「感情的旋律」



 せめて歌声が美しいとか、わかりやすい特技があれば、気を惹くことが出来るんだろうか。誰かを捕らえて離さない、何か。オレにはまだ、そういうものは何もない。小さい頃から、何事もそつなくこなしてきた。勉強もスポーツも、始めてみれば大抵のことは出来たのだ。
 親はいつだって褒めてくれたし、先生にも贔屓されてきたし、友達にも羨ましがられた。だけどここぞという勝負の時には、コツコツ地味な努力を重ねる奴に負けてしまう。
 それが悔しいかといえば当然のことで、何が得意かと聞かれれば何もなく、…何でも出来るということは、何も出来ないことと同じなのだろうか?
 空っぽな自分が嫌で仕方なくて、とりあえず埋められるスケジュールは忙しく組み立てて。そうやって気を紛らわせていないと、希薄なオレはすぐにでも消えてしまいそうな気がするから。
 誰かに必要とされていれば価値が見いだせるかもしれないと、わかりやすい生徒会長というポジションを狙ってはみたものの。ものの見事に空振りし、いつもの敗北感を味わうだけ。
「…はあ」
 寂しい旋律が、ゆっくりとそんな思いを呼び起こし憂鬱にさせる。
 岡崎のピアノ。オレはまだ一度も、岡崎がピアノを弾いている姿をちゃんと見たことはないのだけれど…どういう顔で、どういう想いでこんな曲を弾いているのかと気になって仕方ない。数日前から岡崎には、相変わらずの最悪な態度を取られ続けているくせに。
 オレの何が、いけなかったんだろう。ピアノは何も、教えてはくれない。静かに、泣いているような音。思わずこのドアを開けて今すぐ、慰めたくなってしまうくらいの。
「………もう、こんな時間か」
 腕時計を見る。そろそろ、岡崎がピアノの練習を止める頃だ。早朝練習は毎日行われているようで、無人の廊下に、いつも観客はオレ一人だ。
 何をやっているのかと思う。もっと聴いていたい。ずっと聴いていたい…それくらい、オレはあの音の虜だった。

 岡崎が放課後もピアノを弾いていると教えてくれたのは、修介だ。
 色々聞かれたけど、…とてもじゃないが、ありのままを相談することはできなかった。修介は勘のいい奴だから、オレの気持ちに気づかれたかもしれない。いつかはどうせ、バレるだろうけど。
 淡々と流れるような、悲しい旋律に我に返る。
「…どうしたら、」
 こんな音が出せるんだろう。同じ器官をしている筈なのに、オレが鍵盤を叩いたって無骨な響きがするだけだ。何が違うんだろう。岡崎には何があるんだろう。知りたくて、たまらなかった。オレが知りたいのはきっと、修介が持っている情報ではなくて、もっと本質的な、何か…。
 廊下の壁に背中をもたれて、ぼんやりと岡崎の音に耳を傾ける。
 なんだか、寂しい曲だった。自在に操られていたようなリズムが、徐々に狂い始める。胸騒ぎにしては不穏な、空気。あの指が紡ぎ出す空間だ。
 やがて苛立ちのせいか鍵盤に不協和音が響き渡り、オレが気がついた時には、音楽室を飛び出した岡崎と目が合ってしまっていた。
 瞠目した岡崎は一瞬で空気を張りつめて、険しい表情でオレを睨みつける。
「…何やってんだよ、そんなとこで」
 あ、シカトされなかった。たったそれだけのことで喜ぶオレって、どうかと思ったりするけど。
 上手くいっていないところを見られたせいなのか、岡崎は少し顔が赤い。
「寂しい曲だな。…オレ、別に邪魔しようと思ってここにいるわけじゃないけど」
 どうにか会話を続けて、岡崎とコミュニケーションを取りたいともくろむオレ。
 岡崎は一瞬口ごもり、疲れたように吐息をついた。またなんか、まずいこと言っちまったんだろうか。
「…何でいるんだよ」
「お前のピアノ、好きだからさ。こっそり聴いてたんだ」
 オレほど、正直な男もいないと思う。だから馬鹿だって、修介にはよく言われるけど。考えるより先に、言葉が口から出てしまう。そういう仕組みなんだから、どうしようもない。
 昔から、うちのじいちゃんだけは厳しくて。嘘をついたら、容赦なく尻を叩かれたもんだ。
「…何なんだよ、本当。渚、君って人は……」
 岡崎の握りしめている楽譜が、じわじわと力強い皺をつくるのを見る。
 頼りなげにその譜面は震え、オレが顔を上げた時には、岡崎の唇が歪んでいた。
「え?」
「俺が、馬鹿みたいじゃないか!」 
 岡崎は怒っているようだ。…ああ、オレのどこに怒らせる部分があったのか、全然見当もつかない。
 困った。謝りようがない。オレは真面目に考え込んで、できるだけ気を遣って言葉を繋げる。
「いや、でも誰にでもミスはあるし…。岡崎だって、調子の良い悪いはあるだろうし……。
 少し間違えたくらいで、馬鹿みたいとかそんなことは」
 ああ、繊細な芸術家の神経というのはとかく難しい。
「何の話だよ。俺のミスは渚のせいなんだよ!」
 苛ついたように髪をかく。岡崎がこんなに激しい気性をしているなんて、少し前までは知らなかった。
 ピアノの音を聴けばすぐ、癖や曲調でなんとなく伝わるのだけど。
「いきなり責任転嫁されても、オレも困るんだけど…」
 こういうの、墓穴を掘るっていうのかもしれない。黙っていればいいのに、余計なことまでべらべらと喋ってしまう癖。これを言えば相手が傷つくとか、そこまで考えがまわらない。本質的に、そういう意味で頭は良くない。
「っ…」
 話は平行線どころか、妙な絡まり方をしてグチャグチャになってる。
「岡崎?」
「もう俺に関わらないでくれ!迷惑なんだよ、目障りなんだ。渚がいると…っ!!ピアノの邪魔をしないでくれ!俺の視界に入るなっ!!」
 オレは驚くより何より、苛立ちが先に立った。激昂して、走り去ろうとした岡崎の腕を思わず掴む。
 傷つくより先に、理解できなくてオレも岡崎を睨みつけた。
「何で?待てよ、納得できないだろ。いきなり、そんなこと言われたって。
 メチャクチャだぜ、岡崎」
「………」

