勝負



 昔からここぞという時の勝負には、強かった。


 今日は、後藤と一緒に帰る約束をしていた日だった。
 放課後二年B組の教室で、後藤を待っていた秋月はドアの開く音に顔を上げた。
「志賀くん、体調は大丈夫なの?」
 教室に入ってきたのは後藤ではなく、志賀京介だった。
 ずっと学校を休んでいた志賀は、秋月の問いかけに唇を歪め答える。
「ただの、サボリですから」
「…志賀くん」
「先生の顔、見たくなくて学校休んだんですよ。俺は」
 先制されて、間抜けな声が出る。
「え?」
「今更、何で令治さんに会いに行ったりなんかしたんだよ!もう、未練なんてないはずだろ?そんなにあの人を振り回して…秋月先生は、楽しいんですか」
「志賀くん、それは誤解っ」
 憎悪に満ちた目で睨みつけられ、身体が竦んだ。
(怖い…)
 オーバーラップする過去。それはいとも簡単に、秋月の行動を制限する。
 重なる影。何度もこれから、こんなことを繰り返すわけには、いかないのに。
「誤解?俺は、知りたくもないアンタのことをよく、知ってるんだ…。今はきれいごとばっかり言ってる先生が、どんな声で喘いで、どんな顔でイクのかも。知ってるんだよ…信じられるかよ……」
「どういうっ…」
 顔を赤くして、秋月は言葉を詰まらせる。
 自分の一番知られたくないところを…志賀は、知っているというのか。
「ビデオやら写真やら、令治さんは、未練がましく先生のものばかり残していてね。俺は令治さんの甥っ子なんだ。優しくて格好良くて、令治さんは本当に素敵な人だった…ずっと憧れてた…先生とつきあい始めるまでは」
「志賀くん」
 思い当たる節が、ないわけではない。そんな志賀令治のことが、秋月も好きだったのだ。けれど、変わってしまった……変えてしまったのは、自分も原因の一因であったことは確かだ。
「秋月先生が、令治さんを変えたんだ。抜け殻みたいになって…あんなの……同じ目に遭わせてやる。復讐してやる。大嫌いだ…先生が全部、奪ったんだ!」
「志賀くっ」
 噛みつくようなキスをされた。呆気に取られて、逃げる間もなかった。
「痛めつけられながら犯されるの、先生、大好きでしょう?してあげる」
 もはやそれは、笑みなどというものではない。壁に頭を押しつけられて、秋月は鈍い痛みに眉を寄せる。類似点、謎はすべて解けた。
 問題は、山積みであったけれど―――今はいかに、この場を切り抜けるかだ。
「うう…っ」
 顎を掴まれた。じたばたともがいて、足掻いて…志賀の拘束をはねのける。息が上がる。
 身体を任せてしまうことは簡単に出来たけれど、何があっても絶対にそれだけはしてはいけない、とわかる。…わかるように、なった。
 教師とか、生徒とか…そういった問題ではなく。相手の立場になって考える。人間関係の基本だ。秋月には、とても難しい議題だったにしても。
 導き出された答えは、抵抗するのに十分すぎるほどだった。
「…志賀くん。こんなことをしても、何の解決にもならないんだ」
 強い口調で諭してみる。呆れたように志賀は唇の端をつりあげて、笑った。
「………先生面、しないでくださいよ」
 無力だと嘲笑われているかのようで、萎縮しそうになる心を必死で秋月は奮い立たせる。相手の思うつぼだ。今だけは、虚勢だろうが何だろうが…この行為を、止めさせなければいけない。
 スーツは皺だらけ、埃まみれ。だが、それがどうだというのだろう。
 秋月は真っ直ぐに志賀を見つめ、精一杯に言葉を続ける。
「君が余計に、僕を嫌いになるだけだ。僕は痛くも痒くもないし…志賀くんに、そんなことをさせるわけにはいかない」
 セックスなんて、脅し文句にもなりはしないのだ。秋月にとって。初めて顔を見た相手と、寝たことだってある。何のダメージにもならない。
 その果てには、志賀の自己嫌悪感が募るだけだ。…マイナスでしか、ないではないか。
「あんまり、暴れないでくださいよ。そんなに、酷くされたいんですか?」
「…志賀くん。誰か、外にいる」
 志賀の手が止まり、ふと教室の外を伺うように視線を走らせる。
 廊下で誰かの足音がしたのだが…何人かの足音は、やがてどこかへと消えていった。
(…まずい)
 焦燥感に、乾いた喉に唾を飲み込む。志賀の顔が近づいてきた。吐息がかかる距離。
 せめて瞼をきつく閉じた秋月の窮地を救ったのは、他でもない、後藤の怒声であった。映画を見ているような気分になる。教室に踏み込む影、秋月は呆気なく解放されたのだ。
「お前っ…!」
 後藤はためらいもなく志賀を殴りつけ、床に倒れ込んだ身体を見下ろした。
「ごとうくん」
 何よりも真っ先に、血の気が引いた。
 こんなことが長谷川にでも知られたら、大変なことになる。会えなく…なってしまう。
 床に尻餅をついたような格好で、ぎこちない視線を秋月は後藤に向ける。
「…秋月先生、悪いけど。説教なら、後でたくさん聞くから。校則がどうとかじゃなくて、今は他に…もっと、大事なもんがあるだろ」
