「恋という認識」



 「進路希望調査、期限は今週いっぱいだからな」
 シバちゃんの明るい声が、教室に響く。今のオレには、重くのしかかる言葉だ。わからない、見つけられていない。…未だ。プレッシャーだけが重圧になって、憂鬱さを与えてくれる。
「渚、お前進路決めてんのか?」
 半分寝言のような声で、後藤がオレに問いかけてくる。
「いや。後藤は?」
「教師を目指そうかなって、思ってる。今んとこ」
 一瞬言葉に詰まったのは、その光景が想像もつかなかったから。ビックリした。すごく、ものすごく。
「…似合わねえとか、言ってもいいか?」
「ああ、見てろ。十年後、お前のその発言は覆るぜ」
 笑う後藤から目を逸らして、溜息を殺す。感じたのは、軽い妬みだ。いいよな。ただ、羨むようにそう思った。オレはこれに何と書けばいいのか、今はこの空白が辛い。
「お前は、よりどりみどりだろ?頭良くって羨ましいぜ」
 何気ない言葉が、オレの胸を刺す。
「オレなんて、そもそも選択肢すら浮かんでこない」
「そうなのか?」
「健康で、美味い飯が食えて、恋人がいて友達がいて、家族がいて。それで幸せなんじゃないか?こんな、当たり前のことしか思いつかない」
 恋人の有無はともかく、そう考えれば今十分幸せだと感じた。
 この今を積み重ねていけば、未来も明るいはずなんじゃないのか?違うのか?生きていく上で決意表明みたいなものが、必要なのか?本当に。
「シンプルだな。渚らしい考え方だと、オレは思うよ。何をやっても大丈夫だよ、渚なら」
「何かしなきゃいけないのか?決めなきゃいけないのか、何の為に?それで本当に、幸せになれるのか?なれなかった時は、どうする。誰が責任を取るんだ?」
 オレの疑問にも、後藤は余裕の表情でほほえむだけだ。
「人それぞれだからな、そういうのは。絶対なんて、世の中に存在しないし。やろうと思った時がやる時で、そうじゃなければ…今はその機会じゃないんだよ」
「よくわかんねえよ。何で一人で悟ってんだよ、…後藤とオレの、何が違うんだよ。悔しいよ」
 他人と比べたって不毛なだけだということは、常日頃、理解しているつもりではあったけれど。
「…青春とは思い悩むことだって、保健室の阿部先生が言ってたなあ」
「……………」
 後藤が目を細めた。そのまま閉じて、熟睡してしまいそうな表情だ。
「オレからすれば、健康で頭が良くて、明るいお前はまさに無敵に見えるけどな。
 笑っちゃうよなあ。ホント、隣りの芝生は真っ青すぎて」
「後藤?」
 返事の代わりは、盛大な欠伸だった。
「…なんか、頭使ったら眠くなったから保健室行ってくる」
「おやすみ」
 ぶん、と振り返りもせず頭が頷く様に揺れる。
 難解な議題をつきつけられたオレの脳みそはイッパイイッパイで、容量オーバーしちまいそうだ。
 ちらりと岡崎を盗み見た。岡崎は頬杖をついて、読めない表情でプリントを見つめている。…ドイツに、行ってしまうのだろうか。
 何も言えないまま、こんな状態のまま、岡崎と離れたくない。未来のことなんて何も見えずに、オレが思うのはそんなことだけだった。


