線



 文化祭当日。祭独特のざわざわした雰囲気が、校内中を取り巻いている。
「おい、秋月。たまには俺につきあえよ」
「つきあえって…毎日一緒に、弁当食べてる仲じゃないか」
 芝木の誘いに、秋月はそう肩を竦めた。
 確かに長谷川と一緒にいることは前より多いかもしれないが、やはり芝木といる方が多い。
 同じ立場の者がいるのは、どれだけ自分に励みになるか。ある意味、ライバルというやつで。おそらく見た目とは違い、自分には冷めた部分があるから、芝木の熱血は心地良いくらいだ。
「顧問の特権で、部員の店はタダ食いしてやる」
 案内プリントを見ながら、芝木は変な燃え方をしている。
 焼きそばだろおにぎりだろクレープだろ…、指折り数える姿はとても楽しそうだった。
「うわー、サイテー」
「かわいい生徒諸君はきっと、俺が来たら大喜びで奢ってくれるだろうよ。秋月」
「…どうだかね」
 案内プリントを見ながら、秋月は芝木の服を無造作に掴んだ。
 何気なさを装ったつもりでは、あったのだが。
「美術室、最初に見に行ってもいいかな」
「何かやってんのか?食いもんじゃないだろうがな…」
「選択科目美術の生徒が、作品を展示してるんだ。うちの生徒も何人かいるから」
 確か、後藤が。口には出さず秋月はそう思い、唇を歪めた。
(いいよね、別に…。作品を、見に行くくらいなら)
 出て行けと、拒絶されたことがショックだった。
 しかもその後、後藤は気を失ってしまったのだ。秋月の見ている前で。
(…本当に、僕のことなんてもう見たくもないのかもしれない)
 駆け寄ることなどできなかった。長谷川が、後藤を保健室に連れて行くのを見ていた。
 立っていることさえ…やっとだったのだ。完璧な拒絶反応だった。
(はあ…。一体、どうすればいいんだろう) 
 誰に相談することもできない。自分で解決するより他に、ないのだから。周りの明るい空気に取り残されたみたいな、そんな寂しい気分になる。
 憂鬱な気持ちで美術室のドアを開けると、展示された作品群が二人を迎えた。後藤真之、の名前を見つけ秋月は手にしたプリントを握りしめる。それは…描かれていたのは、見慣れている教室の絵だった。タイトルは「線」。
「ああ、後藤じゃないか。お前のこと、慕ってるよなあ。…倉内とも友達らしいし。あいつに友達がいるんで、ホッとした記憶があるんだよ」
「え?」
「倉内もあんまり、他人に心を開かない奴だからな。春先に俺、サッカー部に勧誘したんだけど、はっきりきっぱり断りやがった。暑苦しい、とかうざそうにしててよ。想像つくだろ?」
「…シバちゃんのことだから、広告塔にでもしようと思ったんじゃないの」
 笑ったのは話がおかしいからでも何でもなく、後藤から話題が逸れたからだ。
 視線だけは後藤の絵を見ながら、秋月はそう芝木をからかう。本当に、つきあいやすい。
「何でバレてんだ?」
「入部しなくて正解だったね。倉内くんも」
「…冗談だって!あいつ、見かけによらず運動も得意なんだぜ?中学で陸上やってたらしいし。けっこういい線いってたって話。まあ全然、そんな風には見えないけどな。そんで俺が話しかける度に、聞こえてるから耳元で大声出さないでくださいなんて、あいつはとにかく、かわいくない!…けどまあ、問題児ほど気になるっつーか」
「倉内くんが問題児ねえ。シバちゃんのクラスには、優等生が揃ってるんだ」
 上の空で返事をする。頭の中は、線という意味を考えることに必死だった。 
「お前、言うかよ。そういう嫌味を」
「嫉妬だよ。何の気なしにそんなことばっかり言うから、羨ましくなっただけ」
(僕はきっと、そんな風に後藤くんのことを口にできない)
 無人の教室には教卓が描かれていて、廊下側のドアが開いている。
「線って、どういう意味なんだろうな?どう見たって教室だろうに」
「さあ…。線、か。僕は未だに、教師としての自覚が足りてない気がするよ。生徒と上手く線が引けなくて、かといって友達みたいな先生にもなれやしない。中途半端で、でも…不思議だな。大変だけど、辞めようと思ったことは一度もないんだ。まあ、そんなに長い期間じゃないけど」
「………なあ、俺思うんだけど。もしかしたら、同じことを考えてるんじゃないか?」 
「え?」
 主語が抜けている。
「いや、わかんないならそれはそれで…。まあ、いいか」 
「何?気になるってば、シバちゃん」
「あーっ、考えてたら腹減ってきた!飯行くぞ、ハシゴするぞつきあえ秋月!!」
「シバちゃ―――」
 芝木はもう、秋月の疑問には答えてはくれなかった。


