黄色



「秋月先生、至急生徒指導室まで来て下さい。繰り返します。秋月先生、至急生徒指導室まで来て下さい」
 それは、突然の放送だった。

「失礼します。お呼びでしょうか?」
 終わっていない雑用を放り出して来た。秋月は不安そうに、恐る恐る生徒指導室のドアを開ける。この場所はあまり好きではない。生徒でないのに、少し怖かった。悪いことをした憶えはなく、堂々としていればいいのかもしれないけれど。落ち着かない。
 呼び出された原因は、予想もしていない人物だった。
「後藤くん?!どう、したの…」
 秋月に声をかけられると、後藤は苦しそうに眉を寄せ俯いた。一体どうしたというのか、一年の生徒指導担当、長谷川が溜息をつく。
「喫煙ですよ。屋上でね…俺が見つけたんですが」
「すいませんでした」
 後藤が、しおらしく頭を下げる。
 長谷川の態度は、いつもと変わらない静かなものだった。
「今からここで、反省文を三枚書かせます。秋月先生、監督をお願いしますよ」
「…わかりました」
「長谷川先生。オレ、作文苦手なんですけど」
 心底面倒くさそうにぼやく後藤も、いつもと変わりがないように見える。ますますわからなかった、どうして喫煙なんてしたのだろうか。
「お前は黙って書けばいいんだ。終わるまで帰るな。保護者にも連絡しておく。謹慎処分になりたくなければ、真面目に書き上げることだな」
「………わかったよ」
 盛大な溜息とともに、後藤が頷く。
「それじゃあ、俺は。秋月先生、後はよろしく頼みます」
「はい」
 ドアが閉められた。
 秋月は作文用紙を後藤の前に置き、少し離れたところに座る。後藤も黙って、白い紙面に向かい合っていた。名前を書いたきり、しんと静かにしゃーペンが動かなくなる。もとより書く気もなさそうな態度だった。
 野球部の元気のよいかけ声が窓の外から、秋月の耳に入ってくる。意識を逸らそうとすればするほど、後藤が気になって仕方なかった。ただでさえそうなのに、状況が状況だ。
「先生、ごめんね」
 ぽつりと背中にかけられた声に、振り向いて。寂しそうに笑う後藤を見た。
「何か嫌なことでもあった?それともただの、好奇心だったり」
 ほほえんで問いかける。とっさに反応できない返事に、秋月はかたまった。
「好きな人に、近づきたくて」
(…え……?)
「先生は、何で煙草を吸うようになったんだ?」
「どうして後藤くんが、知って…!」
「オレのよく昼寝する場所のひとつが、屋上なんだ。その日もいつものように寝てた。
 そしたら、…秋月先生が。ねえ、今もポケットに入ってる?」
 見られていたのか。知らなかった。全然、気がつかなかった。見られていたとしても、別におかしい話じゃない。そんなに少ない回数でもない。
「吸ってみてよ」
「いつも吸うわけじゃないし、今はそんな気分じゃない」
 そのリクエストに困惑しながら、秋月は目を伏せた。
「見たい」
「…見られたくない。後藤くんには」
 それは秋月の本心だった。見られるならば、いいところだけで―――――都合の良い考え方かもしれないが、とても素直な気持ちだった。
「じゃあオレ、反省文書かない」
「後藤くん!」
 思わず、声を荒げてしまう。
「どうせこれ、アンタへのラブレターにしかなんねえよ」
「……からかうのは」
 声が震えた。たまらなく喉が渇いている。
「返事くれるなら、書いてもいい」
「先生のことをからかうのは、やめなさい」
 どうしていいかわからなくなる、理性が揺らぐ…止めてくれないと。止まらないと、いけないんだから。
「じゃあ、本気ならいいの。愛してる、一生大事にするって優しく口説けばいいのかよ!そしたら先生、オレのもんになってくれんの?」
「後藤くん、いい加減にっ」
 後藤が立ち上がる。大股で秋月に近づくと、ただ自分を見つめる唇にキスをした。我に返り身を退こうとした、柔らかい髪を押さえつける。秋月の身体が竦むのがわかった。
 抵抗を忘れた秋月を押さえつけることなんて簡単で、あっという間に床に組み敷いて頭を寄せる。
 いい匂いがした。貪り尽くして、しゃぶりつくして自分のものにしてしまいたい。そんな願望を、後藤は抱くのだ。
「こんな…駄目、だ…後藤く」
「嫌だとか、やめてとか。そういう否定じゃないんだな」
 羞恥に赤く染まる秋月の顔。そういう顔をされる度に、興奮してしまう自分がいる。
「よくないよ、こんなのは!離れて、…お願いだから」
(誰かに見られでもしたら…!)
 嫌な予感は見事に的中して、背中からかけられた怒号に秋月は真っ青になった。

