甘酔



 図書室の鍵を開け、窓の空気を入れ換える。いつもの定位置に座ると、倉内は黙ってカードにスタンプを押したりしていた。
 ぽつぽつと、いつもと同じようなメンバーが集まってくる。大抵の顔は覚えているつもりだ。それとなしに観察をしながら、静謐な時間を過ごすのが好きだった。
「後藤?今日は、放課後なんだ」
「たまにはな」
 窓際の席に座る。かと思えば、居眠りはせずうろうろと何か書棚を物色しているようで。
 思わずカウンターの外に出ると、倉内は後藤の隣りに並んだ。
「誰の本、探してるの」
「ああ、これ。この人」
 メモに走り書いたような文字。その名前には、見覚えがある。
 文庫本のコーナーに後藤を連れて行き、倉内はしゃがんだ。指差して、後藤を見上げる。
「ここの一列全部、そうだから」 
「はあ…。多いな?」
「フミちゃんの好きな作家だよね、確か」
 反応を伺う。後藤は笑っただけだった、こういう時のごまかし方は本当に上手い。
 丁寧な文章を書く、男性作家だ。まるで秋月の性格のような、きれいな文体。倉内は以前、彼の代表作を好きなのだと秋月と話したことを思い出した。
「どれから読めばいいか、わからん」
 後藤が、うんざりしたような声をあげる。それも無理もない話かもしれない。
 この男が、読書をしようと思いついたこと自体、奇跡だった。
「これに、したら。最初に読むには良いんじゃないかな」
 倉内は書棚から本を取り、立ち上がると後藤に手渡してやる。
 桃と水色の混じったような色の、表紙。不可解そうに、後藤が首を傾げた。
「何て読むんだ、これ?」
「甘酔(かんすい)、って読むんだよ。短編集だから、途中で飽きずに読めると思う」
「はあ」
 気のない返事だ。
 あまりにそのすべてが可笑しくて、失礼だと思いながらも倉内は笑ってしまった。
「貸し出しカードに記入して。期限は一応、二週間だから」
「わかった。…あと、このこと秋月センセには」
「言わないよ、別に。読めない漢字があったら、聞きに来なよね」
 倉内にそうからかわれ、憮然とした顔で後藤が溜息をつく。
「…静、オレのこと馬鹿にしてるだろ?」
「うん。よくわかったね」
 小綺麗な顔でそんな悪態をつくから、かわいくない。後藤は少しも悪びれない倉内を睨みつけてから、図書室をあとにした。職員室の前を通る。むしろ、習慣のようなものだ。自然と足が、そちらに向かう。秋月のそばにいきたくて、無意識のうちに。
 透けたガラスの向こうで、秋月と長谷川が喋っているのが見えて。少し、気になった。
 職員室から芝木が出てきて、後藤を見つけると笑いかける。
「おっ、後藤じゃないか。秋月、呼んできてやろうか?」 
「いいよ、シバちゃん。話し中みたいだし」
 軽く手を振る。芝木は頭をかきながら、秋月の方を振り返った。
「ああ、そうか?秋月、前は長谷川先生のこと苦手だとか言ってたのにな」
「ま、変わらない人間なんていないしね」
「悟ったようなこと言って、コイツ!」
「アハハ」 
 芝木の腕に抱えこまれる。ガラガラとドアが開く音に、視線だけ向けた。
 連れだって、秋月と長谷川が出てくる。目が合った。上手く笑えたかどうか、自信がない。
「秋月センセ!」
 声だけは元気に、いつも通りに。
 秋月はドアの前で立ちつくしたまま、後藤を見ていた。他に何も目に入らない。
「これ、落とし物」
「…あ」
 夕暮れの教室で、秋月が残していったものだ。
 途中、押し花の栞が挟んであったからきっと、まだ読んでいる途中だった。
「ありがとう、どこで落としたか思い出せなくて」
 秋月が柔らかく、微笑んだ。
「そっか。忘れちゃったんだ?」
 後藤が表情を陰らせる。受け取ろうとして、その言葉を反芻して…秋月はどこで落としたかをはっきりと思い出した。文庫本が廊下に落ちる音が、小さく響く。腰をかがめて、本を拾い上げたのは後藤だ。秋月は、金縛りに合ったように動けなかった。
 後藤は大切そうに本の埃を払い、しっかりと秋月の手に握らせる。
「後藤くん、ありがとう…」
 もう、秋月は後藤を見ようとはしなかった。真っ直ぐに顔が見られない。
「どういたしまして。それじゃあ、センセ。また明日」
 早足にその場を去る。ガラにもなく、鼻の奥がつんとして苦しい。後藤は眉を寄せた。
 下駄箱で上履きを脱ぎ、靴に履き替えたところで。後ろからタックルされて、う、と呻き声を上げる。
 鞄の中から借りてきた本が落ちたことにも、気づかなかった。
「マーサッ、発見!一緒に帰ろ♪」
「…羽柴…」
「何々?俺の顔、何かついてるとか?!」
 あまりにも無邪気な羽柴に、気がそがれた。静かに首を横に振って、何でもないと返事をする。
 羽柴が心配そうに、後藤を見ていた。その額にデコピンして、笑う。
「いってぇ!そうやって、すぐ暴力に訴えるっ!マサのバカっ!!」
「本当、羽柴の言う通りだよな」
 自嘲気味に唇を歪める。予想外の反応に、防御の構えをとっていた羽柴はぽかんと口を開けて、後藤の顔を覗き込む。それから、首を傾げた。
「マサ?お前ホント、大丈夫…?」
 その問いかけに大丈夫じゃないと、泣きそうな顔で答えた人を思い出した。
 もう平気なんだろうか、秋月は。
「オレはまだ、多分平気だ…。帰ろうぜ、羽柴」
 後藤は自分に言い聞かせるように、独り言みたいに告げた。
 先に歩きだす。羽柴が慌ててついてきて、隣りに並んだ。二人で黙って歩きながら、後藤は思う。
 怖いものは思いつかないと言ったけれども、秋月に嫌われるのは怖かった。


   ***


「…あれ?」
 秋月は下駄箱でしゃがみこむと、よく知っているその表紙を拾い上げる。
 後藤を探しに来たのだけれど、もう帰ってしまったようだ。…何を話せばいいのかも、正直わからないのだが。いつまでも、気まずいままは嫌だった。
(うちの蔵書みたいだ…?)
 背表紙に、シールが貼ってある。誰かが落としてしまったのだろう。図書室に届ければ、きっと倉内が落とし主に渡してくれる。ぱらぱらと懐かしい本をめくった。
 何年も前に読んだ、恋愛短編集だ。一番最初に、この作家で読んだ本。何度も読み返したせいで、内容もしっかりとまだ頭に残っている。セリフでさえ。
 恋愛に甘く酔うなんて嘘だ、と思い声もなく笑う。昔はそれでも、この本が大好きだった。きっとあの頃と同じ気持ちでは読めないだろう、今は。時間が経つというのは、そういうことだ。
 良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、秋月は少し寂しく思った。


  2004.06.08


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