「恋人の情景」



 V.我が心の依るところ


 それは初めて聴く曲で、気づいたら眠ってしまっていたオレは、うっすらと瞼を開けてピアノを弾く岡崎を見る。
 なんだか懐かしいような、初めてのはずなのに聴いたことがあるような不思議な曲。曲調は全く違うのに、子守歌のような感じだろうか。心がホッとするような、柔らかな安堵感。何の曲だろう?岡崎は目を閉じて、歌うようにその旋律を優しく奏でている。
 そんなに難しい曲じゃない、と何となくわかった。どちらかといえば親しみやすく、憶えやすい気がする。今のオレのレベルでも、練習すれば弾けるようになるかもしれない。弾いてみたいな、と思った。
「岡崎、それ何ていう曲?すごくいい」
 オレに声をかけられると弾かれたように顔を上げて、岡崎はその手を休めてしまう。それからオレを観察するような目で見つめ、眉間に皺を寄せた。
 …オレ、何か変なこと言ったかな?オレは出会ってからずっと、岡崎のよくわからない地雷を踏みまくっているから。そんなことを心配してしまう。
「岡崎?」
 もう一度呼びかけると、岡崎はどこか赤い顔でオレから視線を逸らす。それから、自分を落ち着けるように深呼吸して、渚、とオレを呼んだ。最近少し、岡崎の行動が読めるようになった。
 うん。オレ、岡崎の声大好き。指も顔も身体も全部…って、今はそうじゃないか。
「どうかした?岡崎」
「この曲は」
「うん」
 勿体ぶってないで、教えてくれればいいのに。どうしたんだろう?
「この…曲は、俺が作曲したもので……その」
「岡崎がっ!!?」
 大声で叫び半身を起こしたオレに、恥ずかしそうに岡崎は黙り込んで俯く。あの岡崎が照れていることもよくよく考えればすごいことなんだけど、その事実は軽く貴重な表情を上回った。
 何だろう、心臓がドキドキする。昂揚して、興奮して、恋愛とはまた違う何かが、オレの気持ちを弾ませる。やっぱりオレは、ピアニストの岡崎が一番好きだ。
「オレ、この曲好きだよ!すごいよ岡崎、作曲までできるなんて全然知らなかった!!いい曲だな」
 本当、岡崎はオレをドキドキさせる天才だ!オレは割と緊張したり不安に思ったりすることってない方だけど、岡崎と出会ってからは、色んな感情に揺れてばかりだ。なんだかそれが、自分でも楽しい。
「……………」
 あれ?え?うそ、マジで?
「岡崎?えっ、オレ別に泣かせようと思ってそういう感想を言ったわけじゃ…」
 信じられない光景にオレはすっかり硬直してしまって、言葉だけは慌てたように言い訳をする。
「…ってる。わかってるよ、そんなことは!渚が直情的で、素直な人間だってことは」
 えっと、直情的なのは岡崎も同じだと思う。オレたちある意味で、似たもの同士な気がするし。
 そんなツッコミを心の中で入れ、オレは嗚咽を漏らす岡崎を抱きしめにいく。
 かわいい人だなあ、と思った。岡崎の涙を見たのは、初めてだったから。無性に、愛しさが込み上げてくる。こんな姿を見せるのは、オレの前でだけだとわかっているから、余計に。ああもう、大好きだ。
「そっか。嬉しかったんだよな。岡崎、オレに抱かれてみる気ない?」
「断固断る。オレは注射さえ嫌いな男なんだ、勘弁してくれ」
 岡崎はしかめっ面になって、苦い口調で拒否をする。ちぇ、残念。オレだって男の子だから、そういう興味はあるんだけどな。この調子なら、立場が逆転することなんて一生ない。
 オレは岡崎を愛してるから、嫌がることなんてしたくない。傷つけることだって、しない。
「そっか…。何かかわいいの」
「渚!」
 でもせめて、キスくらいは許して。
 女の子に泣かれると弱い、っていう男の気持ち、もしくは逆のパターンがオレにも少しわかった気がする。オレはこの人を大事にしないと、ってすごく強く思った。なあ、岡崎。オレは大事にするよ。絶対。
 こういう嬉しい涙なら、いくらでも流してくれていいけど…。オレの前でなら。

