デッドロック



 終業のチャイムに、息をつく。
 始まるのが遅かったのに、残りの時間は秋月にとって、いやに長く感じられた。
「セーンセ、一緒に保健室行こ!マサのお見舞い」
「…羽柴くん」
 腕を取られてそのまま、引かれるように歩きだす。軽い羽柴の足取りに比べ、秋月の歩みは鉛のように重かった。気が重い。
「マサには、言わないでね。このこと」
 前を向いたまま、羽柴はそんなことを告げる。それから、小さく笑った。
「知らないから、マサは。俺が、気づいてないって思ってるんだ。だからナイショね」
「…一体、いつから?」
 考えたこともなかった可能性は、恋に現実味を与える。
 普通に傍で見ていれば、すぐに気がつくものなのかもしれない。
「二人がキスしてるのを見た。夏に、マサが…謹慎になった時があったでしょ」
「ああ」
 自分が仕掛けたキスだった。
「あの時にね、そうだったんだって色々…思い当たることもあったし」 
「そうなんだ」
 色々を、追求する気にはとてもなれない。羽柴の勘は、それだけで確信に変わったのだ。
 この会話の矛先が怖い。
「うん。マサはいつも、先生のこと見てるからね」
「………」
「俺、別にデバガメする気もなかったし。マサがいいなら、これでいいんだって思ってた。でもね、…何かマサ、無理してる。体調崩すようになって、居眠りがひどくなって……。思い当たることなんて、先生のことしかないんだ。俺。だから、」
 羽柴は深呼吸して、真っ直ぐに秋月を見つめる。
 純粋な、友情以外の何でもないその視線がひどく、秋月を居心地悪くさせた。
「もしかしたら、マサは先生とつきあわない方がいいんじゃないかって」
 彼の提案はひどく正しく、秋月の心に揺さぶりをかける。
「そう…かも、しれないね」
 立ち止まった秋月は震える声で返事をすると、目を伏せた。
 そんなこと、何度だって自問自答してきたことだ。羽柴に言われるまでもない。…だが、だからこそ他人の意見としてひどく的確に感じられた。それはとても、決定的だった。
「もう、マサにね、近づかないでほしいんだ」 
 嫌がらせでなく心配から、きているであろうその願い。
 ためらいもなく懇願し、羽柴はどこか寂しそうに秋月から目を逸らす。
「マサ、バカだから。きっと言っても、聞いてくれない。
 先生は大人だから、俺の気持ちが本当は、よくわかるんじゃないかな」
「そうだね」
「プラスにならないと思うんだ。違うって…確信持って、先生は俺の言葉を否定できる?できないならもう、マサには近づかないで。俺…、見てられないんだ」
(否定なんて、できるわけない)
 秋月は薄い微笑みさえ浮かべ、首を横に振る。
 どれだけ自分が後藤のことを振り回してきたのかを考えれば、羽柴の感情も自然だ。
「羽柴くんは、優しいんだね。僕はいつも、君が羨ましかった」
 いつだって後藤の隣りにいられ、笑い合えてこんな風に、牽制することすら許される立場が。
「先生のこと、好きだけど。止める人がいなくなったら、これからマサはどうなるのか…。友達なら、応援するべきなのかもしれない。けど、心配なんだ!」
 泣きそうな声でそう続ける羽柴に、秋月は穏やかに笑った。
「僕にも、親友と呼べる人がいるんだ。羽柴くんを見ると…思い出すよ。久しぶりに、顔が見たくなったな。今日にでも、連絡してみようかな。……ごめんね。君たちを傷つけるつもりなんて、なかったんだ…。自分の身勝手さが、恥ずかしいよ」
「先生…」
「羽柴くんの言うとおりにする。これで、いいかな」
 淡々と言葉を紡ぎ、あくまでも柔らかく羽柴に返事を促す。
 予想外な答えだったのか、羽柴はぱちぱち瞬きをした。視線を彷徨わせ、俯く。
「ごめんね、先生。先生にはもっときっと、似合う人がいるよ。…マサはダメなんだ。あいつ、ホントは…そんなに強くないんだよ」
 それだけ言い残し、羽柴は走って秋月の前からいなくなる。
 ぼんやりそれを見送りながら、自嘲するように笑みを浮かべて秋月は溜息を殺した。
(流されたわけじゃない。他に何が言える?…彼に、何が)
 昔を思い出した。学生時代、神崎に志賀はやめろと忠告されたことがあった。
 当時はひどく反発して、…結局は志賀と別れる結果で。自分は、あの時の志賀と同じ立場なのか。
(同じだなんて、冗談じゃない…!)
 きつく、唇を噛みしめる。職員室のドアを開けると、温かい暖房が少しだけ秋月の緊張を解いた。
 長谷川が笑って、コーヒーを差しだしてくる。しかめっ面のまま、礼を言い喉に流し込んだ。
「荒れてますね」
「気のせいじゃないですか」
 図星だ。言い当てられてしまい、誤魔化すように秋月はそっぽを向く。
「美味しい食事にでも、行きますか?夜景が綺麗な店があるんです」
「作り置きしたカレーをそろそろ、片づけてしまわないといけませんので遠慮します」
 我ながら、感じの悪い返答だ。それでも長谷川は、意に介さない。
 目を細めて、にっこりと笑う。…随分と、表情豊かになったものだと、秋月は仏頂面で思った。
「それは美味しそうだ」
「甘口ですから、長谷川先生の口には合わないかと思います」
 もう少し言い方があるだろうに、どうしても八つ当たりのような口調になってしまう。
 いつもこういうタイミングなものだから、本当に、長谷川には申し訳ないが。
「つれないんですね。寂しいなんて、気持ち悪い言葉を使いそうになる」
「…あのですねえ」
 憮然とポーカーフェイスを見つめると、さりげなく手を撫でられた。
 どうしたら、この男がこんなに情熱的に変貌するなんて、予想できたのか。
「せめて下駄箱まで、ご一緒してもよろしいですか?秋月先生」
 芝木の生暖かい視線が、痛かった。