「後藤!?何をしているんだ、秋月先生から離れろ!!」 

「長谷川先生…」
「俺は反省文を書けと言ったが、どういうことだ?」
「はあ、まあ説明すると長くなるようなならないような…」
 反省など知らない顔で、後藤は唇を歪める。長谷川の苛立ちを煽るだけだと、わかっているのかいないのか。
「後藤!!」
「長谷川先生、僕は別に大丈夫ですから!怪我をしたわけでもないし、だからっ、謹慎とかはその」
「…あなたがそうやって甘やかすから、後藤がつけあがるんですよ。一週間の自宅謹慎だ。作文五枚、テーマは学校生活について!終わらせるまで、学校には出てこなくてもいい。今度問題を起こしたら、冗談じゃなく退学処分にするぞ。後藤。保護者が来るまでここで待機!秋月先生は服装の乱れを整えてから、行ってください」
「長谷川先生!」
 多分、自分は今間違った抗議をしているのかもしれない。
「シャツのボタンは掛け間違えないようにしてください、秋月先生」
「あのっ、」
 そもそも、後藤のことを好きになってしまったこと自体間違いなのかもしれない。
「そうだ。後藤、お前秋月先生に謝っておけ」
「オレは何にも悪いことはしてませんから、謝る気もありません」
(悪いのは、僕だ) 
「後藤!」
「帰ります。一人で大丈夫だし、母親もパートに出てるんで。失礼しました」
「後藤くん」
 後藤は振り返らなかった。ぱたんとドアが閉まり、長谷川と二人残される。
「大丈夫ですか、秋月先生」
「僕は本当に…」
「何を、泣きそうな顔しているんですか。男子校で生徒にレイプされるなんて、シャレになりませんよ。俺が止めなければあなたの方が、登校拒否にでもなってたでしょうね」
「すみません、でした」
 自分の不注意が、じゃない。この感情が後ろめたかった。
 後藤が好きだ。間違いだとわかっていても、それは止めようのない気持ちだった。
「一本、吸いますか?」
「いえ。…禁煙しようかと」
「それじゃあ尚更。最後の一本にすればいいですよ」
「あ、すみませ―――――」
 差しだした手を引き寄せられて、キスをされたと思った時にはもう、唇は離れていた。
 絶句した後、真っ赤になって。憤慨しきって秋月は、ポーカーフェイスの長谷川を見上げる。
「し、信じられない人だ!あなたは!!」
 一瞬、頭が真っ白になった。
「子供じゃあるまいし、キス一つで大騒ぎしないでくれませんか…」
「そういう問題じゃ…!」
「安心してください。愛だの恋だの、くだらないことを言ってあなたを困らせるつもりはありません」
 いちいち引っかかる話し方だ。わざとかと思うくらいに。
 初めは嫌いで仕方なかった、長谷川のこういうところは。性分なんだともう、諦めてはいるけれど。
「別に、くだらなくはないです。大事なことです…多分。誰かを好きになるのは」
「は」
 鼻で笑って、長谷川は名前だけかかれた白い紙を丸めるとゴミ箱に捨てる。
「何がおかしいんですか」
「あなたは自分の立場も忘れて、大真面目に、後藤のことを愛していると言いたいわけだ」
 否定した方が良かったのかもしれない。でも、できなかった。そうしたところで、長谷川には気持ちを知られている。無意味だ。
「…だったら、どうだって言うんですか」
「少し、頭を冷やした方がいい。きっと苦しくなりますよ…今、以上に」
「どうしてそんなこと、」
「ただの経験談ですよ」
 淡々と喋るから、聞き間違えたのかと思った。
 何か言おうと思うのに、秋月は何も言えずに黙り込んでいた。気がつくと、長谷川はいなくなっていて一人きり取り残されている。静かだった。

