お願い



 放課後、いつもと変わらない夕暮れ。
 後藤は屋上の扉を開け、陽光を受けて佇む親友の隣りに並んだ。
「マサ。急に、呼び出したりしてゴメンね」
「…羽柴」
 何かある。それは少し前から、気が付いていたのだけれど。
 それが何、なのかはハッキリと確信が持てないまま…今日は解明されるだろうか。
「大事な話があるんだ。とても、本当に…大切な、話が」
「何だよ、改まって」
 上手く笑おうとしたが、羽柴はひどく真剣な表情で。
 いつも明るく笑っているから、時折こんな顔を見せられると落ち着かない。生徒会演説の時だって、そうだ。ビックリしたのだ…そんな一面、知らなかった。
「マサは俺のこと、嫌いになるかもしれない。けど、それでも構わないんだ。誤解されたって…結果的に、マサを守ることになるんなら」
「何の話だよ。羽柴?」
 まったく、話が見えてこない。
 訝しげに首を傾げる後藤に、信じられない言葉が告げられる。
「秋月先生、殺されるかもしれない」
「はあ!?何言ってんだ、お前…」
 心底呆れて、突拍子もないことを言いだした羽柴を一笑する。
 張りつめた表情を変えることもなく、羽柴はフェンスを強い力で握りしめた。
「長谷川先生が、秋月先生を殺すつもりなのかもしれない」 
「羽柴っ…。どういうっ」
 思わず、肩に掴みかかった。どういうことなのか、説明してもらわなければ。
 後藤が声を荒げると、落ち着いた声音のまま羽柴は続ける。
「俺は、殺されるのがマサじゃなくて秋月先生なら構わないって…そう、考えてる」
「羽柴!!」
 本気で羽柴を殴ったのは、初めてだったかもしれない。
 コンクリートに尻餅をついた羽柴は、痛みに僅かに顔をしかめただけだ。
「…っ」
「お前、自分の言ってる意味わかってんのか?間違ってるだろ、そんなの!」
「正しいことが、いつも正解だとは限らない。俺は間違ってる…そんなの、知ってるよ」
 後藤を見上げた表情は、いつもと何も変わらない。言葉にしないだけで、自分が気づかなかっただけで…こんなことを考えていたなんて。そのことが、後藤にはショックだった。
「…羽柴……」
「とっくに、覚悟してるんだ」
 何、を。問いただす時間さえ、惜しくなる。
 どうしようもない焦燥感に囚われて、後藤は羽柴を睨みつけた。
「どこにいるんだよ、先生は!知ってるんだろ!?」
「知らない。もし知っていても…教えられない」
「羽柴!」
 腕を掴まれた。強い口調が、後藤の不安感を煽る。
「俺は、マサを行かせない。そんな危険な真似、させるわけにはいかない」
「離せよっ」
 羽柴は首を横に振り、震える声で言葉を繋げる。
「…怖いんだ。マサがふと、いなくなっちゃいそうな気がして。やなんだ、俺…!マサは鈍感だし要領悪いし、諦めも早くて。何でも、自分で受け入れようとしちゃうし。……それに何より厄介な、タチの悪いハンデがある」
 さりげなく混ぜられた単語は、後藤を引き留めるのには充分だった。
「お前、知って…!?オレの病気のこと、」
 考えてみれば、気づかない方がおかしいのかもしれない。けれど、上手く誤魔化してきたつもりで。養護教諭の阿部しか、知らない話だ。自分の、身体の問題点。言うつもりだって、なかった。秋月にだって、先日話をしたばかりで。それを羽柴は、知っているというのか。
「マサ。俺、たくさん勉強して、医者になっていつか、マサの助けになれるように努力するよ」
「だから、だからお前…!」
 後藤は胸をつかれるような思いで、微笑む羽柴を見つめる。
 何も知らなかった…知ろうと、しなかったのだろうか。いつも笑って、自分の隣りにいた親友。いつからか、気まぐれに勉強ばかり始めて…生徒会長に当選した時なんて、何事なのかと目を丸くした。
「勘違いしないで、マサ。別にマサのためだとか…そういう訳じゃないんだよ。俺が、したいからそうするんだ。道行きを教えてくれたのはマサだけど、マサは本当に大切だけど…ただの自分勝手な、俺の希望なんだ」
 そんな風に想われているなんて、知らなかった。知らなかったで済まされるのだろうか、この場合。見ようと、していなかったのか。
 すっかり気をそがれ、後藤は力無く項垂れる。どう言葉にしていいのか、全然わからなかった。
「ごめん、羽柴。お前の気持ち、オレは全然気づかなくて、」
「言う気はなかったから、マサが気にすることじゃない」
「けどっ」
 言わなくても、言葉にしなくても…羽柴はわかってくれたというのに。
 泣きたくなった。後藤は自分の不甲斐なさが、あまりにも情けなかった。
「ただ、何にでも…方法って、あると思うんだ。近道っていうか、より確実な選択肢っていうのかな。だから俺は、今こうしてマサと一緒にいるわけだけど」
「そんな話聞いたら、オレは…!」
 気持ちが動揺している。これは、まずい傾向だ。
 後藤はぐらつく意識の中で、相変わらず明るい親友の声を聴いた。
「俺、マサのこと大好きだよ。これだけ、憶えておいてくれたらいいんだ。俺は」
「羽柴…はし、ば……」
 駄目だ。起きていられない……
 言わなければいけないことは、まだ、口にしていないのに。
「おやすみ、マサ」