   ***


 帰る頃には、もう雪はすっかり止んでいた。半ば強引に車に押し込められ、秋月は溜息をつく。
 上機嫌な運転手がなんだかひどく恨めしく、文句が脳裏をつらつらと駆けめぐった。
「僕は何度も、あなたとはつきあえないと言ったはずですが」
「そうですね。俺も聞き飽きました。それが、どうかしたんですか?」
「…長谷川先生」
 ここまで開き直られると、会話をする気もなくなるというものだ。
 秋月は黙って、窓の外を見た。過ぎゆく景色はいつの間にか、自分のマンションを通り過ぎている。そもそも学校からそう遠い距離でもないから、考えれば簡単に思いつくはずだった。道路が渋滞していたから、すっかり油断しきっていた。
「あの、どこへ」
「俺は確かに、待つと言いました。でも、動かなければ何も始まらないと気がついたんですよ」
「動かなければ、ですか…」
「以前それで、後悔したことがあるんです。せめて好きだと伝えていれば、行動に出ていれば…未来は変わったのではないかと。今となっては、妄想に過ぎませんがね」
 長谷川は自嘲するように唇を歪め、秋月から視線を逸らした。
「なんだか、意外です。長谷川先生は、もっと自信満々な人なのかと思っていました」
「ただのポーズですよ、そんなのは。俺は、もしかしたらあなたより…臆病、なのかもしれない。昔、大切な人を亡くしました。もう恋なんて二度としないと、誓ったのに。よりにもよって…」
「よりにもよって…僕のような男を、ですか?」
 思わず笑ってしまう秋月に、真面目な顔で長谷川が首を振る。
「俺は、あなたが憎かった。最初に近づいたのは間違いなく、恋なんて感情じゃなかった。聞いてもらえませんか、先生。俺が高校時代の時です。同じクラスの女の子のことを、俺はとても好きだった」
 懐かしむように、長谷川は僅かに目を細める。
 もしかしたら、高校生の頃はもっと柔らかい性格をしていたのかもしれない。本来の性格というものは、時折見せる優しいものなのかもしれない。秋月はただ、黙って頷く。
「俺の片思いでしたが…。どこかとらえどころのない、ふわふわとした女の子でした。彼女、部活の顧問とつきあってましてね。そこまでは、まあどうってことのない話なんですが。学校内に噂が流れてさあ大変、PTAも含めての大騒ぎです。結局二人は、駆け落ちすることになったんです」
 まるで、ドラマのような話だ。
(駆け落ちか…。僕には、考えられないな)
「それが道中、高速道路で事故を起こして、本当に遠いところへ行ってしまったんですよ。心中なのか事故なのか、はっきりとは解明されませんでしたが。そんなこと、どっちだって同じですよ」
 淡々と言葉を紡ぎながらどこか苦しそうに、長谷川は続ける。
「俺は彼女から、相談を受けていたんです。俺は彼女が好きだった。俺が告白するより先に、彼女が先生のことを好きだと知らされた時には…頭が、真っ白になりましたがね。今でも、夢に見るんですよ。もしあの時俺が、彼女に告白していたら。二人をどうにか止めていれば、最悪の事態は免れたんじゃないかって」