「秋月先生、セーンセー!」

 聞き慣れた声に我に返る。
 息を切らした羽柴がドアに立ち、頬を上気させて秋月を縋るように見つめていた。
「…羽柴くん、どうかした?」
 我ながら、白々しい質問だ。
「マサが!ねえ、マサ、謹慎だって嘘でしょ?!何で?何やったんだよ、アイツ!」
「落ち着いて、羽柴くん」
「最近、マサちょっとおかしかったんだ!上手く言えないけど…だけど俺、こんなことになるなんて全然思ってなかったから、別に気にしてなくて。どうしよう先生、何か思いあたるフシとかある?」
「……ごめん」
 真っ直ぐに羽柴を見られなかった。
 自分のせいだなんて、言えるわけがない。羽柴にさえ告げていないのだから、後藤は。
「ごめん、ね」
 ひどく後ろめたくて、羽柴に申し訳ない気持ちで一杯になった。この場から逃げ出したい。
「アハハ、何で先生が謝ってんの!バカなのはマサなんだから…」
 首を振る。
「…その、喫煙が見つかってね。一週間の謹慎なんだ」
「何で?マサ、煙草吸わないよ」  
「……羽柴くん」
 そう断言する仲の良さを羨ましいと、けれどどこかで感じている優越感と、罪悪感に秋月は気持ち悪くなり、小さく息を吸った。何を言うつもりなのか。何を言えば、いいのか。わからない。
「ごめんね。僕も…これから、用事があるから」
「先生!」
(…先生、か)
「羽柴くん。また明日」
 うっすらと教師の笑みを浮かべた自分は、羽柴にどう映ることだろう。
 秋月は歩きながら、額の汗を袖口で拭った。ひどく疲れている。憂鬱な気分だった。
 後藤の気持ちを知ったというのに、素直に喜べないのはどうしてなのか。嬉しさより、気まずさの方が先立つなんて。本当に自分は中途半端だった、教師としても。おそらく、人としても。
 考えることが多すぎて、何も考える気になれない。煙草の火を着けようとするのに、カチカチと音を鳴らすだけで従ってはくれなくて。
 そもそも、こんなものがあるからだ。責任転嫁しようとして、溜息をつく。近くにあったゴミ箱に、秋月は煙草をライターごと放り込んだ。ヘビースモーカーなわけではないから、すぐに止められるだろう。
(とっくの昔に、後藤くんは僕を手に入れているのにね)
 ぼんやりと一歩踏み出そうとした秋月の腕が掴まれて、反射的に顔を上げる。
「危ない!信号、黄色なんやから!!」
 親切なおばちゃんはそう叱りとばし、前方を指さす。つられて、そちらに視線を向けた。
 横断歩道。気づかなかった。周りの景色なんて、少しも頓着していなかった。
 信号は黄色い点滅を繰り返した後、赤になる。
「黄色は、止まれ!あんたもそれくらい、わかるやろ?!」
「止まれ…」
 秋月はぽつりと呟く。風が走り抜けた。
 規律に縛られた社会、切り替わる世界。その縮図のようだ。
 信号が青に変わっても、秋月は身動きも取れず暫くその場に立ちつくしていた。


  2004.06.29


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