恋の発露



 その日は、雪が降っていた。
 秋月は白い息を吐き、憂鬱な表情で長い廊下を歩いていく。
(…早いな。もう、年が明けてしまった。季節に取り残されてしまいそうだ)
 イベントにも無頓着だから、季節感のない一年を過ごした気がする。いや、いつも後藤を追いかけていたおかげで…今まで巡った季節とは、まるで違っていたけれど。
 毎日顔を合わせる度言葉を交わす度に、焦がれるような恋心が胸を灼いて、秋月を苦しめる。夜になれば忘れることなどできはしない彼の肌を思い出し、どうしようもなく身体が疼く。自分は、我慢強いという言葉とは程遠いことをよく自覚していたからこそ、堪えなければいけないと秋月はかたく心に誓った。
 いつか、この恋に殉ずる時は訪れるだろうか?今は未だ、想像もできない。
 
(令治…)
 きつく目を閉じて、残像を振り払うように秋月は首を横に振る。
 あまりにも世界がそのすべてだったから、気を抜くと思考が引きずりこまれそうになる。
(きっと、知られてはいけないんだ。そうしたらみんな、離れてしまう…この感情や、何もかもが)
 感情を隠すのは上手くないせいで、ボロばかりだしているけれど。
(でも全部知られてしまったから、もう隠すものなんて何もないのだけど) 
 強い風が吹き、僅かに開いた窓から粉雪が舞い降りてくる。
「ゴミみたいだ」
 秋月が小さく呟くと、すれ違いざま生徒が少し驚いたような目をしていた。
 唇を歪めて笑い、静かに窓を閉め切り外界と遮断する。校庭の白い絨毯が踏みつけられて、幾つもの足音を作っている。
(落ちてくる時はきれいなのに…こんな簡単に汚れてしまう)
 大人は汚いと秋月を揶揄した、倉内のことをふと思い出した。
 避けていたのは自分の方だったのに、今では倉内自身が秋月と関わろうとはしない。
 理由は結局わからずじまいだ。後藤に何か言われたのだろうか、
「また倉内来てるぜ、おい。ここんとこ、毎日じゃねえか?」
 教室に入ろうとしたところで、生徒のそんな会話が聞こえてきた。
「後藤のところに通い妻かァ…。あの噂は本当だったんかね。倉内は、後藤に惚れている」
「じゃねえ?ケンカするほど仲が良いっていうしな。絵的にもお似合いじゃん」
「倉内にことごとく玉砕する原因は、後藤ってわけか。あいつ、なんか男の色気があるよな」
「お前…キモイこと言うなよ」
「隣りの女子校の生徒で、何人か後藤に告白した女子もいるらしいぜ。ほら、いつか雑誌に載っただろ。小さかったけど」
「マジかよ、それ。羨ましい話だな」
「だろ?あーあ。オレ、倉内でいいからつきあいたいよ」
「倉内の方がお断りだろ。お前そんなこと言ってるから、彼女できないんだよ。
 わかってんのか?自覚しとけ」
「うるせー奴」
(……あ)
 もしかしたら、…いや、確実に。
 倉内は後藤を好きなのだろうか、だからあんな…泣きながらあんなセリフを。
「フミちゃん、教室入んねーの?…フミちゃん?」
「……忘れ物、取りに行ってくる」
 何を喋ったのか、よく憶えていない。
 声をかけた生徒は秋月の小脇に抱えた資料を見て首を傾げたものの、先に教室に入って行った。
 その光景から目を逸らす寸前、後藤と目が合ったような気がする。視線のやり場なんてどうにでも、受け取れるものだ。だから、…自惚れなんてしたくないのに。
(お似合いじゃないか。倉内くんは美人だし、文武両道で自分に正直で……後藤くんとも仲が良くて。ああ、駄目だ。想像したくない)
 とてもじゃないが、二人の恋を応援などできるはずもない。そんな性格はしていない。
 始業のチャイムが鳴る。慌てて廊下を走ろうとした生徒に、秋月は穏やかに声をかけた。
「廊下は滑りやすくなっているから、走らないで」
「あっ、すいません」
 そのテンポが早歩きに代わり、秋月は微笑んで歩きだす。
 そもそも忘れ物なんてしていないのに、どこへ行けというのか。授業も始まってしまった。
(何、やってるんだろうな)
 友人の神崎なら、こんな時優しく叱ってくれるのだろうか。いつだって多力本願な自分が嫌で、今回ばかりは何の相談もしていない。後藤に恋をしたことも、志賀と再会して寝たことも。長谷川のことも。
 普段はお互い、音信不通のようなものだ。
 秋月にとって、神崎は唯一の友人である。大学に居た頃、周りの人間が離れていっても…彼だけは、いつだって秋月の味方だった。だからこそ、少しは成長しているようだと安心くらいはさせたくて。