「羽柴、オレは…何があっても、お前のことを…嫌いに、なったり……しない……!」
 この感情は、ちゃんと声になっているのだろうか?届いて、いるのだろうか?
 羽柴が泣きそうな顔でほほえむのが、見えたような気がした。
「……ありがと」
「だからそんな顔、する…な……」
 いつも、隣りで笑っていてくれればいいのだから。羽柴は。
 後藤はそう思い、眠りの中に身を任せた。
「……………」
 目を閉じた親友に、羽柴はきつく眉をしかめる。
 わかってはいたのに、覚悟はしていたはずなのに…実際に随分、きつい役回りだ。
「一応、計画通りだけど…。ごめんね、マサ」
 これでもう、自分の最も怖れていた事態は回避されたはずだ。念のため、後藤の携帯の電源を落とす。これで長谷川から、後藤には何もできない。仕上げにメールを送信し、暫く待つと倉内が屋上へとやってきた。
「どうしたの、羽柴。ぐずる後藤をあやしてたの?」
「倉内、またお願いがあるんだけど」
 羽柴がウインクしてみせると、倉内は小さく溜息をつく。
「…何?無条件で、引き受けてやるよ」
「ちょっと重いけど…、マサをよろしく〜。俺、これから用事があるんだよねっ」
「どこ行くの?」
 問いかけは、何気ないものであったはずだ。
 不自然に振り返った羽柴は、ぎこちなく倉内に笑いかける。
「あっ、そうだ!倉内…。倉内も早く、片思いが実るといいねえ」
「いきなり、何でその話題?話したこと、あったっけ。羽柴に…」
「俺、応援してるからさあ」
 そのすべてが、確信的に変だった。
 今すぐ後藤を放り出して、問いつめたい衝動にかられる。…そういう訳にも、いかないが。
「羽柴…?もしかして泣いてる?どう、したの……」
「何でもない、何でもない!ゴメン。…とに、倉内が…いてくれて良かった……」
 人前で、泣いたりするような性格ではないのだ。特に。
 腕の中のお荷物を放り投げようか、丁重にコンクリートに横たえるか…そんなことをしている間に、羽柴は遠くへ行ってしまいそうだ。倉内は、声を張り上げる。
「羽柴!?」
「そろそろ、行かないと…」
「待って!羽柴、僕は後藤のことより…お前の方が心配だよ」
 行くななんて、言えそうもなかった。
 倉内が正直な心境を告げると、可笑しそうに羽柴は笑う。いつも通りの笑顔だった。
「……明日。帰り、ファミレスでも行かない?マサと三人で」
「約束だ」
「うん」
 破ったりなんかしたら、絶対に許さない。
 まだ足りなくて、倉内は遠ざかる背中に声をかけた。
「羽柴!」
「何?」
「…気をつけて」
 言いたいことも、聞きたいことも沢山あった。
 無理やり笑って、倉内は羽柴を送りだす。明日、聞けばいいだけの話だ。…約束したのだから。待つのは苦手だけれど、慣れている。
「……駄目、だ…」
 譫言のように呟く声に、倉内は眠っているはずの後藤を覗き込んだ。
「いくな…。行かないでくれ」
 悪夢を見るのだと、不安そうに陰る表情が告げたことを思い出す。
 これはますます、不穏な寝言だ。羽柴のことだろうか。それとも全く関係のない…。
「後藤」
 見えるはずもないのに、自分にまで、恐怖が感染してしまったかのようだ。
 倉内は深く息を吸い、力を入れて後藤を揺り起こした。
「起きて、後藤」
「…っ……」
 目が合った。後藤は一瞬罰の悪そうな目をして、倉内を見る。
 不本意な眠りから覚めた時、後藤は時折、こんな表情をするのだ。
「図書室…?じゃ、ない……」
 後藤は屋上だとわかると、不可解そうに頭を押さえる。
 憶えていないのか。…本当に、羽柴の託した荷物といったら手に負えない。
「何で…」
「何でって、後藤が屋上で寝てるのなんていつものことじゃないか」
「…静、お前添い寝でもしてたのか?」
 殴らなかった自分を褒めてやりたいくらいだと、倉内はこっそり思う。
 何か事情があるようだし、今はただ、こうして後藤と一緒にいることが羽柴の望みなら。
「死んでもお断りだよ、そんなの。それより、大丈夫なの?」
「……ああ。ただ、…何か大切なことを、忘れてる気がする」
 大切なこと?羽柴だろうか。…考えるばかりで、本当に気が疲れる。
 倉内は言葉を選びながら、ほんの少しは優しい口調で返事をした。
「きっと、夢を見てたんだよ。寝言、言ってたから」
「夢…」
「羽柴から伝言。明日、帰りファミレス寄っていこうって」
「ああ…塾にでも行ったのか?羽柴……」
 どこに行ったというのだろう。心配でたまらなくなってきた。
 後藤がわからないんじゃ、手のうちようもない。倉内は、溜息を殺した。
「………」
「思い出せない」
 自己嫌悪に満ちた苦悩を、倉内は聞き流して目を閉じる。
「多分、大したことじゃないんだよ。気にすることはないんじゃない」
「大事なことなんだ…。それだけは憶えてる…胸が、苦しくて……。わからないのに、涙が出る……」
 絶対、明日ファミレスで一番高いメニューを羽柴に奢らせてやる。勿論、ドリンクバー付きで。デザートは後藤にたかろう。そう決意し、倉内はハンカチを差しだしてやった。
「大切なことなら、きっとすぐ思い出せる。だから、泣かないで」
「頭が痛い…」
 どうして涙が出てくるのか、後藤にはもうわからなかった。


