アンビバレンス



 「地域に開かれた学校づくり」。そういった名目を掲げ、授業参観が行われることになった。
 いつもより緊張しながらも、授業を終える。安堵感に息をついた秋月は、
「文久」
 磨かれた廊下を一歩、退いた凝視した目で見つめる顔は、夏祭りで再会した志賀に間違いはない。
 渇いている喉は、これ以上何も言葉を発することなどできはしなかった。ただ教材を握りしめた指の強さが、自分のすべてを表現してしまっている。
「こんにちは」
 白々しい挨拶が、掠れた声となって放たれる。志賀が近づき秋月も後じさると、可笑しそうに懐かしい唇は歪んだ。
 授業中、なるべく後ろの保護者は気にしないようにしていたが…気づかなかった。気づいていれば、授業はボロボロになっていただろうから、それで良かったのかもしれないが。
(どういうつもりで…)
 表情が引きつるのがわかる。うんざりしながら、秋月は志賀を睨みつけた。
「もう一度、文久に逢いたくて。ほら、この間は邪魔をされてしまったからね」
「何の用、なんですか」
 苛立ちを抑えきれない。まともに話なんて、できるはずもない。
「俺とよりを戻してくれ、文久」
「嫌です。…こんなところで、やめてくれませんか。そういう話」
「じゃあ、俺の部屋に行こうか?ホテルでもかまわないけど」
 監禁されていた、というただの過去が脳裏を過ぎった。
 あの部屋には、もう二度と行きたくない。勿論、ホテルだってごめんだ。
「僕はどこにも行きません。志賀さん、あなたと一緒には」
 志賀にかまわず踵を返すと、細い身体とぶつかりそうになる。
 乱れた髪を整えながら、その生徒は訝しげな声を出した。よりによって、
「フミちゃん?…誰?」
 図書室の鍵を弄びながら、倉内は不可解そうに志賀と秋月を見比べる。
 隣りに立っているだけで、舐めるような視線を志賀が倉内に向けていることがわかった。
(いけない)
 何らかのちょっかいを出すことは、安易に予想できる未来だ。
「ああ、また明日」
 聞こえなかった振りをして笑みをつくると、勘の良い倉内は何か言いたげに頭を下げて、
「さようなら」
 それきり、振り返りはしなかった。…それでいい。
 悟られないようにホッとしたその耳に、試すような言葉が投げられる。
「俺、タイプだな。ああいうの」
 思わず秋月が瞬きすると、悪びれず志賀は笑って続けた。
「お前が相手にしてくれないなら、年下で試してみるのもいいかもしれないな。名前、何ていうんだ。あの子?ナンパしてこようかな」
「志賀さん!」
 血相を変えて叫ぶ声に、
「妬いてるの?可愛いねぇ。お前は、本当に可愛いよ」
 手首を掴まれ、爪を立てられる。やはりそのすべてに愛情のかけらも感じられない、あるのはただ憎悪だけだ。与えられるのは。
 不思議と今は怖さより、最悪の事態だけは免れたいという気の方が強い。昔は守りたいものさえも、何もなかった。だから捨てられた。自分さえ捨てて、空っぽになって。視点を変えれば悩みこそ、自分が成長した証明のような気もしてくる。
「そんなこと、絶対にさせません」
 強い口調で断言すると、秋月は志賀を睨みつけた。
「大事な生徒を、あなたなんかに傷つけさせたりするものか」
「じゃあ、どうやって守る?文久」
 心底馬鹿にしたような、何の感情もないような目。
「…来て、ください」
 声が上擦った。ぎこちないそのセリフに、満足そうに志賀が微笑む。 
 悔しくなる。胃がムカムカする。自分ときたら、他に方法なんて知らないのだから。
「可愛い上に優秀だ」
 これ以上の嫌味があるだろうか?秋月は唇を噛み、志賀からそっと目を背けた。