 言葉を交わすときっとバレてしまうだろうから、連絡無精が今は少しだけ有り難い。
(…いけない)
 そこで秋月は我に返り、腕時計を見る。始業から五分くらい経っていた。
 戻ろうと階段を駆け下りようとして、足を滑らせてしまった。先ほど生徒を注意したというのに、人のことが言えない。
「先生、危ない!」
 強烈な既視感だった。
 後藤は秋月を抱え、廊下に尻餅をつく。痛そうに呻く声が、どこか遠くに聞こえる。そのまま何かを確かめるように、そっと後ろから抱きしめられた。秋月は硬直したまま、何も言えずきつく唇を噛みしめる。身体が震えるのは、後藤の温もりや匂いのすべてに、欲情しているせいだ。
「あっぶねえなあ。大丈夫か?」
 初めて後藤に、恋をした瞬間を思い出す。
「―――大、丈夫」  
 ぎこちない言葉が、口をつく。
 それきり何も言えなくなって、秋月は眉をしかめた。息苦しいなんてもんじゃない、
 正しい呼吸の方法を思い出そうとして、窒息しそうになる。
「春、だったよな。あの時は、こんな風に抱きしめられなかったけど」
「あの時に、僕は…君を好きになったんだ。きっかけなんてこんな単純で、突然で。なのに…!」
 後悔はしていない。それでも、自分は迷ってばかりで。
 素直に本音が言葉になったのは、速く刻む後藤の心音のせいかもしれない。
 自分の気持ちが誤魔化せなかった。何も他に、見えなくなる。
「そう…なんだ?初耳だな、それ」
 後藤は少しだけ嬉しそうに、笑ったようだった。
「笑うところじゃないよ…。何も考えずに好きになって、今のこの状況なんだし」
「アハハ、セーンセ。恋愛なんてそんなもんだろ?考えて好きになるもんじゃない」
 自然に出てくる優しい口調に、秋月は震える声で続ける。
「何で?…後藤くんがそんな風に、僕に普通に話しかけてくれるのかわからない。軽蔑されたんだと思った。これで何もかも終わりだって、僕はそう思ったのに。それでも諦められなくて…。君がいつもと変わらないから、少ない可能性に縋りそうになる」
「オレは一度だって、先生のことを嫌いになったなんて言った憶えはないけどな」
「…え?」
「先生は自分を嫌いかもしれなくても、そんなアンタのことを好きな奴だっているんだよ。オレみたいに。先生が節操なしだろうが何だろうが、別に…変わらない人間なんていないんだし」
「人はそんな、簡単には変われない。僕は、君に愛される資格なんてない。自分のことも好きになれず大事にもできない人間が、誰かを愛することなんてできるわけないんだ」
 一度気持ちを口に出すと、言葉はもう止まらなかった。
「僕は、まともな恋愛をしたことがない。ちゃんとしたつきあいをした経験がない。わからないんだ、どうすればいいのか…。ただ君に嫌われるのが怖くて、なのに…愛されたら今度は、失望が怖くて近づけない。本当はこんな人間なんだって知られたら、きっと軽蔑されてしまう。だけどそばにいたくて、もう…おかしくなりそうで」
「うん。大丈夫だよ、先生。オレ、待ってるから。先生のためらいが消えるまで、待ってる」
「そんなのいつになるか、」
 微かな期待だけで、彼の学校生活を束縛するのは良くないと…そんな綺麗事さえ口にできない。
「ゆっくりでいいよ。先生が、安心して胸に飛び込んでこれるような男になるから。オレの気持ち、憶えておいてよ。待ってる。…これ、オレの携帯番号。いつか使って」
 小さなメモ。それがどれだけの宝物になるのか、秋月は瞠目して番号を見た。
 本当に好きだと思う。こんないい男が、他にいるはずない。
 それなのに自分ときたら、いつだって後藤の優しさに甘えるばかりで。ただ、驚かされる。
「…後藤くん…」
「他の奴を好きになった時は、それでもいい。オレは後悔しないから」 
「年下のくせに…、いつだって大人びた優しさで僕を甘やかして。僕は何も返せていないのに」
 秋月はようやく少しだけ、微笑んだ。
 今はまだ不釣り合いかもしれないが、いつか後藤の隣りに似合う人間になりたいと思う。
 どんなに時間がかかってもいい。待っていると、言ってくれたのだ。
「先生が笑っててくれればいいよ。…なんてな、キザだった?」
 どことなく陰を感じる後藤の笑顔を見る度に、せつなくなる。