   ***


 昼休み、気分転換に修介が新聞部の部室に連れてきてくれた。オレは何度か来たことがあって、たくさんの情報や写真は、眺めているだけで何となく気が紛れる。
 それに何と言っても、部長の菊池先輩は男のオレでも憧れてしまうくらい、格好いい人なのだ。会う度に、好印象は深まるばかりで。
 今日も先輩はオレたちの姿を目に留めて、穏やかに笑った。その、笑い方が。落ち着きはらった物腰だというのに、冷めるでもなく安心感を与えてくれる。
「久しぶりだな、渚。元気だったか?」
「はい、菊池先輩も。…今、お邪魔になりませんか?オレ」
「集中したい仕事なら、家で済ますから気にしないでいい。今、写真を選別していたんだ。次号の校内新聞に載せるつもりなんだが、渚も一緒に選んでくれるか?」
「はい、見たいです!」
 このさりげない気の遣い方、本当に見習いたい。オレが張り切ってそう声を張り上げると、隣りで修介が笑いを噛み殺したのがわかった。
 菊池先輩は、写真を撮るのがとても好きなのだそうだ。特に好きなのは、人物写真。人が好きで、その人の持つ魅力を表現できるような写真を撮れたらいいという、信念の持ち主だ。
 オレは、先輩の撮る写真が好きだった。
「…あ」
「どうかしたか?壮真」
 思わず目に留まった写真に、身体が反応してしまう。
 どこかの会場で、タキシードを着た岡崎が(すごく似合ってた)、目を閉じてピアノに向かう写真。
 胸の動悸が速くなる。まるで、音が聴こえてきそうだった。こんな形で、オレは初めて、岡崎がピアノを弾く情景を知る。…ときめいてしまった。
「岡崎か?先月の、コンクールの写真だよ。確か、優勝したんだけどな。取材をしようとしても、拒否の一点張りなんだ」
「何で、なんでしょうか?」
 この写真が欲しいですとは、さすがに言えそうもない空気だった。
「目立ちたくないんだろう。才能のある奴ってのは、それなりにやっかむ奴も出るし」
「やっかみ…」
 だからあんなに岡崎は、他人を寄せ付けない雰囲気を醸し出してるのか?
 オレはただ、想像するだけだ。岡崎の感情を、岡崎の環境を。
「そういうのが嫌で、音楽科に入らずに、普通科のうちの高校を選んだらしいぞ」
「…知らなかった」
 オレは岡崎のことなんて何一つ知らず、あの印象的な音だけで。
「いいんだよ、壮真は。噂なんて知らんぷりして、我が道を歩いてくれれば。俺は、そういうお前を見てるのが好きなんだ」
 話を打ち切るようにして、修介が告げる。オレの道って、何だよ。一体?…言葉に出さず、そんな疑問が胸の内でくすぶった。
 なんだか気持ちがモヤモヤして、適当な理由をつけて一人部室を出る。まさかこんな場所で、岡崎と鉢合わせるなんて思わなかった。
「渚」
 珍しく向こうから声を…かけてきたというより、思わず声になってしまったらしい。
「どうして、君が?菊池部長の、取材でも受けていたのか」
 今日も機嫌の悪さは絶好調だぜ、岡崎。話しかけられただけで嬉しいけど、オレは。
 口元が緩まないように気を遣いながら、オレは返事を返す。
「オレはただ、修介のつきあいで寄っただけだけど。岡崎こそ、」
「…何度も聞かれた。俺が、渚のことをどう思っているのかって」
 うんざりしたような口調は、どうも理解しがたいものだ。
「誰が?えっ、どういうことだ?」 
 たぶん、今オレ、この会話についていけてない。
「最初で最後の忠告をしてやるよ、渚。つきあう相手は、ちゃんと選んだ方が良い」
 蔑むような視線を向ける岡崎に、状況が飲み込めないままに…
 オレは首を傾げて、どうにか誤解を解こうとは努力した。
「岡崎、何か誤解してるんだろ?」
 どうすればそういう結論に至るのか、まったくもって不思議以外の何ものでもない。
「誤解?何が?」