   ***


「食べ過ぎだって。もう疲れた…」
 ギブアップした秋月は、芝木と別れ中庭のベンチに腰かける。あれから一体どれだけの店を回ったのか、途中で数えるのも止めにした。芝木は元気に完食していたが、あの胃袋は絶対におかしい。
(?)  不意の人影に顔を上げ、思わず身体を竦ませる。
 露骨に表情を歪めた後藤は、それでも立ち去らず黙って秋月を見つめている。
(隣り、どうぞ…とか……いちいち別に、言うことじゃないよな)
 睨まれているような気さえする。泣きたいような気持ちになって、秋月は口を開いた。
「…後藤、くん」
「………」
「あの、美術の絵を…」
 それ以上続ける、勇気がない。無視されているのに尚、言葉をかけるなんて嫌がらせだと思われないだろうか?以前は懐いてくれていた時もあったから、余計にこの差が辛かった。…自業自得だ。
「…ごめん、何でもない。もしかして、ここで待ち合わせだった?僕は、もう行くから…」
「行くって、誰のところだよ。長谷川か、あの屋上の男かよ?」
「…え…?」
 思わず問い返していた。後藤の言葉を聞いたのはあまりに久しぶりで、その意味がどうとかより
 嬉しさが先立つ自分は本当に、馬鹿なのだろう。
 頭の中で反芻させて、秋月のぎこちない表情は固まった。
「長谷川先生とは、何でもない。屋上のことは、もう…忘れてほしい」
「何でもないって?本当にそう言えるのか?アイツ、先生が好きなんだぜ。知ってるだろうけど」
「…まあ、嫌われてはいないとは思うけど……」
 長谷川のことは、上手く説明できそうもない。
 彼が本当に自分に恋愛感情を向けているのかどうか、秋月にはどうもピンとこないのだ。
「誰でも…いいのか?先生は、長谷川でも、オレでも、あの屋上の男でも……。線なんて、なければいいのに」
「っ、後藤く―――――」
 不意打ちで抱き寄せられて、身体が強張る。
「ヤらせて、先生。長谷川とも寝たんだろ?あの屋上の男みたいに…。オレも先生としたいよ。先生は何の説明も、弁解もしてくれない。オレは…」
「誰でもいいの、か…。確かに同じだよ」
(後藤くんじゃないなら、他の誰だってみんな同じだ)
「先生」
 否定した方が良かったのだろうか。ある種、ヤケになっているのかもしれない。何を大事にしたらいいのか…どういう風にすればいいのか。もう、わからなくなってしまった。
 少しずつでもかまわないから、お互いの距離が近くなればいいと思っていたのだけれど。どこでおかしくなったのか、不器用を通り越して自分は本当にどうしようもない。
「そんなにしたいなら、いいよ。もう…どうせ、逃げたって意味のないことだ」
(知られてしまったんだから、後藤くんに。あんな馬鹿な痴態を晒して、)
「好きだよ、後藤くん。君のことが本当に好きだ」
 舌を絡めた。リップサービスと思われたかもしれない、今更…どう思われたって構わない。
 ずっと抱かれたかった、後藤に。望み通りなはずだ。なのに、この胸の痛みときたら。
「…場所を変えよう」
 秋月が微笑むと、後藤は苦しそうに視線を逸らした。