「オレは、昔、ピアノのことなんて好きじゃなかった。環境があったから、自然と始めただけで。そんな時連城総一と出会って、あの人にピアノの楽しさを教えられて…どんどん音楽に惹かれていった。もしかするとオレの音は、あの人の模倣だったかもしれない。いつからか俺は、そんなことを考えるようになった。表面上は俺を持ち上げる周りの奴らだって、内心はそんな風に思っているのかもしれない」
 疑心暗鬼な少年時代の、岡崎。昔の岡崎が奏でる音は、一体どんな音だったんだろう。もっと早くに出会っていたら、もしかして、オレが岡崎を好きになることはなかったかもしれない。
 そういうことを考えると、巡り合わせって本当に不思議だなってオレは思う。タイミングって、絶対あるから。オレたちの恋は運命。そうだろ?
「自分の音が何なのかよくわからなくなって悩んでいた時に、その音を模索するように、この曲を作っていったんだ。オリジナリティとか、オレにしか出せない音って、何だろうっていつも考えてた。でもそんなのもう、出し尽くされてるかもしれないし考えたってわからないから、単純に、好きな音を並べて」
「うん」
「曲が完成した頃には、そういう、変な焦りみたいな気持ちは消えていた。いつしか、弾く音楽も僅かに変化した。だけどそういう、自分と違う道を歩き始めた俺を、連城先生は…認めてはくださらなかったんだ。俺は、あの人のおかげで成り立っているようなものなのに。先生は俺を、否定したから、それで、俺はまるで」

「自分の価値さえ、揺らいだような気がしたんだ」

 オレは、小さい頃から自分の価値がどうたらこうたら、とか考えて生きてきたわけじゃない。
 岡崎がそういうことで悩んでいる間、オレはきっと、今日の晩飯は何かなとか、好きなあの子と次の席替えで隣り同士になれるだろうかとか、そういう平和な類のものを、日常に並べてきた。
 昔から真摯に生きてきたに違いない岡崎は、今はオレの腕の中で、大事な話をしてくれる。

「自分が何なのか、よくわからなかった。コンクールを期に、とにかく一度先生から離れて、だけど…。止めようと思うにはもう、俺はピアノに嵌りすぎていたから。結局、普通科の高校を受験しても、弾くのは止めずに時々は、先生の興味を惹かなそうなコンクールに出て、中途半端で。色んなことを、どうしていいかわからなかった。そんな時、渚と出会えたんだ」
「そうだったんだ…」
 教室でということなら既に、毎日顔を合わせていた。本当の意味でお互いを見た、あの音楽室での朝の音色。それが、オレたちを引き合わせてくれた…。
 オレは初めて岡崎の存在に気がついて、その瞬間から、世界のすべては変わってしまった。そしてそれは、きっとオレだけじゃなく岡崎も同じなんだろう。
「嬉しかった。渚といると、自分の気持ちを素直に受け入れることができる。それを演奏に、昇華することができる。渚が好きだ。ありのままの自分でいられることが、こんなに楽なことだなんて…ずっと、知らなかったことだ」
「岡崎」
「ん…」
「今の曲。岡崎が作った曲、あれを弾こう。二人で」
「え?」
「岡崎の好きな音を…大切なものを、連城さんに聴いてもらおう。でもそれだけじゃなく、オレ、今の曲が好きだ。岡崎と一緒に、弾けたらなって思うんだ。駄目かな」
「…いいのか?」
「オレはそうしたい。前に言わなかった?オレは、岡崎と同じものが見たくてピアノを弾き始めたんだ。岡崎が連城さんと出会ってくれて、ピアノをずっと止めないでいてくれてよかった。…ありがとう」
「…怖いけど、渚がそう言ってくれるのは嬉しいよ。頑張ろう」
「ああ」
 エドにも感謝しなきゃいけない。そのおかげで、オレはこの曲を知ることができたから。
 まず通して弾いてみるから聴いてくれ、そう言って岡崎はピアノへ向かう。囁くような曲の始まり。さっきまでの、岡崎の告白。
 どんな気持ちで作った曲なのか知ったから、オレは、なんだかもうたまらなくなって、こっそり泣いた。