 車が止まった。薄闇に呑まれそうな感覚に目を閉じて、秋月は息をつく。
「彼女を奪った先生のことは憎かった。俺も若かったですからね。どうして、教職につこうと思ったのか…。彼女が愛した教師というものに、なってみたかったのかもしれない。そしてそれを愛することができたなら、俺はようやく楽になれる気がしたんです。自分を苦しめる咎から、解放されるような…。そんな時、秋月先生に出逢った」
 長谷川の指が、そっと冷たい頬に触れる。秋月は、振り払えなかった。
「あなたが後藤を好きだということは、俺には本当によく理解できた。あなたは俺から彼女を奪った、あいつと同じ立場なのだとそう思えば思うほど…止めなければいけないと、俺は何度もそう思った」
「そう、だったんですか…」
 ようやく気がかりだった原因が告げられて、秋月はぽつりと呟く。
「けれど、あなたを見ているうちに、違う気持ちが自分の中に生まれてきたのを感じたんです。憎むべきはずのあなたに、俺はいつの間にか…惹かれているんだと、そう…信じられないことですが」
「………」
「あなたは先生とは違う、後藤も彼女とは違う。当たり前のことですが、それを実感することで俺はなんだか、過去の呪縛から解かれたような気になった。とにかく俺は…、あなたが好きだ」
 唇が近づいて、秋月は避けるように身体を竦ませる。そのまま、きつく抱きしめられた。
 この罪悪感がどこから来ているのか、
「ごめんなさい」
「そんなに、後藤がいいんですか?」
 長谷川とつきあえたなら、こんな風に悩むことなどはないのだろう。きっと。
 自分に嘘がつけないのだ。悪い意味でも、良い意味でも。秋月は深く息を吸う。
「好きなんです、彼のことが。僕は。…ごめん、なさい」
「俺は、諦めませんよ」
「……それでも、僕はいなくなったりしません。約束します。だから、」
「…わかりました」
 名残惜しそうに、ゆっくりと長谷川は身体を離す。今にも泣きだしそうな秋月に、吹きだしてしまった。
「参ったな。秋月先生、泣きたいのは俺の方ですよ。帰りましょう。約束…、必ず守って下さいね」
 険しさの消えた満ち足りたような微笑みに、秋月ははいと返事をする。
 マンションの自室へ戻ると疲れきって、ベッドに突っ伏してしまった。ふと思い出し、後藤の携帯番号の書かれたメモを探る。入れておいたはずのポケットに、どこにも…いくら探してもそれは、見あたらなかった。
「ない…!どうして」
 慌てて長谷川に電話をかけてみたが、落とし物は見ていないと言う。
 電話の向こうの声のトーンには気がつかず、秋月はがっくりと項垂れた。
(行き詰まってるな…。ちょっと、疲れた……) 

 その頃長谷川が、後藤の携帯に無言のメッセージを残していることなど、秋月は知る由もなく。
 階段でのやりとりがまるで夢であったかのような錯覚を抱きながら、目を閉じる。
「夢じゃないよね?夢じゃ…ない……」
 譫言のように祈りながら、静かな夜は更けていくのだった。


  2005.01.12


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