 人気のない教室に鍵をかけ、立ちつくす後藤の制服のボタンを外し始める。手慣れた仕草の秋月にうろたえたのか、少し顔が赤いと思った。複雑な感情が過ぎり、泣きたくなる。
 ずっと触れたいと思っていた身体だ。今だって、そう思っているのに。
「泣くほど嫌なのか?オレとやるのは」
 せつない声音が信じられない。どうして涙が出るのかよく、わからなかった。
「後藤くんが好きだ」
「だったら、大人しくオレに抱かれろよ」
 嫌なわけじゃない。けれど、嬉しさとも違う。疑いに満ちたそのすべてにもう、秋月は為す術もない。後悔すら浮かんでこない。後藤はわかってなんかいないのだ、自分の気持ちを。そしてそれは自業自得としか…。
「一度きりだ」
 真っ直ぐに目を見て告げる。こんな苦しさ、何度も味わってたまるものか。
「それがきっと、お互いのためだ。いいね」
 後藤に抱きしめられることなんてもうこれから先、ないのかもしれない。
 後ろ向きな思考回路は、宣告しておくことで少しでも自分の期待をなくしたいと願う。
「………アンタ、本当に馬鹿だな」
 どういう意味なのか、わからなかった。感じたのは、ひどく悲しそうだというだけ。
 きっとそれはお互い様で、けれど、触れ合わずにはいられない。
 後藤の要求なら何だって叶えたいと思うのは、今だけなのだろうか?
「先生、舐めて」
 そうねだられて秋月は、埃っぽい教室の床に膝を立てる。触れる手が震えそうになった。
(緊張してるのか、僕は…。後藤くんが相手だから)
 堅くなった半身を撫でると、その刺激に後藤がぴくりと反応するのが伝わる。馬鹿みたいにそれだけのことが嬉しくなって、それはすぐに泣きたいような気持ちに切り替わり、気を取り直して、唾液を含んだ舌でゆっくりとなぞった。付け根を指で揉みほぐすと、気持ちよさそうに後藤が喘ぐ。
「せん、せ…」
 髪を掴む後藤の指が、すべてがたまらなく好きだと思った。
「…っ、あ……」
 そんな声を出されたら、本当に何でもしてしまいそうだ。夢みたいだ。もっと聞かせてほしい。
(錯覚、しそうだ…。お互いきれいな感情で、セックスしているわけじゃない、のに)
 後藤のこんな顔を見ていたら、別れた男に、感謝の気持ちさえ浮かんでくる。
 すぐに限界が訪れたのか、引き離そうとした後藤の腰を腕に閉じこめる。少し苦い液体を飲み下して、先端に優しく口づけた。何もかもが、好きでたまらない。後藤は驚いたように、秋月を見下ろしていた。もう本当に偽るものなど、何もない。
「して」
 キスをされる。リクエストに応えられ漏れた喘ぎ声は、後藤の口腔の中に消えていく。
(後藤くんが好きだ。好きだ、好き…)
 言葉なんて最初からなければ、こんなにもどかしい思いをしなくてすむのに。
 どこかの超能力者みたいに、テレパシーでも使えればいい。
「先生…」
 秋月の肌につけられた傷に目を留めて、後藤が眉を寄せる。
 無数の痣や傷はもう、痛みはしないが二度と消えない。別れた男の、呪縛のような痕跡だ。
「これを…知られたく……なかったんだ」
「…かわいそうな秋月先生」 
 どう受け取っていいのかはよく、わからない。
 後藤の愛撫はひどく優しく、秋月にもどかしいほどの理性を残したままで。嬉しくて気持ちよくて悲しくて、複雑な感情。秋月は身震いして、甘く吐息を零す。
 手慣れたとはいかないまでも、何度か女を抱いたことはあるのか…後藤の動きは確実に、秋月の淫らな部分を引き出していた。秋月もまた、相手が後藤だと思えば思うほど情欲が抑えきれなくなる。
(どれだけ、我慢していたか…)
「ぁ…ん……」
「乳首、勃ってるね。先生の美味しそう…こうしたら、気持ちいい?」
 敏感になっているところを指でひねられて、秋月は声をあげた。本当は、その指を舐めたい。しゃぶりたい。身体全部で、後藤のことを感じていたい。
「ひあっ…アア……いいよぉ…」
 この時が終わらないで、このままずっと、後藤のことだけを考えていられたらいいのに。
「先生だって、オレにずっと抱かれたかったよな?知ってるよ…。今だってこんな、チンポを我慢汁でベトベトにして。感じまくってさ」
「触っちゃ…あぁん……駄目っ…すぐ、出ちゃうからっ、アッ!」 
 秋月が身体をビクつかせて吐精すると、後藤は少し嬉しそうに笑った。
「…秋月先生のイクところ、初めて見た。ねえ…、次イク時はちゃんと教えて。もっと見たいから」
「んん…」
「本当は、先生はこっちの方を弄ってもらいたいんだろ?」
 アナルに息を吹きかけられて、秋月は声を出さないよう、思いきり自分の肩に爪を立てる。
「んっ、あぁ…!」
 指で確かめるように、内壁を抉られる。もう少しで死ぬほど焦がれた瞬間が訪れるのだと思うと、秋月は嬉しくて期待して、本当に今が幸せだった。
「なんか、指に吸いついてくる…。ねえ、気持ちいい?秋月先生」
「いい…すごく……」
(後藤くんと、ひとつになりたい。繋がりたい)
「オレも…もう、我慢できないから……」
(そんな嬉しいことを言われたら、欲しいものを与えられてしまったら…僕は)
「…ぁ…入った……後藤くんの…」
(ずっと…ずっと欲しかった)
 言葉に詰まる。
 後藤のペニスの形を質量を熱を、自分のアナルで感じられることが信じられないくらい嬉しかった。
「ああっ、そこ…もう少し、深く……」
 さすがに掻き回して、とは言うわけにもいかない。これ以上、引かれたくはないし。
 無意識に零れたセリフに、思わず赤面してしまった。心配した秋月に優しく、後藤が笑う気配がする。
 ゆっくりと腰を動かすと、その刺激でちゅくちゅくと耳に音が響く。恥ずかしくて泣きそうになった。
「ああ、ん!あっ―――――」
「こう?気持ちいい、先生」
 腰を揺らして後藤を誘うと、焦がれてたまらなかったその肌に唇を寄せる。
 これが、自分のものになればいいのに。この、すべてが。
「…んっ…ああ、そ、う……すごくいい…気持ちいいよぉ」
 だらしなく涎を流しながら、そう頷く自分が後藤にどう見えているのかは知らない。
「……もう、本当に……」
 おかしくなってしまいそうだ。このまま、何もかも忘れてしまえたら。
(どうしよう…。君のことが、好きでたまらないよ)