   ***


 長谷川が足を止めた場所は、静かな墓地のようだった。
 静謐な空間が、自分を手招いているようでどうも気味が悪い。秋月は眉をひそめた。
「今日は、彼女の命日なんです。以前話をした、友人のね」
「……………」
 長谷川と話をすると、なんだか悲しい気持ちになる。そう感じたことが何度かあった。その原因が何だったのか、今ではわかる。
「秋月先生?」
「…いつまで、こんなこと続けるつもりなんですか。何年もずっと、あなたは過去に縛られたままで。これからも、そうやって生きていくつもりなんですか?長谷川先生」
「………」
 長谷川は無表情で、立ち並ぶ墓をぼんやりと見つめる。
(そうだ。いつだって…本当は、あなたの視界に僕は入っていないんだ)
「もう、終わりにしませんか。あなたは、いつも僕を見守ってくれていた…。初めの感情は何であれ、僕にはそれが救いでした。あなたがいてくれたからこそ、僕はこうしていられるんです。今度は…今度は、僕があなたを助けたい」
「……助ける?」
 自分でも気がつかないうちに、ぬかるみに嵌ってしまうのはよくあることだ。
(僕が、ヒロオに助けてもらったように。長谷川先生に、慰めてもらったように…。今度は、僕が)
 秋月は長谷川の手を取った。しっかりと握りしめた指は、ひどく冷たい。 
「あなたの力になりたい。そう考えるのは、可笑しいことでしょうか」
「可笑しいというか…俺にはとても、信じられません」
 確かにいつも好きな人のことばかりで、周りのことなんて考えてこなかった。けれど、それではいけないのだと学んだ。失敗して、傷をつくって…何もかも含めて、大切にしなくてはならないのだと。勿論、自分も。
「今はそれで構いません。いつか、信じてもらえる日が来ると思うから」
「相変わらず、甘い人ですね。俺のことなんて、何もわかっちゃいない…あなたは。
 俺は今日、あなたを殺すつもりでこの場所に誘ったのに。秋月先生」
 静かな口調で殺すなんて言われたところで、現実感もない。
「…今の言葉を聞いて、確信しました。長谷川先生は、僕のことなんて好きでもなんでもないんですよ。僕の中に、思い出を映しているだけで…。そんなに、彼女と僕は似ていますか?」
「いえ、少しも…」
「だから僕を、殺したいと思うのかもしれませんね」
 他人事のように秋月は呟いて、真っ直ぐに長谷川を見つめる。
「僕は、彼女の代わりにはなれない。誰も、誰かの代わりなんて出来ない」
 沈黙が訪れた。秋月は乾いた喉に唾を飲み込み、空気が変わるのを待つ。
 長谷川は鞄から真新しい包丁を取り出して、自嘲するように唇を歪めた。
「昨日ね、買ったんです。やはり刺殺が一番、死を実感出来ると思いましてね。俺は彼女が死んだと聞いても、どうしても信じられなかった。葬式に出て、骨になった彼女を見てあまりの理不尽さに、涙も出てこなかった。実感というより、もやもやとした黒い何かが自分の内に留まって…ただわかったのは、先生が彼女を連れ去ったのだということでした」
 不思議と、怖いとは思わなかった。感覚が麻痺しているのかもしれない。
 秋月は黙って、長谷川の言葉に耳を傾けていた。
「先生と生徒の恋なんて、許されるべきではない。認めるわけにはいかないんです、絶対に。…ああ、今気がつきました。死ねばいいのは、俺の方なのかもしれません」
「は、長谷川先生!」
 虚ろな表情に、初めて焦りを感じる。
「誰にも必要とされず、生きていく意味もない。そうでしょう」
「そんなことっ、ありません!!」
 刃の動きを止めたのは、あまりにも意外な鋭い悲鳴だった。

