暗闇



 図書室。読書週間のプリントを編集していた倉内は、ふとその手を休め首を傾げる。後藤ときたらひどい顔で、そうたとえるなら、今にも人を殺しそうな雰囲気だった。
 不穏極まりない登場にとりあえず、溜息はしまって。
「後藤?…凄い形相して、どうしたの」
「寝る」
 睨んだわけではないのだろうが、明らかに何かあったらしい。
 頼られるのは、嫌じゃない。助けてほしいと素直に言うなら、手を差し伸べてやることだって。たださりげない気遣いというものは、倉内には不向きだった。元々、人付き合いは不得意だ。煩わしい干渉よりも、無干渉の居心地の良さ。だって、傷つくのは怖い。
「まあ、ここに来たっていうことはそういうことなんだろうけど」
「静。お前はいいよなあ。ここでボーっとしてればそれで幸せで。羨ましい話だぜ」
 さすがにカチンときて、倉内は後藤を睨む。
「…無駄口叩いてないで、早く寝たら」
 眠そうな顔に、心からの言葉を送る。大げさに後藤は肩を竦めた。
「この冷たさ!静お前、好きな奴なんていたことないだろ?氷の心の持ち主だな」
 ひどい言葉を吐いたって、額面通りには傷つかない後藤のタフさが、嫌いじゃない。
 まともな友人が初めてできたと、絶対に口にはしないにしても。この関係。
「僕の純愛を、後藤にだけは馬鹿にされたくはないね」
 こんな話の方向転換で、口に出すのさえはばかられる。大好きな人がいる。
 後藤は意外そうに目を丸くし、まじまじと倉内を見つめた。
「へえええいるのか、好きな奴」
「煩い。おやすみ」
 もう相手にするのはやめようと、手を振って追い払おうとする。
「…静。それ、うまくいくといいなあ」
「人のことより、自分の恋愛心配した方がいいんじゃない」
 下手くそとは、声に出して言わない。それだけ好きなんだろうとは、わかる。
「オレらさあ、本当ガキだよな。何でオレは生徒なんだろう、何で先生のことなんか…」
 苦しそうに息を吐く後藤から目を逸らして、倉内はようやく笑顔を見せた。
「僕には後藤の気持ち、よくわかるけどね。結局、自分が変わるしかないよ。相手が我慢できなくなるくらい、いい男になればいいんだ」
 まるで自分に言い聞かせるようなセリフだと、自嘲して。
「…まさかお前、秋月先生に惚れてんじゃ」
 こんなにもアホな男を、一瞬でも友達だと思った自分を情けなく思いながら、
「世界中の人間が、自分と同じ嗜好だと思うなよ。馬鹿。どれだけ、お前らに僕が振り回されてるのか…本当、疲れる。どうしたらそんな思考回路になるのか、まったく解剖して分析したいくらいだね!信じられない」
 ダン、と机を叩く倉内に後藤は半ば引き気味に表情を歪めた。
「悪かったよ、そこまで言うか?普通…」
「寝に来たんだろ、お前。こうして話している間にも、貴重な睡眠時間が削られるよ」
 本格的に厄介払いを始められ、後藤の減らず口も直らない。
「嫌味な奴だよなあ、本当。惚れた奴を見てみたいもんだぜ」
「煩い!早く寝ろっ」
「…怖い夢、見そうなんだ」
 聞き間違えたのかと思った。今時そんなセリフ、子供だって言わない。
 不意をついてそんな表情をするものだから、まるで自分は子守をしているような気になる。
「うなされてたら、起こしてやるから」
「頼む」
 頷いた。時折見せる寂しげな笑みに、秋月は胸を詰まらせるのだろうか。 
 すぐに寝息が聞こえてきて、倉内はしばらく、その睡眠を見守ってやることにした。