   ***


 屋上というのは曖昧な場所だ。学校の中の特異な空間。閉鎖的でもなく、開放的でもなく。
 行き場がなければ来てしまうのだ、今みたいに。少し肌寒く感じられる空気を、胸に吸い込む。
「自己犠牲もいいところだ。反吐が出る」
「…っ」
 強く腕を掴まれて、秋月の眉が寄る。
 低く押し出すような声は、ひどく冷たいものだった。
「脱げよ」
「……」
「聞こえなかったのか?全裸になれって言ってんだよ」
 セックスの時に初めて、この男のサディスティックな性格を知った。
 それまでは、本当に優しかったものだ。今思えばそれも、全部ただの前振りにしかすぎない。
 秋月は覚悟を決め、手が震えないよう気をつけながらシャツのボタンを外し始める。
(大丈夫だ。別に、こんなこと。大したことじゃない、大丈夫だ)  
 酷薄な笑みを浮かべ、志賀が目を細める。
 秋月の、背中や腹につけられた痣を指でなぞり、満足げに肩を揺らした。
「他の男に抱かれるにしても、この身体じゃあ…きれいなのは顔だけだな」
 他人事のようにそう告げられ、思わず秋月の唇が歪む。
(…馬鹿らしい)
「僕の顔なんて、好きじゃないくせに」
「ああ、大嫌いだ…憎悪さえ感じるよ。お前を見てると、滅茶苦茶にしたくなる」
 志賀が本音を見せるのは、こんな時だけだ。
「してると思いますが、実際」
 吐き捨てるように言ったセリフも、相手にされない。
「…壊れてくれれば、良かったんだ」
 きっとそうすることだって、選択肢の中にはあっただろう。けれど秋月は志賀から離れ、穏やかな日々を手に入れた。今も間違ったとは思わない。
「いっ、った…!!」
 首筋に噛みつかれて、秋月は苦悶の表情を見せる。
「文久」
「僕はただ、」
 唇が塞がれた。息もできない激しいキスに、目を開けていられない。何度も口腔を舐められて、抗おうとした腕は金網のフェンスに押さえつけられている。不意に股間を撫であげられて、堪えきれない吐息が零れた。
「んんっ…んぅ……ぁっ…!」
 身体が思い出そうとする。この男に与えられた快楽を…知っているから。
「こんな本性を隠しておきながら、聖職者が聞いて笑うよ。きれいぶって…何にも知りません、って顔をして。もう、こんなになってるってのに」
「志賀さんの、言うとおりですよ」
 緊張しているせいで、秋月の額には既に汗が滲んでいた。
「妙に色気づきやがって。夏祭りで会った、あの偉そうな彼氏のおかげか?」
「…ふふ」
 思わず秋月は笑ってしまった。この状況で不釣り合いだとは思ったが、堪えきれない。とんだ誤解だ。むしろ長谷川が自分の恋人なら、こんなに悩むこともなかった。
 まるで、愛されているみたいだ。ただの暇つぶしにしては、いやに熱っぽく。
 歯に衣着せぬ物言いは、相変わらずで。自己中心的な性格も、周りにどう思われるかなんて、微塵も考えないこの男の…研がれた凶器に近い真っ直ぐさを、懐かしく感じるなんて。 
「俺を馬鹿にしてるのか?文久」 
 頬を叩かれた。秋月は微笑んだまま何も言わず首を振り、志賀に向かって手を伸ばす。
 身体の相性が合うなんて、次元じゃない。自分の嗜好は、この男に都合の良い風に調教されて出来上がったものなのだから。

 「…本当は、オレのことからかってるだけなんだろ」

(え…?)
 今、覚悟を決めたばかりで。どうせするなら気持ち良く、勿論、そういう意味のやる気だ。
 なのにどうして、こんな時に思い出してしまうのか。秋月の眉が寄る。
(まずいな)
 貞操観念なんて、知らない。自分にあるとも思えない。だらしなさなんて、とっくの昔に自覚済み。それに、つきあっているわけじゃない。長谷川と何度かセックスした時だって、後藤のことを思い出しもしなかった。
 割り切っていたからなのか、そこに微塵も罪悪感なんていうものは存在しなかった。
(…後藤くん……) 
 一度脳裏に浮かんだ残像は、はっきりとした形で消えようとはしてくれない。
(恋人じゃないんだから、別に…何をためらってるんだ。僕は)
 集中していない秋月に気がついたのか、志賀の責め方は執拗だった。指が生き物みたいに秋月の肌を這い、引っ掻いて、こねくりまわして撫でさする。甦る思い出と共に、侵食されていく…。
 身体中が性感帯みたいに、敏感に反応してしまう。全部、この男のおかげで。知り尽くされた自分の身体は、志賀の手の及ばないところなんてないのだ。きっと。
「し、…志賀さ…んっ…あ、ああっ」
 身体がどこかで快感を覚える度、激しい罪悪感に苛まれ、泣いているような喘ぎが漏れる。
 ぐちゅぐちゅと内部を掻き回される音に、ただ自我を忘れたくなった。