「やめてっ!」

「羽柴くん…?」
「羽柴…」
 不意をつかれた長谷川の手から、包丁を奪うと秋月は息をつく。
(危ないところだった…、本当に)
 走ってきたのだろう。羽柴は呼吸を整えてから、真っ直ぐに長谷川を見つめる。
「長谷川先生は、俺に何か望めばいいと言った。憶えてますか?今、俺の望みを言います。勝手に、死なないでください。まだ先生には、教えてもらいたいことが沢山あります。だから、」
「あの時…身を滅ぼすのは誰だろう、そう君は言った。俺のこと、だったんだろう?」
(倉内くんのように、羽柴くんも長谷川先生に何か言われていたのか。…全然、気づかなかった)
 原因の根底は、自分にもあるような気がする。
 後藤を好きになってしまったことが、長谷川の行動を決めてしまったというのなら。 
「そうですよ。先生に協力する振りをして、追いつめたんだ。こんなに簡単に引っかかってくれるなんて、俺も思わなかったけど…。でも」
「でも、何だね」
「駄目なんだ、俺。昔から…困ってる人を見ると、放っておけないんだ。今みたいに……長谷川先生のこと、どうにかしてあげたいって今、そう…思ってるんだよ」
「…羽柴くん……」
 他人のことばかり、いつも考えている羽柴。方法はどうであれ…その優しさの十分の一でも、自分にはあるだろうかと秋月は思った。
「先生に嘘をついたこと、謝るから。きっと、いい師弟関係になるよ。恩師の欄には長谷川先生の名前を書くし、…だから、死ぬなんて言わないでよ。そんな悲しいこと」
「お前のお人好しぶりは、優しいを通り越して度を超えてる。馬鹿としか言いようがない。一度、言っておこうと思っていたことだ。羽柴」
 真面目にそんな軽口を叩く長谷川を、羽柴は抱きしめた。
「かわいい生徒のお願いだよ、先生!」
「長谷川先生…」
 秋月と視線が合うと、ようやく長谷川は微笑んだ。
「長い間教師をやっているが、生徒にお願いをされたのは初めてです。…嬉しい、ものなんだな」
 後半は独り言のように、ぽつりと長谷川は呟く。こうやって、生徒に抱きしめられるのも長谷川には初めての経験だった。
 安堵したように長谷川に体重を預ける羽柴を見て、ようやく秋月は肩の力を抜く。怖いと思う間もなかったが、身体は正直なもので無意識に、硬くなってしまっていたらしい。
(後藤くん、君の親友はすごい人だ…)
 そんなことを口にしようものなら、後藤は吹きだしてしまうかもしれない。
 早く顔を見て、話をして、今すぐにでも会いたいと思う。
(そうだ。会いに行こう、…今すぐに)
 善は急げだ。いてもたってもいられない、それくらい大好きな人。
 踵を返し、秋月は早足で歩き始めた。


  2005.04.10


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