 そんな顔をさせたくはないのに。原因は自分かもしれなくて、その妄想に胸が苦しくなる。
「…もう、教室に戻ろう。ありがとう。僕は本当に、自分のことでいっぱいいっぱいだったみたいだ」
(変わりたい)
 強くならなければと、そう思った。
 秋月が促すと後藤は、今にも瞼の閉じそうな目で首を横に振る。 
「ああ。オレは、保健室に行くから。眠気が…ひどいんだ。今…も……」
「後藤くん?」
 この声は、届いているだろうか?
「これは、ゆめ、じゃ…ない……。夢じゃないよな、先生?」
「後藤くん!」
 崩れるように眠りに落ちた後藤を、秋月は慌てて抱きとめる。
「秋月先生、どうかなさったんですか?」
 通りすがりの教師の声に、ぎくりとして振り返った。
 司書の陣内だ。顔を見れば挨拶する程度で、特に親しい間柄でもない。図書室に行ったところでいつも、倉内がカウンターにいるだけで彼は司書室から出てこないのだ。
「せいとが、たおれて」
 見られていたかもしれないと…今更、我に返った。青ざめた表情で、秋月は言葉を紡ぐ。
 腕の中、後藤の身体がいやに重く感じられる。
「とにかく保健室へ運びましょう。秋月先生こそ、顔色が悪いようですが?」
「…いえ、僕は」
 曖昧に言葉を濁す秋月に、それ以上追求せず陣内は後藤を担ぎ上げた。
「ありがとうございます」
「あなたは授業中でしょう。私が運んでおきますから、教室へ戻ってください」
「……あの、陣内先生。さっきの話、」
「ああ、聞いてしまいました。別に、盗み聞きする気はなかったんですけどね…。まあでも、私は他人に興味がないのでご安心ください。誰と誰がつきあおうが、関係ないですよ。ただ、気をつけた方がいいですね。あなたを慕う生徒は多いのだし」
「…誰にも、言わないでもらえますか」
「私はお酒が好きなんです。今度奢ってください。それでチャラにしましょう。そんなことより、早く教室に戻らないともう十五分経ってしまいましたよ」
「あ…!」
「それでは、また。秋月先生」
 慌てて秋月は教室に戻り、いつものように「どこまで忘れ物取りに行ったんですか」なんて生徒にからかわれる。気を引き締めないといけないと、ただごめんと頭を下げた。
 煩いだろうと思っていた教室は、意外にも静かに機能していて、すぐに授業を始めることができた。
(…後藤くん。大丈夫だろうか)
 知られたくないことがあると、保健室で後藤は秋月にそう告げた。
 今でも教えてもらえないだろうか?いつからか、ずっと気にはなっていて。あの時の拒絶がショックで、なかなか聞くことができない。臆病だと思う、どこまでも。
(陣内先生にまで、知られてしまった。…本当に、このままじゃいけない)
 嫌な汗が、チョークを握る秋月の手に滲む。
(―――夢じゃない)
 そう、後藤に返事ができなかった。ポケットの中のメモにそっと触れて、秋月は息をつく。
(まるで夢みたいだけど、夢じゃないよ。後藤くん)
 今はまだ、眠っているだろうか。
 今度顔を見たら、どんな言葉をかければいいだろう。笑えば、いいのだろうか。
 問題は山積みだというのに、不謹慎にも、嬉しくて涙が出そうになる。嫌われていなかった。
「先生、質問なんですけど」
「どうぞ」
 上手く誤魔化せているだろうか。おかしいところはないだろうか。
 先生らしく振る舞えている?
(しっかりしろ!)
 質問があると、手を上げたのは羽柴だったようだ。羽柴の席まで歩いていくと、秋月は足を止めた。

 マサ、大丈夫だった?

 教科書の隅に、走り書きされたメモを見た。羽柴と目が合う。
 羽柴はどこか複雑そうな表情で、寂しそうに微笑んだ。言葉が出てこなかった。
 確かにそれは質問と表現して、差し支えないかもしれない。秋月は硬直して、ギュッと拳を握る。 
(気づかれて、いるのだろうか)
 身体の温度が冷えていく。表情が引きつるのがわかる。永遠とも取れる時間が流れた。
「わかった、ありがとう」
 いつものように明るく笑って、羽柴はそう返事をする。
 秋月は何も言えなかった。
「知ってたんだ、そういえば。ごめんね、先生」
 何を指摘しているのかなんて明かで―――――、頭が真っ白になる。
 思いがけない恋の発露は、秋月の思考回路を奪った。


  2005.01.11


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