恋の悩み



 自分のクラスを持つのは、今年の春で初めての経験だ。期待より不安の方が大きく、秋月の心はストレスで押しつぶされそうな毎日を送っていた。
 生徒一人一人の個性を受け入れて、伸ばしてやり、見守る。それこそが秋月の考える理想の担任像、というものだったけれど、現実はさほど甘くはない。優しく穏やかな先生、ということで嫌われてはいないものの、頑張りがどこか空回りしているようなそんな気さえどこかで感じていた。
 同期の芝木と飲みに行けば、部活の顧問ということもあってか、自分よりはリラックスした彼に軽い嫉妬さえ感じる。そんな自分が、時折嫌になるほど…秋月はとにかく疲れていた。ベテランの長谷川は、毎日何か言いたげな表情で秋月を見ていることだし。そんなに自分のやり方がまずいのか、直接問いただす気にもなれない。
 懸命に過ごしている自覚はあるものの、発散させる場所もなく―――甘い気持ちで教職についたことさえ半分は後悔しながら、その日秋月は授業で使う資料を探す為、図書室を訪れていた。
 クラスの人数分の資料を胸に抱えると、図書委員の倉内が心配そうに声をかけてくる。
「フミちゃん、重そうだし手伝おうか?危ないよ」
「ううん、平気だよ。ありがとう、倉内くん」
 生徒は秋月のことを「フミちゃん」と親しみを込めて呼んでくれる。そのことを少しくすぐったく思いながら、秋月は笑って首を振った。倉内は一年だというのに落ち着きがあり、整った顔の造りもあってか既にちょっとした有名人だ。
「そう。気を付けてね」
 きれいな笑顔に見送られて、図書室を出た。
 放課後の校舎に人はまばらで、すれ違う生徒がさようならと声をかけていく。
 自分のクラスの生徒を憶えるのに必死で、他の受け持ちの生徒は僅かしか憶えていない秋月だったが、そこはそれ。人受けのする、愛想笑いだけは昔から得意だった。
「先生、さようなら」
 そう呼ばれる度に先生になったのだと、自分で再確認をさせられる。この職を選んだのだって、半ば意地のようなものだ。外聞がいいから、待遇を理由にしてはいるものの。

「文久には、自分ってものがないのかな。俺の言うこと全部聞いて、道端の犬だって自己主張するのにさ。俺、確かに他人を調教するのは好きだけど…。さすがに大人の男に対して、社会生活を教育する気にはなれないな」
 今でも思い出す度に、どうしようもなく胸が痛む。
 最低な男と別れて、一番はじめに思ったこと。ただ、まともになりたかった。そう渇望といえるほど、秋月の望みといえば強いもので。
 自分というものがしっかりと確立していなければ、他人に何かを教えることなどできないだろう。自分が他人に何かを教えられることがあるなんて、考えるだけでも奇跡のようだった。
 教師になりたいと、泣きながら思った日のことは鮮烈に憶えている。

 そんなことに思いを巡らせ、確かに、ぼんやりしていたかもしれない。
「先生、危ない!」
 階段を踏み外した、と気づいた時には後ろから、誰かの腕が自分を引っ張ってくれていた。手から資料のプリントが宙に舞い上がり、ひらひらと階段を滑っていく。
 放心したように座り込む秋月の顔を覗き込み、その生徒…後藤は安堵したように溜息をついた。
「あっぶねえなあ。大丈夫か?」
(…こうやって、生徒に助けられる方が多いなんて。本当に未熟だよな)
 秋月の唇が歪む。後藤は授業中にいつも居眠りをしている生徒で、あまり良い印象は持っていない。
 そんなに自分の授業はつまらないのだろうかと、毎回のように落ち込む原因の一つだった。
「秋月先生?」
 発育の良い身体と大人びた雰囲気に笑いかけられると、馬鹿にされたような被害妄想さえ浮かんでくる。
「…ごめん。ありがとう」
「どういたしまして。さっきから声かけてたんだけど、先生全然気がつかないし。重いもん持って危なっかしいなあと思ってたら、案の定。まあ、怪我がなくて良かった」
「ああ、考え事してたから」
「恋の悩み?切なそうな顔してたぜ」
「そんなんじゃないよ」
「アハハ」
 外れてはいないかもしれないが、当たってもいない。
 秋月が落ちたプリントを拾い始めると、後藤もそれを手伝ってくれた。
「ありがとう、何から何まで…」
「お礼なら、今度居眠り見逃して」
「毎回毎回、僕に嫌がらせしてるのかなって思ってるんだけど。悪びれずにそんな風に言われたら、呆れて怒る気にもなれないよ…」
「嫌だなあ。オレはただ、先生の気を惹きたいだけだぜ?」
 後藤は柔らかく笑って、集めたプリントを揃え自分の腕に抱える。
 別に大した言葉では、なかったのかもしれない。他意のないものだったのかも。驚いた拍子に拾い集めたプリントが、秋月の手から零れていった。
(……ああ。ダメだ)
 まさにその瞬間だった、後藤のことを好きになったのは。一瞬で、恋に落ちていた。 
 はっきりと自覚した刹那、わかりやすく秋月の頬が赤く染まる。そこに、後藤の手が触れた。
「先生、熱があるんじゃねえ?だから、ボーっとするんだよ」
(……よりによって、何で、受け持ちの生徒なんか好きになるんだよ。いくら男が好きだからって、何も、後藤くんじゃなくたって良いじゃないか…。何考えてるんだよ、そういうつもりで教師になったはずじゃないのに。何でだよ)
 好きになってはいけない相手だ、絶対に。
「先生?」
(散々言われたんじゃないか、分別のつかない子供以下だって。身をもって肯定してるようなものだ、馬鹿だ。好きになるな。他にいくらだって、男はいるんだ。彼じゃなくたって。…絶対、好きになるな)
「泣いてんの?どっかぶつけたのか」
(そんな風に優しくされたら、)
「後藤、くんが…そんな風に優しくするから」
(僕は、何を言おうとしてるんだ?勢いにまかせて告白でもするつもりか、馬鹿!)
 ひどい顔を、しているだろう。秋月は涙を拭うと、鼻をすすった。
 今度は髪を撫でられる。それは何度か繰り返される、感じたこともないような優しい仕草だった。
「…やっぱり、恋の悩みなんだろ」
 ぽつりと呟く後藤に、今度は返事をしなかった。
 春の暖かい日差しが注ぐ、五月初めの出来事だった。
 自分よりも年下の、受け持ちの生徒を秋月が好きになってしまった日でもあった。


  2004.08.22


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