「先生。ほんとに好き者なんだな」

 その言葉。自分のどこに否定する要素がひとかけらでも、あったりするのか。
 秋月が泣いているのか喘いでいるのか、きっと、後藤には区別もできなかっただろう。
 それから先のことは、あまり憶えていない。
 どうやって後藤と別れたのか、その教室を出たのか、一番最初に声をかけてきたのは、抱えきれないほどの食べ物を手にした芝木だ。
「どこ行ってたんだ、秋月?俺はちゃんと、お前の分もゲットしてきたんだぞ」
「…シバちゃん」
 他人を見る度羨ましくなる癖。もういい加減、本当に…直したい。
「感動的なドラマでも上映してたのか?」
 自分の赤く濡れた目を指しているのだということは、秋月にも何となく理解できた。
「……どっちかっていうと、コメディかな。笑えないけど」
 主演は自分だ。馬鹿らしい。こんな馬鹿は他にいないだろう。
 きっと、笑いさえ取れない。
「俺、お笑い大好きなんだよな。何組でやってるんだ?」
「………もう、終わっちゃった」
 終わってしまった。
 言葉にするとその現実が脳裏に留まり、秋月は緩くなった涙腺を隠すように俯いた。
「残念だなあ。そうだ、秋月。長谷川先生が探してたぞ」
 ドーナツを差しだしてきた芝木に、首を振る。何か食べたい気分じゃない。
 思いきり泣いてしまえば、楽なのかもしれないが。
「何の用で?」
「さあ…。俺は、急いだ方がいいと思うけど」
「…わかった」
 長谷川に後で嫌味を言われるのは、避けたい。
 伏せがちに微笑む秋月を心配そうに見送ると、芝木は溜息を殺した。
 事情はわからないが慰めてもらえなんて、言葉に出せるはずもないだろう。

