「恋人の情景」



 U.不協和音


 甘い空気、幸福な旋律。
 ずっとこの音楽に身を任せていたいような、そんな感情をきっと誰もが抱く、エドの音。
 岡崎の部屋でオレは目を閉じて、プレイヤーから流れる演奏を聴いていた。
「エドのピアノを聴いた時、」
 ぽつりと岡崎が呟いて、寝転がるオレを抱きしめてくる。
「もし、渚がピアノを弾けたなら…こんな音になるんじゃないかって思ったんだ。その時は、まさか本当に君がピアノの道に進んでいるなんて、知らなかったけど」
「どんな音に聴こえる?岡崎に、エドのピアノは」
「幸福の象徴…。つくりものだからこそ、聴く人を惹きつけてやまない甘い旋律。こう聴かせればきっと、喜ぶ。エドはそれを、本能でなく緻密な計算の上で演奏する」
 それなのに、媚びた気がしない。まるで、極上に仕上げられたおもてなしを、受けるようなその喜び。
 オレにはどう逆立ちしたって、そんな芸当はできないだろう。計算ではなく、理想がそこにあるだけで。表現することで精一杯で、余裕がない。
「なのに嫌味がなくて、実際その通り人は喜ぶ。俺のようなひねくれた男にさえ、音の余韻が耳について離れない」
「………ひとつ、言っていいか?岡崎」
「何だ?」
「正直、勝てる気がしない」
 オレがぽつりと本音を漏らすと、岡崎はおかしそうに吹き出してしまった。
 こんな時、本当に不思議に思うけど…オレ、岡崎の笑いのツボってよくわからない。ボケたわけじゃないし、オレは心の底から真面目に心配してるのに。その反応はひどい!
「笑ってる場合じゃないって!」
 オレが、思わず冷たい恋人の手に噛みつくと、
「不安を煽ってすまないが、俺も渚と同意見なんだ」
 めったに聴けないようなことさら優しい声音で、岡崎はオレにトドメを刺した。
「岡崎…」
 鬼!バカ!!大好き…。オレは一人でそんなことを思って、赤面した顔を隠すように岡崎の胸に押しつける。あ、岡崎もちゃんとドキドキしてくれてる。良かった…。って、今それどころじゃないんだけど。オレには今、ほんの些細でも癒しが必要なんだ…。
 一生懸命頭が現実逃避しようとするのに、岡崎はどこまでも空気が読めない男。
「瀬名にけしかけられて、ついあんなことを言ってしまったが。相手はCDを何枚も出してる、本物のピアニストだ。冷静に考えて、俺たちは分が悪い」
「う…」
 とりあえずあまりにも情けない気がするから、今は泣くのは我慢しよう。
 岡崎に恋をしてから、オレの涙腺は以前より随分と働く。まったく、迷惑なもんだ。
「…でも、俺はもう逃げるのは嫌なんだ。渚のことなら、尚更」
「え?」
 よく聞き取れなかった。オレが問い返すと、岡崎は誤魔化すように笑ってベットから離れる。
 プレイヤーから、別の曲が流れ始めた。
「いや、何でもない。…ほら、連弾曲を集めたCDだ。エドのことは忘れて、自分たちのことを考えよう」
 自分たちのこと、か。岡崎が奏でた、衝撃的なあの音色に出会って、ピアノを弾くようになったオレ。
 オレたちのお互いの音楽性は、きっと異なる。
 岡崎はどちらかといえば悲哀の含んだ曲を好むし、オレは楽しくて、聴いていると元気が出るような曲を好きだと思う。
 …違ったから、初めて耳にした岡崎の音にあんなにも動揺したんだと、今ならわかる。
 その音を初めて聴いた瞬間、何故だか涙が出て、胸が詰まるような苦しさを感じた。あれは、弾いていた岡崎自身の感情が伝わってきたからなんだろう。
 慰めたかったのかもしれない。でも今は、岡崎の演奏に悲壮感は漂っていない。洗練された哀愁、とでも呼べばいいのか。格段に、一年前より岡崎は心と腕を上げていた。
 そんな岡崎と、正反対のオレ。上手く、融け合ってくれるんだろうか…。
 これから、オレたちはどうなっていくんだろう?
 