   ***


 学園祭が近くなり、学校の中の雰囲気もにわかに活気づいている。どこかそわそわして、こういうのって、当日より準備の方が楽しかったりする、特有の空気。
 うちの高校は受験の為に、一部の文化系を除いて、三年は大抵秋で部活を引退する。それは生徒会も同じシステムで、二年目も副会長に当選したオレと、会長に当選した羽柴は今は時々手伝うくらいで、でもこういうイベントの時だから、平時に比べるとその頻度は多い。
 オレたちは放課後の生徒会室で、学園祭のパンフレットを製本していた。こういう地味な仕事が大抵、裏方の生徒会やなんかにまわってくる。まあ、いいんだけど…。
「ねえ、佐々やん。俺たちのことが大好きなのはすごくよくわかるんだけど、俺、忙しいのね」
 羽柴の機嫌は今日はあまりよくないのだろうか、勉強がうまくいっていないのか、ちょっとだけ苛々したような口調でそんなことを言う。
「オレだって忙しいよ、羽柴。つか、お前が文句言うなんて珍しい」
 まあ今更こんなことを言われて、同じく二年目のつきあいである書記の佐々谷と会計の飯塚は萎縮したりしない、ある意味図太い神経の持ち主だって、オレも知ってるけど。
 佐々谷は年の割に落ち着いた男で、飯塚は気持ちいいくらい体育会系だ。二人とも、二年。
「渚は一体、俺を何だと思ってんの?俺は文句だって言うしおならだってする、普通の人間です」
「お前バカだろ…」
「うわ、実際渚より頭悪いから、その発言は傷口に塩塗り込んでるよ!ひどい〜。佐々やん、ほら、俺を助けて。にこにこ笑ってないで、全然可愛くないから」
 羽柴に話を振られ、佐々谷はいっそう嬉しそうな笑顔を浮かべる。コイツ元はけっこうキツイ顔をしてるんだけど、羽柴には懐いているらしく顔に似合わないデレ顔もしょっちゅう。
「文句は言ってもしっかり手は動かしてくれる羽柴先輩が、オレ、好きですよ。引退しちゃって毎日会えなくなって、マジ寂しいです。いっそ、つきあってくれませんか」
「ナチュラルに気持ち悪い…」
 久々に繰り出された佐々谷の発言に、羽柴は露骨にげんなりした表情になる。これが佐々谷なり精一杯のコミュニケーション法らしいから、羽柴は本当ご愁傷様、だ。
 大体羽柴なんかいい加減なもので、女子に告白された時は「オレ、ホモだからつきあえない」。男子に告白された時は「オレ、女の子が好きだからつきあえない」…そのうち、誰かに刺されてもおかしくない。お前、気をつけた方が良いよ。犯罪に巻き込まれやすいタイプだよ。オレがそんな風な感想をもらすと、何がいけないの?っていう本当にきょとんとした表情で、羽柴はオレに問い返すのだった…。
 しかも定期入れに、アイドルの生写真が入っているし(オレは、その子の名前すらわからない)、それが本当に好きなのかカモフラージュなのか(何の?)、もう、なんていうかどうでもいい。
 そもそも、羽柴の情報に詳しすぎるオレ自身が、なんか嫌だ…。
「佐々谷。羽柴は今余裕のない時期だから、卒業の頃を狙うんだな」
 意外にも長谷川はけっこう、こういう悪い冗談を言う。相手が仲の良い羽柴の時、限定で。
 いやまあ、同僚の先生方と話している時は普通に出るんだろうけど。
「長谷川先生、そのアドバイス絶対間違ってる。…あれ、ホッチキスの芯どこだっけ?」
「見つけてきたら、考慮してもらえますか?」
 これは羽柴にキモイなんて言われても仕方ないと思うぞ、佐々谷。つか、しつこい奴。