   ***


「…痛い」
 秋月は顔をしかめると、長い間座り込んでいたコンクリートから立ち上がった。
(僕は、何かを守ることができたんだろうか)
 知られたくなかった。あんな顔をされることは、想像に難くなかったからだ。実際、その通りで。
 もしかしたら志賀だって、ただ秋月をからかっただけで。倉内に声をかける気なんて、少しもなかったのかもしれない。上手く利用、されただけで。
(充分だ、それで)
 無理やり自分を納得させて、微笑んでみる。強張った顔の筋肉が、ぎこちなく歪むのがわかった。
 それが一番大切だと思ったのだ、そうすることが一番良いと。
(これで…良かったんだ。きっと)
 だから早く、涙が止まればいい。この胸の痛みが、消えればいい。
(僕は教師で、彼は生徒なんだから。思い上がりもいいところだ)
 ゆっくりと図書室へ向かう。すれ違った生徒が気がつかないくらいには、愛想笑いが染みついた自分に嫌気が差す。
 倉内の澄まし顔を見れば、この迷いのようなものも消えるに違いない。もう随分と遅い時間になっていたけれど、いつもならまだ開いている時間だ。
 彼の居場所。自分の居場所は、どこにあるだろう。教室も職員室も、皆平等に共有するものだ。
 彼の空間と表現するより、彼の居場所というのが正しい。あの場所を支配するのでなく、ただ、そこにいるのが好きなのだ。それが伝わるから、来客も多いのかもしれない。
 音を立てないように、細心の注意を払ってドアを開ける。
 電気が消されている室内は、真っ暗だった。一歩踏み出そうと目を懲らして周りを見渡すと、机に突っ伏し眠っている後藤の髪を、優しく撫でる倉内がいた。
(!)
 どうしてか声が出せない。
 ひどく狼狽えて後じさる背中が、ドアにぶつかって音を立てる。
「誰かいるの?」
 返事ができなかったのは、何故か。出て行ってどんな表情をすればいいか、見当もつかなかった。
 秋月は慌てて走りだすと、その場から逃げだした。部活が終わり、片づけ始めたグラウンドの隅を抜けていく。芝木が、笑って声をかけた。
「お疲れ、秋月」
「シバちゃん、お疲れ!」
 笑み返した秋月の肩を掴まえて、
「お前…」
 きっと、とても自分はおかしい態度を取っているんだろう。取り乱しているのを悟られないように…けれど表情は追いつかなくて、秋月は泣きそうな顔で笑う。
「また明日ね、シバちゃん」
 何を言われるかわからなくて怖くて、秋月はその腕を振りほどく。
 芝木は眉をしかめたものの、それきり何か追求はない。理由なんて、絶対に言えない。
 途中のコンビニで、缶チューハイを買い込んで帰途につく。煙草だとか酒だとか、何かで紛らわさないと強くいられない。
 後藤はもう行くと言ったのだ。その場所は倉内のところで、
(…だから、どうしたって言うんだよ。ただの友達かもしれない。だけど、違うのかもしれない。比較対象が自分だから、ますますわからなくなるんだ。憂さ晴らしで、好きでもない男に抱かれて)
 シャワーで洗い流したところで、なかったことになるわけでもない。
 後藤の目の前であんな痴態を晒したことが、なくなるわけでもない。お互いに。
「飲み過ぎだ…。気持ち悪い」
 ぐらついた身体で、秋月はソファーに転がり込んだ。いつの間にか眠ってしまっていたらしく、目が覚めると長谷川が自分を覗き込んでいた。
 どうしてだとか、そんな疑問さえ浮かんでこない。ただそこに、長谷川がいるのだと認識するだけだ。
「芝木先生から、連絡がありましてね。あなたの様子がおかしいと」
 熱でもあるんですかと続けて、触れようとする手を払いのける。
「…触らないでください。今触れられたら、おかしくなる」
 こんな時に欲情でもしたら、目もあてられない。どれだけ自分を嫌いになれば、気が済むのか。 
「すごく酒臭いですよ。何缶、あけたんですか」
「さあ…。一人にしておいてもらえませんか」
 相変わらずの説教節だ。羨ましいほど、厳しい人。
「一人でいたら、急性アルコール中毒で病院行きですよ。確実に」