(大事な、もの…)
 口を開けばなじるような文句ばかり零れてきそうで、秋月はきつく唇を結ぶ。
(僕の大事なものは、後藤くんなんじゃないか!) 
「だって!次に問題を起こせば退学にするって…長谷川、先生がっ」
「そんなこと…!もう、我慢すんのは止めるって決めたんだ。オレは。好きなものは好きだって、ちゃんと言えなきゃ格好悪いって、そう…思うんだよ」
「…後藤くん……」
(もう、本当に君という人は…)
 胸が苦しくなる。何度も言っているはずなのに、格好良いと。まだ、足りないのか。どこまで…いい男になるつもりなのか。成長期の高校生には、ついていけない。
 秋月は鼻をすすって、目を伏せた。
(純粋で…真っ直ぐで……) 
「諦めるのは、もう止めた。今はとりあえず、コイツをどうにかする。おい、聞いてんのかよ!志賀、お前…秋月先生を逆恨みしてんじゃねえ」
 殴られた時に切ったのか唇に触れて、志賀は何も言わず、黙りこくったままだ。
「いいんだってば、後藤くん!」
 原因が、自分にもあるのは重々承知しているのだ。だからといって、全てを享受するのは間違っていて…どこまでのところで、見極めればいいのか。その線引きは、未だに確信が持てないでいる。
「全然良くねえよ!オレがやなんだよ!!…先生に嫌がらせすんの、やめてくれ。頼むから。オレの靴に画鋲なり何なり、入れてくれていいから。秋月先生には手、出すな」
 志賀の沈黙は、雄弁だった。どうしていいか、わからなくなる。
 こんな風に想われることが初めてで、秋月は無理やりぎこちない笑みを浮かべた。
 今自分は間違いなく幸せだと、こんな時に考えるのは、馬鹿げているのかもしれない。
「僕は全然平気だから、後藤くんは―――」
「もっと自分を大事にしてくれ、先生は!自分のこと…ちゃんと、考えてくれ。お願いだから…」
「あ…」
 神崎にも口をすっぱくして、言われたものだ。
 そんなつもりはないのだけれど、自分を傷つけるのは止めろと。
「…頼む。志賀。何があったか詳しいことは知らない部外者だけど、でも…わかるだろ?お前にも好きな人がいるんなら、オレの気持ちが。大事にしたいんだ、泣かせたくないんだよ」
(うわ…)
 目頭が熱くなる。堪えようと思うのに自然に、涙が秋月の頬をつたった。
「画鋲ねぇ。俺、秋月先生は嫌いだけど後藤には、何の恨みもないからな」
「頼む!」
 後藤が床に膝をつき、頭を下げる。
 我に返って、秋月はもういいから大丈夫止めてと後藤の顔を上げさせた。鼻水が出てきた。
「フン、馬鹿らしくなってきた。他人の幸せを羨むのも、飽きてきたところだし。いいよ。後藤が今言ったことを実行できるかどうか、見届けてやるよ」
 相変わらずな物言いだったが、
「ああ」
 志賀は微笑んで、後藤から目を逸らした。
 涙に濡れるどころか真っ赤な鼻でしゃくりあげる担任を、複雑な心境で見つめる。
「あなたには、謝りません。俺のこの状況は今でも、秋月先生のせいだと思ってるし…。卒業までに俺の気を変えられるかどうか、勝負しましょう。秋月先生」
「うん。…僕も、全力で勝ちにいくよ」
 何度傷つけても壊れないで在る姿を、憎らしいのに愛しているのだと言った令治の言葉を思い出す。彼に出来なかった行為を、憎悪に込めてやり遂げてみようという試みは、どうやら失敗したようだ。
 志賀が教室を出て行く際に、どこか満足そうに見えたのは秋月の目の錯覚だったのかもしれない。
「オレだってサポートするから、大船に乗ったつもりでいてくれ。先生」
 力強い腕に抱きしめられ、秋月の頬が自然と緩んだ。
「ありがとう。後藤くん、何度君に支えてもらったか…僕は」
(この感情が、的確に言葉にできないのがもどかしいよ。上手く、伝えたいのに)
 しっかりと背中に廻した指に、せめて秋月は力を込める。
「お互い様だ。オレは先生に逢って、自分を変えたいと思ったんだから」 
「…うん」
「二人でいれば、怖いものなんてない。そうだろ?」 
 キスをする。曖昧だった頃はその意味ばかり、考えたりした時もあった。
 結論はハッキリしているのに、好きだからとしか完全無欠の答えはないのに、何かを探そうとして、大切なものを見失っていたような気もする。
 なくしてしまったわけではなくて、見えにくく、ぼやけていたに過ぎなかったのだけれど。結局。遠かった距離はいつの間にか近づいて、線は確かな絆に変わったのだろう。
 今はただ、しっかりとこの温もりを腕に留め、これからもずっと離さないでいるだけ。
 終わりではなく、この瞬間も明るい未来へと続いているのだから。


   FIN.


  2005.04

 読んで頂いて、ありがとうございました。幸せに思います。


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