと好きになって…岡崎は空っぽなオレを、軽蔑しているのかもしれない。


 気がついたら、いつの間にか放課後になっていて。長谷川に呼ばれ職員室に入ろうとしたオレの目に、岡崎とシバちゃんが映った。視界に入るなと言われた言葉が、脳裏に蘇る。別に耳を澄ませたわけでなく、話が聞こえてきたのは、シバちゃんの声が必要以上にでかいから。
「確かに、ドイツは遠いがな…。一度きりの人生だ。後悔のないように、男らしくバシッと決めろ。何度でも、俺でよかったら相談に乗るからな。岡崎」
「…はい。ありがとう、シバちゃん」
 オレには見せることのない岡崎の笑顔が、シバちゃんに向けられる。
「おう、気をつけて帰れよ!」
 無意識だったか、何なのか。その時オレは、身体能力のすべてを使い、岡崎の見えない位置へと慌てて隠れた。
 岡崎が反対方向へ消え去ると、もつれるように職員室の中へ走り出る。転びそうになった。シバちゃんは同期の秋月先生と話をしていたが、オレが飛び込んでくると、明るく表情を輝かせる。
「シバちゃん!」
「おう、どうした?渚。放課後でも元気だなあ、結構結構!」
「今の話っ!岡崎が…ドイツ、って…どう、いう…?!」
 息が苦しくなって、オレはいったん深呼吸する。
 シバちゃんは少し声をひそめて、オレに重大な現実を突きつけてきた。
「岡崎か?ドイツに留学しないか、っていう話が出てるらしくてな。…本決まりになったわけでもないし、他の奴には言うなよ。渚」
 ぽんぽんと肩を叩かれる、シバちゃんのその明るさが今は胸に刺さる。
「…留学……」

 住む世界が、

「そういう、意味…だったのか……?」
 目頭が熱くなる。鼻の神経に力を込めて、オレは泣くのを我慢した。
 本来の目的など忘れ、廊下に向かってゆっくりと一歩踏み出す。
「渚?…お前も、インターナショナルでグローバルな大きい男になれよ!」
「…シバちゃん。それは、過度に望みすぎだと思うよ」
 見当違いなシバちゃんの激励に、秋月先生が的確なツッコミを入れる。
「世界にはばたけ!渚壮真〜」
「はばたいてるのは、今のシバちゃんの頭の中だよ」 
 普段なら二人の漫才に笑うところだけど、生憎そんな気力なんてどこにもなくて。
 強い力で誰かに肩を掴まれて、のろまに身体が反応する。
「渚」
「はせがわ、せんせい」
 長谷川の冷静な声音に、オレはようやく我に返った。
 のぼせていた自分の頭の中と、今居る場所が上手くリンクした感覚だ。
「呼び出して悪かったな。行こう」
 そうだった。すっかり、忘れてた。オレは、長谷川に呼ばれてたんだ。
「体育祭の演目が決まったと、実行委員会から連絡があってな。羽柴は塾で今日はいないから、お前が代わりに…。渚?どうかしたのか」
 長谷川が、僅かに顔をしかめてみせる。これがこの教師の心配している表情だというのだから、わかりにくいことこの上ない。
 オレは去年長谷川のクラスだったから、今では何となくはわかるようになったけど。
「いえ。何でも、ありません」
「…そんな顔じゃないな。渚は、わかりやすい」
「長谷川先生が、わかりにくすぎるんだと…」
 思わず、ツッコミを入れてしまった。
 楽しそうに、長谷川が笑う。この人は最近、よく笑うようになったのだ。
「ハハ。俺にそういう口をきくのは、お前ら生徒会の奴らだけだな」
「先生は、確かに厳しいけど…。オレ、長谷川先生のこと好きですよ」
「ありがとう。嬉しいよ」
 歪むのではなくほほえむ口元から、オレは目を逸らした。
「…はい」
 他人に嫌われることが、こんなにも辛いなんて。岡崎を好きになるまでは、知らなかったことだ。
 
 体育祭実行委員会との打ち合わせは、すぐに終わった。長谷川と別れ、オレは長い一日の帰路に着く。一人になってしまうと、我慢していた涙がこみあげてくるのがわかった。
 何でこんなに、辛いんだろう。どうして岡崎のことなんて、好きになってしまったのか…あのピアノ。もう、聴けないんだろうか?岡崎は、遠くに行ってしまうんだろうか?
 ―――――ドイツなんて、想像も出来ない遠い距離。
「でも、このまま弾かないよりは…」
 想いを馳せる。
 何度も脳裏で繰り返される、せつない音階。岡崎の、音だ。ああ、岡崎なんだな。と思う。うまく言葉にできないけれど、その旋律を聴く度に。
 岡崎だからこそ、紡げるもの。才能さえあれば、努力さえすれば、誰でもあんな風になれるのか。
 オレには、何ができるだろうか。好きなものなんて、思いつかない。嫌いなものも…取り立てて、ない。だからこんなに、岡崎で一杯になってしまっているのかもしれなかった。
 あの音に心を支配されて、胸が苦しくて息ができない。
「タンタンタンタッタッタ…」
 自慢すらできない声が追いかける、幻想の音。
「…ターンターン……」
 住む世界が、
「……岡崎」
 こんなに、好きなのに。
 何が変わったかなんて、何一つ挙げられないで。
 心だけ不自由に捕まったまま、岡崎と、ピアノのことばかり考える。



  2005.05.02


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