 長谷川はすぐに見つかった。文化祭など無関係であるかのように、彼の担任の教室で授業の準備をしていたようだ。らしいというか、いつも平静を乱さない長谷川は、本当に自分と大違いだ。
「あの、お呼びですか。芝木先生が、」
「俺は呼んでいませんよ」
 長谷川は作業の手を休め、無表情のままそう返事をする。
 なんだか気持ちを挫かれたような気になって、秋月は溜息を殺した。
「…そう、なんですか。失礼しましっ」
「待ってください」
 閉めようとしたドアをいつの間にかこじ開けられ、その足の長さに感心する。
「あっ、何―――ですか」
 真っ直ぐに顔が見られなかった。後ろから、ゆっくりとあやすように抱きしめられる。
 途端に生まれたのは安堵感。気が抜けたのかもしれない。
「泣いてもいいですよ。…そんなに、我慢しなくてもいい」
 優しく髪を撫でる仕草。じわじわと涙が込みあげてきて、秋月は表情を歪めた。
「…ふ」  
「あなたが落ち着くまでずっと、俺はこうしてそばにいます」
 染みるような落ち着いた声音だ。
「……何で、なんですか…。どうしてそんなに、わかるんですか……!」
 後藤には何の気持ちだって、上手く伝えられないというのに。
 言葉がなくても、長谷川は何だって理解してしまうのだ。こんなに、弱い自分を。
「きれいなら、良かった…!もっと、やましいことなんて何もなくて、そうしたら、こ…んな風にっ…!僕は、嬉しいはずなのに…抱かれて、彼に抱かれて…どうして…苦しいんです、長谷川先生!ぼ、くは…!!」
 溢れ出すのは感情と涙と、他に何があるのだろうか。
 ただ悲しい。まさか後藤とこんな風に関係を持つなんて、想像したこともなかった。
「…秋月先生…」
「なん…っで!…こんなに、惨めな気持ちになるんだ。何で、望んだことなのに、自分で、いつもそう…僕は何を、間違えてしまったんだろう…?好きだから抱かれたくて嫌われたくなくて、怖くて…上手く表現できなくて、誤解されて裏目に出るんだ、空回りしてばっかりで…好きな気持ちがっ」
 しゃくりあげながら、秋月は涙を拭う。辛くてどうすればいいか、全然わからない。
 望み通り抱かれたというのに、この寂しさは何なのだろうか。苦しかった。
「話の途中、すみませんが」
 激昂を遮るように、抱かれる力が強くなる。低い声が、心地良く耳に届く。
 秋月はされるがまま、長谷川に身体を預けた。
「あなたに告白しても、いいですか。言葉で伝えたことは、なかったような気がするので」
 すぐには状況を把握することは、出来なかったのだけれど。
「好きなんです、秋月先生。俺とつきあってもらえませんか」
 振り向かされて、こんな真剣な長谷川を見たのは初めてで…言葉に詰まる。
 長い指が唇をなぞり、秋月はようやく我に返った。
「こんな時に何をっ…!」
「確かに俺は、あなたの弱みにつけこもうとしている、最低な男だ。手段を選んでいられない。…誰かを欲しいと思ったのは、初めてなんです。秋月先生」
 キスを逃れるように顔を背けて、うろたえた秋月は吐き出すように叫んだ。
「やめてください、今何を言われたって…僕は!」
「好きなんだ。後藤にも誰にも、あなたを渡したくない」
「…んぅっ……」
 まさか本気だったなんて、思わなかった。…周りの感情なんていつも、目に入らない。
 唇がようやく離れ、長谷川の身体を押しのける。秋月が恨めしげに睨むと、穏やかに笑うその表情がたまらなく悔しかった。
「俺の気持ちを、憶えておいてもらえませんか。返事はいつまででも、待ちますから。
 あなたが後藤を諦めて、俺を選ぶまで」
「…長谷川先生」
「もう、涙は止まったようですね。今日は一人で帰れそうですか?」
 子供扱いだ。初めから、まるで彼は秋月の保護者のように接してきたのだ。
 気を許したらこの、告白。なじる気にもなれない。あいにく、今はそれどころではなかった。
「……平気です」
「残念ですね。ではまた明日、秋月先生」
 何事もなかったかのように振る舞う長谷川に口を開きかけ、結局秋月は何も言わずにその場を離れた。いっぺんに色んなことを、考えられるほど器用でもない。
 こんなに心を、後藤だけが占めているというのに。
(僕たちは、線を越えたんだろうか?こんな形で。…そんなの、)
 止まったと思っていた涙がまた込みあげてきて、秋月は唇を噛む。明日が振り替え休日で良かった、と思った。瞼も腫れて、みっともない顔になるだろう。
 過去のありふれた日常が夢のようだ。とても幸せな夢だった。
 毎日、学校で後藤の顔が見られればそれでいいと、思っていたはずなのに。
 どうして変わってしまったのか、変わらずにはいられなかったのか…原因はたくさん、ありすぎて。
「こんなに持てないって!マーサっ!!…あっ、秋月先生!さよーならっ」
「羽柴くん、…後藤くん……」
 両手にいっぱい紙袋を抱えて、秋月に気づいた羽柴が頭を下げる。
「秋月先生、さようなら」
 ほほえみすら浮かべた後藤の顔を、真っ直ぐに見ることはできなかった。
 彼に抱かれたのだ、と思った。それは嘘みたいな現実で、けれど嬉しい変化ではなく。
「…さよなら」
 二人の隣りを擦り抜ける。
 それは確かに、何かへの別れの言葉だった。


  2004.10.31


 /  / タイトル一覧 / web拍手