 「先生がオレのことを、好きなのは知ってるんだ」

(後藤くん、僕は…)
 ひどく胸が痛んだ。滲んだ視界の中、険しい表情の志賀が見える。
 彼はいつも不機嫌で、抱いている最中なんてその極みのようなものだ。発散の為のセックス。…性欲ではなく、なんていえばいいだろう。
 それでも感じる自分、というのが昔はいたたまれなくて。堪えられなかった。
(確かに君のことが好きだ…。でも、こんな姿を見たら、) 
「―――――はっ」
 思わず、志賀にしがみつく。腰を抱え上げられズチュッという音を立て、志賀がゆっくりと挿入してきた。指で慣らされたそこは熱く志賀を締めつけ、吐息が秋月の耳にかかる。
「…や、だ…!令治、んぅ…っ……ぁ…」
 志賀令治。それが志賀の名前だった。何度も呼んだ、忘れようもない名前だ。
 涙が零れる。快楽じゃない、身体が感じていることがどうしようもなく辛かった。気持ちがいい、胸が苦しい。声を出さないようにするだけで精一杯で、気を抜くと途端に、志賀の動きに溺れてしまいそう。
「文久…」
 その声が愛しげだと思ったのは、気のせいだったのかもしれない。大分、まともに物事を考えられない。キスをされた。随分と優しいものだった…秋月は首を振り、逃れようと身体を捩る。
「令治、抜いて…!お願い…嫌、だ」 
 極端な思考が、自分の内に留まっているのにもう、苦しくて堪えられない。
「嫌?よく言うよ、こんなに俺を受け入れておいて…。ほら、好きなんだよな。お前は、ここが。ここをチンポでグリグリされると、イイんだろ?」
「ひぁあ…や、めっ…ああっ、やだ…。ぁあん…令治、抜いて、よぉ…」
 弱いところを抉るように動かれて、秋月は嗚咽を漏らした。泣きすぎて、頭がガンガンする。泣き落としなんて通用しないのは、百も承知で。
 身体はこんなにも気持ちいいのに、胸が痛くて死にそうだった。どうにかしなければ、どうにか、
「文久?」
 理解して欲しいなんて虫のいいことは、思わない。
「自分じゃ、どうしようも…ない、からっ!嫌だ、感じたく…ない…やっ!」
 こういう形で自分を晒して、志賀がどう思うかなんてそんなこと…知らない。
「…文久、どうしたっていうんだ?」
「好きな人がいるんだ、令治…!やっぱり、できなっ」
 悲鳴のように秋月は叫ぶ。志賀が表情を曇らせた。
「あの男は違うって、さっき否定したばっかりじゃないか。そんなに、俺に抱かれるのが嫌なのか?」
「違う!彼は本当に…ただの、同僚の先生で…くが、僕が好きなのは……」

 「オレのよく昼寝する場所のひとつが、屋上なんだ―――」

 秋月は瞠目して、距離を置いて立ちつくした後藤の姿を見た。多分、目が合った。
 いつからそこに立っていたのか、確かに、信じられないようなものを見るような表情でそこに、後藤がいる。信じられないのは、信じたくないのは…秋月も同じだったけれど。
「文久?」
 血の気の引いた秋月を怪訝そうに伺い、志賀は振り向く。
(もう駄目だ)
 身体中の力が抜ける。後藤はまったくいつもの通り、怠そうにこちらへと歩いてくる。
 志賀は秋月の中に腰を静めたままで、解放しようという気は全然ないようだった。
(後藤くんに僕の中で一番、見られたくないところを見られた…。知られてしまった)
「あのさあ」
 叱られるのを待つ子供のように、あるいは審判を待つ罪人のように、秋月は肩をびくつかせる。
 第一声を発したのは後藤の方で、大して感情のない目を志賀は向けるだけだ。
「安眠の邪魔…っていうか、アンタさ、誰か知らないけど…。嫌がってんだから、止めたら」 
「君も混ざるかい?3Pもけっこう楽しいよ。ね、文久」 
 どんな形でトドメをさせばいいのかも本当によく…、志賀は知っている。
 瞼がヒリヒリする、そう思った。
「悪いけど、興味ないから。…とにかく、先生から離れてくれ」
「わかったよ」
 含み笑いをしただけで、志賀はそれ以上何も言わない。
「んっ…」
 ゆっくり身体を解放されて、秋月は乱れた息を整える。怖くて、後藤を見られなかった。
「早く、学校から出てけよな」 
 まるで眼中にないような、淡々とした声音。
「潔癖だねぇ。君も経験、あるだろう?」
 後藤の返事はない。苛々と頭をかく仕草が、視界の隅に見える。 
 相手にされないとわかると、志賀はからかうのを止めたらしく声を出して笑った。
 秋月は緊張しきって、志賀の別れのセリフを聞く。それは随分と、あっけなかった。
「文久、本当に変わったな。…楽しかったよ」
 沈黙がただひとつの、自分の返事。
 楽しかったよ、がいつのことを指しているのか。秋月には、わからなかった。
 ひらひらと手を上げて、志賀が去っていく。見送りもせず、俯いたまま唇を噛む。
 ひどい顔をしているところを、見られたくない。
 後藤は何も言わないで、金網のフェンスを握りしめた。殴りたかった右手は行き場なく、衝動を抑えられずに震える。もし退学にでもなれば、きっと秋月は悲しむと思った。そう胸の内を明かしてしまえば、隣りで泣いている教師は、少しは楽になれるのだろうか?
 秋月が他の誰かに抱かれるなんて、想像したこともなかった。ましてそれを見てしまうなんて、
「……オレ、」
 見たくなかったと、それは口に出していいのか。
 大きく息をつく。後藤の身体の力が抜けて、かくんとフェンスにもたれかかった。
 どのくらいそうしていたのか、秋月にはもう感覚がわからなくなっている。
 今度こそ、身体中が痛いと思った。気まずいなんてものじゃない、この空気は。
 やがて後藤は目を開くと、眠そうな声で、
「もう、行くわ」
 秋月が顔を上げたところで、その背中は振り返りもしない。 

 終わりというものは、意志とは関係ないところで、いつでも唐突に訪れるものだ。


  2004.09.16


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