   ***


 翌日の昼休み、岡崎とオレは二人揃って応接室に呼び出された。またエド絡みなのかとうんざりしかけたが、オレの予想は外れてしまった。
 そこにはオレの知らない中年男性がソファにくつろいでいて、岡崎はその顔を見た途端に傍目にもわかるくらい、身体を強張らせて緊張する。
 どこかで見たことがあるような気もしたけど、オレにはどうも思い出せなかった。
「連城、総一…」
「連城総一って…。あのピアニストの!?」
 岡崎がぽつりと呟いた名前は、オレが何度もCDで聴いたことのある名演奏家のもの。少し癖のある演奏をする、万人受けとは言い難いが一部には絶賛されている、その評価。
 連城さんは岡崎を見て、懐かしそうに目を細めた。
「久しぶりだね、岡崎くん。三年前、君が逃げ出して以来の再会だ」
「…っ」
「知り合いなのか?岡崎」
 随分な挨拶だ。岡崎はひどく動揺して、顔色が真っ青になっている。
 こんな岡崎を見たのは初めてで、オレは思わず言葉をつぐんだ。
「知り合いもなにも、岡崎くんが音楽科のある高校を受験しなかった理由は…私が彼の演奏を酷評して、自信を無くしたからだとばかり思っていたがね」
「酷評…」
「やめてくれ!」
 岡崎は苦しそうな声を上げ、連城さんを睨みつける。
「あなたは、俺に失望したんだろう?どうして今更、こんなところにやってくる理由がある?」
「私はエドが来日したと聞いて、足を運んだだけだ。話を聞けば、君が関わっているそうじゃないか。これは面白いと、挨拶をしたまでだよ」
「………」
 なんだか痛々しくて、見ているこっちが辛い気持ちになるような岡崎。
 オレの知らない岡崎が、そこにいた。
「私の耳に残る君の演奏は、独りよがりなものだったよ。その岡崎くんが、デュオを組むというのだから…聴かないわけにはいくまい?」
 放っておいたら岡崎が、泣いてしまうんじゃないかと思った。
 それくらい、岡崎は悲愴な顔をしていてオレはもう本当に、たまらなかったんだ。
「あの!」
 いきなり話に割って入ったオレに、岡崎も連城さんも少し驚いたような表情になる。
 恋人がこんな風に言われてるっていうのに、オレが黙っているわけにはいかないじゃないか。
「その、昔の演奏のことは、オレは聴いてないからわかりませんが…。独りよがりだなんて、今どんな風に弾くかも知らないのに…そんな風に、言わないでください!」  
「渚…」
「ハハ、面白いことを言うねえ!君が、岡崎くんのパートナーか…。確かに無学なら、岡崎くんの音は素晴らしく聴こえたのかもしれないね。でもピアノは、ただ自分の感情をぶつける道具ではないんだよ。肝に銘じておきたまえ」
「いい加減にしてください、連城さん。俺のことはともかく、彼の耳にまで文句を言われる筋合いはありません。…帰ってください」
 連城さんはオレと岡崎を見比べて、何か言いたげな表情になる。
 けれど言葉を飲み込んで、静かに席を立った。岡崎は目も合わせず、俯いている。
「…楽しみにしているよ、岡崎くん。決戦の日を」
 顔を上げない岡崎は、震える拳を強く握りしめて何かに耐えているようだった。
「岡崎…」
「彼の言ったことは事実だよ、渚。君は、幻滅するかもしれないな。
 …すまない、少し一人にさせてくれないか」

 その手が、ためらいなくオレに縋ってくれたらいいのに。

 オレは、岡崎のことを本当はよく知らない。性格とか趣向とかは知っているけど、それでいいって思っていたけど、もっと表面的なもののことは。
 そうしてそれを知っているであろう人物には、心当たりがあったのだ。突然、放課後喫茶店に呼び出したオレに、快く菊池先輩は応じてくれた。気のせいかもしれないけど、昔から菊池先輩は、岡崎に関する情報に詳しいような気がする。
「菊池先輩」
 先輩の落ち着いた空気は、オレの不安を少しだけ和らげてくれる。どこか生活臭が抜けていて、一緒にいるだけで菊池先輩の世界に取り込まれてしまう。それが、オレにはとても心地が良い。
「あの二人は、師弟だったんだよ」
 単刀直入にオレの知りたいことを、菊池先輩は告げた。
「師弟!?…そ、それにしてはなんかあんまりにも、冷たいっていうか」
 そんな風には見えなかったし、それではあの言われようはあんまりだと、思う。
「岡崎が進みたい方向を、連城総一はあまり良い風に思っていなくてね。なまじ岡崎は才能あるし努力はしているから、傍で見ていると余計に苛々したのかもしれない。そんな時、あるコンクールの評価で、決定的に二人の道を分けたんだよ」
 菊池先輩は鞄から、雑誌を取り出してそれを広げた。昔の岡崎(なんだか頑なそうに見えた)と、連城総一の写真が大きく掲載されている。
 師弟愛に不協和音か!?くだらないゴシップ記事を読むのは途中で止め、オレは溜息を殺した。
「ともかくそのコンクール以来、岡崎は音楽から身を引いた、と周りには思われていた。岡崎をチヤホヤしていた周りの人間は、急に掌を返したし…彼は、普通科のうちの高校を受験した」
「………」
「その時岡崎がどんな気持ちだったかなんて、俺にはわからない。ただ、高校に入学した岡崎はいつもピンと張りつめていて、周りに心を閉ざしていた。それからのことは、俺より渚の方が詳しいだろうけど」
 苦笑いを浮かべた菊池先輩は何かを思い出すようで、オレはその頃岡崎のことは知らなかったから、想像をするしかないのだけれど。
「そうだったんですか…。俺は、何も知らなくて」
「知らない方がお互いに都合のいいことなんて、世の中には沢山あるさ。それにそのおかげで、岡崎は渚に心を開いたんだ…。俺も、知らなければよかった」
「え?」
「いや、何でもない。健闘を祈るよ」
 オレは多分、人の心の機微なんてあんまり読めない方で。それでも微笑んだ菊池先輩はどこか寂しそうで諦めたようで、それをオレに追求されたくはないようだった。
「…はい、ありがとうございました!」
「瀬名によろしくと伝えてくれ」
 菊池先輩と別れたオレの携帯に、岡崎からの着信。
 慌てて耳に押しつけると、感情剥き出しな声に名前を呼ばれて心臓が疼いた。
「部屋に来ないか?君を抱きたい」
「岡崎…」
「悪いが、言葉を取り繕えない。渚、俺は今君を抱きたくてしょうがないんだ」
 どうしてそんな、怖くてたまらないみたいな声を出すんだろう。
 岡崎は、何もわかってない。オレが岡崎の願いを拒否するなんて、あるわけないのに。