 嘲る様な笑み。吐き出すような言葉。
 岡崎の思考は、まったくオレにはわからない。ただ、妙なズレだけは実感した。
 嫌な沈黙だ。先に行動を起こしたのは、岡崎だった。踵を返し、逃げる様に走りだした岡崎の後をオレは慌てて追いかける。音楽室の鍵は、今はオレを迎え入れてくれるように、閉じてはいなかった。
「オレの話をちゃんと聞いてくれよ、岡崎」
「別に君が誰とつきあおうと、俺には関係ない。そう、思わないか?渚」
 調子を確かめるような、儀式的な仕草で、淡々とピアノの鍵盤が叩かれる。
「…岡崎に関係なくても、オレが困る」
「君が勝手に困ったところで、やっぱり俺には関係ない。そうだろ」
「嫌だ」
 好きだって言いたいのに、どうせこの感情なんて本人にバレてるのに。
 なのにどうして、オレと部長がつきあってるなんてことになるんだ?まさか、気づいていないのか?そんなに鈍感なのか、岡崎は。
 決定打を言わせないように会話を進める岡崎は、オレの涙に溜息をついた。ヤバイまた嫌われるんだ、そうやってひとつひとつのことが。…もう、オレどうしたらいいんだよ。わかんねえよ、頭の中ゴチャゴチャになって、涙が出る。鼻水も出る。…格好悪い。
「昔」
 ぽつりと岡崎は呟いて、しゃくりあげるオレから目を逸らした。
「好きな子がいた。でも、あの子が好きだったのは俺のピアノで。俺自身じゃなくて。そのことに気がついた時…俺がどんな気持ちだったか。渚には、わからないだろう?俺が恋を認識した瞬間、理想的な演奏は崩れるんだ…。今みたいに」
「岡崎…」
 それはつまり、もしかしたら―――…
「先生は、恋愛は演奏を深めるだとか無責任なことばかり。よく言うよ、何も知りもしないで。渚を泣かせようが何だろうが、俺にとっては、ピアノを思うように弾けない方が辛いんだ。こんなのは恋じゃない。それなのに…他に、表現しようがない」
 訊かずにはいられなかった。衝動を抑えられなかった。
 早く、一刻も早く期待を確信に変えたくて…オレの声は不器用に上擦る。
「岡崎って…オレのこと、好き…なの、か?」
「だから、困ってるんじゃないか」
 心底からの溜息をつき、笑いもせず岡崎はむしろ眉を寄せる。そんな態度、今はどうでもいい。聞き間違いじゃない、嘘みたいだ夢みたいだ、
 堰を切ったように胸の中の感情がいっぱい、溢れだして止まらなくなりそうで息苦しい。
「オレも、オレも…っ岡崎のこと好きなんだ!」
 苦笑されてしまった。
「知ってる。十分、伝わってるよ」
「…あ、そう。それなら、…いや、いいのか?」
 岡崎が笑った。…たぶん、初めて、オレに向けられた笑顔だ。
 なんだかたったそれだけのことが、胸を締めつけるようにせつなくなる。
「あ」
「渚?」
「オレ、両思いになってからのことを、何も考えてなかった」
 よくよく思えば、それが滑稽に感じられる。余裕が無さすぎたとも、言えるだろう。
 まあ、オレの場合計画なんて大抵は、意味のないものになるのだけれど。
「文通でもしようか?渚の字、嫌いじゃない」
 その冗談が実は深い意味を持っていたなんて、この時オレは、全然気がつかなかった。
「岡崎…」
「俺は、キスがしたいんだけど」
 ―――――ああ、そうか。
 オレの中で、岡崎とキスは結びつきもしなかったんだ。岡崎といえば、ピアノだったんだし。こんなやらしい顔もするんだ、岡崎って。…そりゃ、そうだよな。
 柔らかい唇が触れた途端、我に返る。離れたくなくて、舌を絡めた。何のためらいもなしに、お互いの服に手をかける。もどかしくて焦れったくて、今すぐ自分のものにしたくて、…変になる。
 岡崎の詩的な表現に従うならば、オレはただ、獣に戻るだけだ。



  2005.06.27


 /  / タイトル一覧 / web拍手