「飯塚に頼むから。飯塚、ホッチキスの芯とあとついでにこのリストに挙げたやつ、持ってきて」
「ういっす!三十分以内には戻りま〜す」
「よろしく。あ、そういえば渚ピアノの曲決まった?」
 …いや、ま、そうだよな。それが妥当な話題選びってやつだぜ?羽柴。
「あ、ああああ。すごい話題になってますよ、何弾くんです?」
 聞いて。オレの恋人、岡崎楽っていうんですけど、あのピアニスト、作曲もできんですよ?しかも良曲。泣ける。やばくない?完璧じゃない?好きになるしかなくない?こりゃ夢中になる。
 オレ岡崎のこと好きになりすぎて、どうにかなっちゃうかもしれない。でもそれも、いいかなって思うんだ。最近…って、脳内でさんざん自慢してから、オレは二人を無視している現実に気がついた。
「え!?あ、まあ…当日になればわかるだろ?お楽しみってことでいいじゃん」
「ちゃんと練習してんの?エドってすごい人なんだってね。俺、渚に賭けてるから絶対負けないでよ」
「羽柴、今、生徒指導の教師として聞き逃せない言葉があった気がするが…」
 お堅い長谷川はそんな風に言って唇を歪ませて笑い、羽柴はわざとらしく慌てて鞄を手繰り寄せようとする。オレはその手をしっかりと掴んで逃がさないように捕まえて、溜息を殺した。
「俺、ちょっと風紀に用事思い出し」
「待て待て待て。いいか羽柴、オレたちは人数が足りなくて、今、仕方なく手伝いにきてるんだ。終わるまで逃がさないからな、一人だけ。いいか、帰る時は一緒だ」
 オレが真顔でそうギュッと手を握りしめると、羽柴は冗談だって痛いよ本気で握らないで怪力、とやっぱりブーブー文句を言って、休憩!長谷川先生、ジュース奢ってください。俺たち喉渇きました、ともうやりたい放題。
 最近ずっとピアノと岡崎のことばっかり考えてたオレは、なんだかちょっとこの空気に気が緩んで、あ、もしかして羽柴も今同じような気持ちなのかもしんない。とか連想して、目が合って、お互いちょっと笑った。オレも羽柴も、思いこんだらそれぞれが一直線に行ってしまう時があるから、時々はこんな時間を取らないと。息苦しくなる前に、適度にガスを抜かないといけないのかもしれない。
「俺は無糖の珈琲を買ってきてくれ、羽柴。お前らはどうするんだ?」
 長谷川は財布を取り出しながら微笑んで、オレはカフェオレがいいとリクエストする。
 今頃、岡崎は家で練習してるのかな。羽柴はじゃあ買ってくるね!と嬉しそうに生徒会室を出て行く。こういう時、羽柴の帰りは妙に遅い。どうでもいい場所に寄り道したり、気分転換が過ぎるのだ。
 羽柴がいなくなってしまうと、長谷川はオレにもういいぞと声をかけてくる。
「渚。お前、今のうちに帰るんだな。これで帰りにジュースでも買って、練習頑張れよ」
「え!?いいんですか…」
 しかも五百円だった。長谷川先生様々だ。
「曲の不出来を生徒会のせいにされちゃ、たまらんからな。期待してる」
「ありがとうございます!お疲れ様でした!!」
 予想外の心遣いだ。脱兎の勢いで立ち上がるオレに、さすがに佐々谷も長谷川も苦笑する。 
 頑張れよ、その言葉に力強く頷いて。充電も完全なオレは、冷たい土産を持って岡崎の部屋を訪れるのだった…。


  2007.02.25


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