 あの指が、綺麗な旋律を紡ぐ指が、人を殴れるということを知る。思いきり張られ、運が悪くも、廊下の壁に頭を激突させたオレは気を失った。
 目が覚めたら保健室の中で、誰が運んだのかと思えば…オレを探していた長谷川先生が、ここまで担いできたらしい。岡崎は、その場にいなかったそうだ。自分の部屋でもないくせに何故か後藤が、オレにお茶を差しだしてくる。
「大丈夫か、渚。格好良くなっちゃって…」
「何で、ここに後藤がいるんだ?」
 素朴な疑問。養護教諭の阿部先生は、どうやら留守のようだった。
「それは、ここが保健室だからだろ?オレは、病人だからな」
 説明にならない。後藤が保健室に入り浸っているらしいということが、なんとなく伝わってきただけだ。
 そういえば、授業中色々と理由をつけては保健室に直行しているような気もする。
「そうかよ」
「おう。で、誰にやられたんだ?渚」
 その問いかけに、自分の受けた理不尽な暴力を思い出した。
 たんこぶができているらしく、眉をしかめると後頭部に鈍い痛みが走る。
「岡崎だよ…」
「…岡崎?って、誰だっけ……」
 そりゃあ休み時間毎に爆睡していれば、クラスの半分も憶えていないのかもしれない。
 後藤も自分から積極的に、他人に関わろうとするタイプではないのだし。
「……うちの、クラスメイトだろ。知らないのか?ピアノが巧い奴なんだけど」
 他にもっとわかりやすい喩えがあればいいのに、オレの中では岡崎=ピアノになってしまってる。
 けれど、そのキーワードは後藤にとって、功を奏したようだった。
「ああ、ピアノ…。聴いたことあるな。図書室で何度か、会ったこともあるか…?」
「ピアノ、聴いたのか?!どう思った?」
 興奮するオレに眠そうな欠伸をかまして、むにゃむにゃと後藤が返事をする。
「よく寝れた。その日は確か、すっげえいい夢見たんだ、オレ」
「…そうかよ」
 曲の感想なんて、ありゃしない。岡崎のピアノが勿体ない。
 後藤はなんだか幸せそうにほほえみ、今にも眠ってしまいそうな表情だ。
「しかも正夢になったんだ。ああ、そん時の…」
「…あのさ」
 真面目に聞けば長くなりそうで、オレは後藤の言葉を遮る。鈍い痛みと共に、心の中の憂鬱は目が覚めてずっと居座ったまま。
「ん?」
「オレ、岡崎に嫌われてるみたいなんだけど…。そんなに、オレ、嫌な奴かな?」
 心の中に留めておけない。思ったことは、口に出してしまう。
 一人で考え込んでいたって、ろくな思考に行き着かないことはよく知ってる。
「何言ってんだよ。お前みたいないい奴、オレ他に知らないって」
 後藤は可笑しそうに笑って、それから興味深そうに、オレの顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だよ。そのうち、お前のこと好きになる。岡崎も」
「そうだといいなあ。こんなの辛いし…」
「大丈夫」
 こういう時の後藤は穏やかで、妙に説得力がある。不思議な魅力のある、変わった奴だと思う。近くの女子校の生徒からモテるというのも、なんとなくわかるような気がする。満ち足りた睡眠さえ与えておけば、案外つき合いやすいのかもしれない。
「長谷川が、もう今日は帰っていいって言ってたぜ。大変だなあ。生徒会活動っていうのも」
「いや、好きでやってることだから。全然平気だけど」
「…羽柴みたいなこと言うんだな。やっぱ、似た者同士が集まるもんなのか」
「そっか?自分では、似てないと思うけどな」
 一緒にしないでくれとはさすがに、親友には言えないセリフだ。
 後藤、羽柴と倉内の三人が集まればオレにとって…極悪トリオとこっそり呼んでいることなんて、絶対に知られちゃいけない。
「ま、支えてやってくれ。頼むよ、オレから」
「ああ。何か、変な話しちゃったな…。寝たら、忘れてくれ。じゃあ、行くわ」
 希望を添えて、立ち上がる。本当に忘れてしまいそうだから、後藤には話しやすいのかもしれない。…そういう自分の考えが、狡いと思い嫌になった。
 少し、頭の中を整理しよう。寝言のような声音が、オレを追いかける。
「おやすみ」
「またな」
 後藤らしい別れの挨拶に、オレの口元に笑顔が浮かぶ。
 靴箱を見やれば、岡崎はとっくに帰ってしまっているらしい。頭に、鈍い痛みが走る。帰路を歩きながら思った。
 どうして、一番最初…あの音を聴くだけで、オレは満足できなかったのか。扉を開けず、黙って耳を傾けていればこんな事態には、ならなかったはずなのに。
 きっと変わらず岡崎の音色は響いていて、泣いてしまうこともあっただろう。それなのに。じっとしてはいられない衝動。今すぐに伝えたいと、身体中が訴えていた。
 胸が苦しくなって、息が乱れて、オレはきっと恋を知ったのだ。


 その日を境に、ピアノの音は聴こえなくなった。



  2005.05.01


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