   ***


 情緒不安定な岡崎なんて、不謹慎だけどいざ目の前にしてみたら、やっぱりどうしようもなくドキドキする。オレが恋に落ちた時と似た雰囲気が、新鮮で息を吸うのも苦しいくらい。
 悩める美少年は渚、と呟いてオレの身体に手を伸ばした。岡崎の指が好き。ピアノを弾く指が、オレに触れることが好き。それを舐めるのも、大好き。岡崎とエッチするのは、とっても気持ちがいい。
 本当はこういう時オレが岡崎を抱ければって思うけど、そんなこと考えてるって知られたら、ものすごく嫌がられるんだろう。
 岡崎は何かを確かめるように、肌に指を滑らせる。それからオレのない胸をこね回し、チュウチュウ乳首を吸い始めた。恥ずかしい。
「ちょっ…何それ…っや…ぁっ…あ…!…女、扱いする、の、は」
 不安げに揺らぐ瞳と目が合って、嫌と言えなくなる。まあその、なんだ…オレに母性なんてないけど、包容力とか器とかならいくらでも求めてくれ!
「女扱いなんてしたことない。渚は男なのに、俺に触られると乳首も感じるんだもんな」
「…んっ…す、好きなんだからしょうがな…ああっ!」
「いっぱい声を聞かせてくれ、渚。俺しかいないから、ここにいるのは二人だけだから…」
 岡崎の泣きたいような、祈るような声が聞こえる。本当は多分オレの何倍も、岡崎は繊細に出来ているんだろう。オレが、支えになれたらいいのに。
「あぁ…渚…渚!」
 グチュッと音がして、岡崎がオレの中に入ってきたのがわかった。岡崎ももっと声を出せばいいのに、いつも堪えるように押し殺す。まあそれはそれで色っぽくて好きだし、オレは岡崎なら何でもいいや…。
「…あ…いいよ、渚……」
「やばい、岡崎、オレ今すげえ、最高なきぶん」
 ゆっくり突き上げられながら、乱れる息を吐きオレはそんなことを岡崎に伝える。
「…アンッ……ぁ…すっげー、キモチイイ…ッ」
「はあっ…あ、ああっ…!」
 うっとりした声は、自分でも笑っちゃうくらいだった。汗ばむ身体が、岡崎のすべてが、最高に気持ちが良かった。こんな岡崎はオレしか知らないんだって思ったら、いとしさに胸が詰まりそうになる。

 スッキリした後に抱き合ったまま、布団の中でイチャついて。
 岡崎はどうせ、オレに何にも言わずに一人で外国に行ってしまうような男なんだから。勝手に悩めばいい、どこまでも。オレもそれに、つきあうから。なあ、岡崎。
「渚、愛してる。自分でも、怖いくらいに」
「怖い?」
「俺は君に、嫌われるのが怖い。こうやって、身体で愛されていると確認しないと…不安になる」
「二人でこうやってるのはオレ、気持ちいいけど…。岡崎は、そうじゃねえの?」
「良すぎて怖い。君しか、見えなくなるから」
「何、オレは岡崎を不安にさせるような男?心配いらねえよ。大丈夫」
 だから頑張ろう、何がって何もかもをオレたちのために。
 師弟感の不協和音?そんなものは、オレの愛の調べでどうにかする。
「そうと決まったら練習!あるのみだよな。早く曲も決めないと…」 
 素っ裸のままピアノにまっしぐらなオレに、おいていかれた岡崎が笑った声がする。
 気のせいかと思ったけど、確かに、その声は段々楽しげに部屋へと響いた。
「渚が好きだよ」
「知ってるけど、もっと言ってくれ。嬉しいから」
「愛してるよ。こんなに素直に好きといえるもの、他にない」
 ピアノは?とは、何となく訊けなかった。
 オレは単純な男だから、たとえば愛憎なんていう言葉とは無縁な思考回路をしている。
 好きなものは好き。それが人でも、何でも。これからもそうでありたい、とも願う。その一番奥、大事なところに岡崎は存在していて。
 そういう事実がほんの少しでも、岡崎のまとうものを軽くしてあげられたらいいのにって思った。


  2006.12.26


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