 冷静極まりない。この男にどれだけ、滑稽に見られていることだろう。
 白状して早く楽になってしまおうと、秋月は口を開いた。そうすれば好奇心も満たされ、長谷川も帰るだろうなんて。当人が聞いたら、本気で怒りだしそうだ。
「後藤くんに、一番知られたくないことを知られてしまった。どうせバレるなら、襲っておけばよかったなんて、…本気でそう思っている自分が最悪だ」 
 抱かれたくてしょうがなくて、けれど、嫌われるのが怖くて我慢していたはずだった。
 今ではもう、何の意味もない。触れることすらできなくなった、きっと。
「それは笑えない冗談ですね」
 冗談も何も、本気だと言っているだろうに。
 秋月は自嘲気味に唇を歪めて、長谷川から視線を逸らした。
「もう、僕はどうしたらいいのか…。これからも毎日顔を合わせるんだし、僕はそれでもまだ彼のことを好きだなんて」
 馬鹿としか形容しようがない。しかも自分で、蒔いた種だ。
「いい機会じゃないですか」
「え?」
「後藤のことなんて、忘れてしまえばいいんですよ。男は、彼一人じゃあるまいし。……先生と生徒なんて、上手くいくわけはないんだ」
 何かを思い出すような、苦しそうな笑い方だった。
「長谷川先生…?」
 耳元で、吐き出すような長谷川の言葉。
「好きになってもらえませんか、俺のこと」
 その告白に微塵も揺らがなかったかといえば、嘘になるのかもしれない。
 もう何かを考えるだけの、思考能力は完全に麻痺しているのだし。
 過敏になっている身体を抱きしめられて、秋月は眉を寄せた。気づかれないように、息を詰める。
 目を閉じると一面の暗闇が、まるで自分を表現しているかのようで。ヒリヒリと痛む瞼は涙も枯れ果てて、昇華されず胸の中で気持ちが疼くだけ。
「秋月先生…」
「…んっ…はぁ……ぐすっ…」
 どうして、キスすら拒めない?そんな自答をしている内に、長谷川の指がズボンの中に滑り込む。
「アアッ…!…ううぅ……ぁん……あっ!」
 さっきは声が出せなくて辛かった?そうじゃないだろう。思うのに…すぐに翻弄されてしまう弱い心。
 長谷川にしがみついたまま、秋月は泣きながら喘いだ。優しい指がペニスを撫で、求められるままキスに応じる。
「いいですよ、喘いでも泣いても。恥ずかしくて寂しくて…そんな先生を、今は俺しか見ていません」
「うっ…あ……あぁん…長谷川先生…先生…。僕は、最低な男です…」
「気持ち良くなりたいんでしょう?我慢しないで」
 もつれるように服を脱がせ合い、秋月は自分から脚を広げて、アナルを見せつけるようなポーズをとる。淫靡な光景だった。
「お尻の穴も弄って…。長谷川先生のおちんちんで、めちゃくちゃに犯して……」
「…仕方のない人」
 柔らかく笑って、長谷川はゆっくりと秋月を押し倒しながら、アナルに押しつけたペニスを、挿入させず上下に擦り始めた。擦れる度、いやらしい音が滑る。物欲しそうにヒクヒク震える孔を、わざと焦らしてやる。
「ああ…ぁ…ン……意地悪……アアッ…アァ…」
 昼間はイキたくてもイケなかった。一人でする気持ちも萎えていたというのに、今は早くこの射精感から解放されて楽になりたい。思うことは、それだけだった。
「まだ挿れてないのに、すぐにでも射精してしまいそうですね?先生のペニス、カチカチに硬くなって」
「…あぅっ…!」
「ふふ。挿入しただけでイッてしまうなんて、よっぽど好きなんですね…。まだ亀頭だけで、全部入ってませんよ?」
「好き…好きです…だから、全部ちょうだい……アッ!アアッ、あん、あ、あ、感じる…感じるよぉ……」  目を閉じると暗闇に浮かぶのはあの後藤の顔で、秋月は滲んだ視界で長谷川を見る。
「ううっ…ぅ……」
  手に入れたことがないのに、これから身体を繋ぐ度に後藤を連想してしまうのかと考えると、胸が締めつけられるように苦しい。そんなのは堪えられない。
 自分の欲深さが悲しくてせつなくて、秋月は涙を零すのだった。


  2004.09.25


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