ふたりでお買い物

「おー痛て」
 烏哭が情けない声を出した。その頬には鮮やかな赤い手形がついていた。周囲はざわざわしていた。デパートのひといきれとむわむわした活気に包まれている。8階のレストラン街にある、おいしい点心が評判の店内だった。
「僕、謝りませんから」
 八戒がきっぱりした調子で告げる。麻のストールを首に巻いて、烏龍茶をひとくち啜っている。手にした陶磁器がとろりとした白い釉薬の艶を放って美しい。
「それにしてもサ」
 烏哭がぼやく。4人がけの席を案内されたので、隣の空席に荷物を置いた。先ほど、紳士服売り場で購入したばかりの服が入った紙袋たちだ。幾つかあるその中には、それぞれタートルネックのニットやら、えりの立ったシャツなどが入っていた。
「あんなところでひっぱたかなくったってサ」
 烏哭がため息をついた。朝から大切な八戒ちゃんの機嫌が悪いのだ。えりが大きく開くタイプのカジュアルな青いシャツを着て、痛そうに打たれた頬をさすっている。
「知りません」
 つれない冷たい口調で八戒が横を向いたそのとき、
「お待たせしました。小龍包です」
 ほかほかと湯気をたてるセイロが2つ、テーブルに運ばれてきた。目の前で蓋を開けられる。丸く小さい点心が、おいしそうな匂いをただよわせていた。きゅっと茶巾のように結ばれた形をしている。白い肌ごしに中の肉餡がうっすらと透けて見える。
「こちらの、酢醤油と針ショウガでお召し上がりください」
 旬麗、と名札をつけた店員が丁寧に一礼して去った。
「ほらほら」
 八戒の前にある小皿に酢醤油を注ぎながら、烏哭が言った。
「ご機嫌なおして」
 長い象牙の箸を手にとるようにうながした。艶のある、薄黒く茶色い酢醤油の匂いが食欲をそそる。
「僕、絶対に謝りませんからね」
 むすっとふくれっ面をして、八戒がなおも言った。その頬は心なしか上気して赤い。横を向くと、生成りのストールが衣擦れの音を立てた。
「はいはいはい」
 烏哭がご機嫌をとるように湯気の立つ小龍包のセイロを八戒の前へ勧めた。
 今朝、起きて鏡を見たときから、八戒は肩を震わせていた。点々と隠しようもなく口吸いの跡が幾つもついている。恨めしそうな目つきで年上の恋人を睨むと、相手は両の手を合わせるようにして平謝りしてきた。
 そんな、烏哭に促されて首に男物のストールを巻き(季節はずれなのに)しぶしぶ買い物に連れ出されたのだ。
 しかし、
「あんなところで、あんなことを言わなくったって」
 小龍包を酢醤油につける。針よりも細く切ったショウガを小皿へいれていた。
「ボクが悪かったって」
 そう、先ほど、
 デパートの紳士服売り場で、首まで隠れるようなタートルネックの服を幾つか購入した。カードを切って気前のいい様子の烏哭に、買い物の間中、店員がはりついていた。高級店ならではの光景だ。おや、この服はなんだろう、材質は? などと客が考えていると、その空気を読んだように品のある店員がスーッと近づいてくる。
「お連れ様にでしたら、こちらのシャツなどもご一緒にいかがでしょう。お似合いだと思いますが」
 よくある、セールストークだ。「二郎神」 と名札をつけた、こうした店にはよくいる年配のベテラン店員から指し示されたのは、オックスフォードタイプのボタンダウンのかっちりした白いシャツだった。いかにも生真面目な英国風のシャツだ。
「白いシャツとして代表的なシャツです。オックスフォードクロスと呼ばれる生地でつくられている正統派です。贅沢にも縦と横に2本ずつ引きそろえて生地を織っておりますので、ふっくらとして通気性も抜群です」
「ああ、いいねェ。こういうの。八戒ちゃんに似合いそう」
 烏哭が振り返ってにやにやと笑いを浮かべるまではよかった。
「こういうシャツって、脱がしがいがありそうだよねェ」
 思わず、内心思っていることをこの淫猥鬼畜メガネ男は呟いていた。しまった、と思ったときは時すでに遅し。
 次の瞬間、八戒は思いっきり、烏哭の頬へ平手を放った。相手の方がちょっと背が高いので、いつもだとクリーンヒットしないが、ちょうど、烏哭は八戒に囁くように背をかがめていたので、それはまともに入った。かけてるメガネが飛ぶような勢いだった。

「ああ、痛い」
 思い出して、また烏哭が頬に手を当てて呟いている。いまだに打たれた跡がひりひりとしていた。
「絶対、店員さんにも聞こえていたと思います」
 八戒が小龍包をいったん箸にとった。長い象牙の箸とあいまって食事をする仕草が優雅だ。すっと伸びた手首のところで、ベージュのシャツの袖が揺れている。
「そんなの聞こえてないって」
「聞こえてます」
 八戒は頬を赤らめて押し殺した声で言った。
 老舗デパートに入っている、ハイブランドの高級店だ。しっかりとした研修で教育が徹底されている。さすが、プロと評価するにふさわしい接客サービスだったが、あの店員だって顔にこそ出さないが、烏哭と八戒の性的な会話が聞こえているのに違いない。
「ボクが悪かったってば八戒ちゃん」
 烏哭も象牙の箸で、小龍包を口へ運びかけながら、繰言のように呟く。
「つい、キミとお買い物できるのが愉しくて気が緩んじゃってたんだよ。許して」
「というか、僕に服を買ってくれるのって、貴方はそういうつもりなんですね」
 じっとりと陰惨な目つきで八戒は睨んだ。眼鏡のレンズ越しの瞳はひどく冷たい。
「あははっ。ナニをいまさら。よく言うじゃない。男が服をプレゼントするのは、それを脱がす愉しみのためだ、なんっちゃってェ」
 睨まれながらも、へらへらしながら烏哭は悪びれずに本音を言った。ここまでくるとカエルの面になんとやらだ。
 諦めて、八戒が口元の小龍包をかじった。
「お」
「ん」
 小龍包を口にして、ようやくその弾力のある皮を噛み締めてから烏哭と八戒が同時に叫んだ。
「おいしいー!」
「うわ! おいしいねェーコレ」
 蓮華に小龍包をひとつ取り、酢醤油や千切りにした針ショウガを振り掛ける。できたてのあつあつだ。注意深く、そのまま口で半分噛み切ると、じゅわ、と中から芳醇な肉汁のうまみがあふれ出てきた。酢醤油と針ショウガのうまみが溶け合い、口の中でじんわりと交響曲でも奏でるかのようなおいしさが口の中に拡がってゆく。
「んん」
 八戒がもうひとつ小龍包を蓮華にとった。本当においしい。歯で噛み切ると、うまさそのもの、良質の出汁そのものな肉汁が溢れ出て、口の中へ舌へとじわりじわりとうまみが拡がる。幸せなおいしさだ。
 そうしている間に、
「酸辣湯(サンラータン)です」
 ほか、ほかと湯気を立てるスープが運ばれてきた。ほどよく酸味があって辛い、食欲をそそる味わいだ。具のタケノコの細切りやキクラゲがまたまた美味しい。
「んーこれも」
 烏哭がおいしさに感銘したように目を閉じた。ほこほこした湯気が周囲に立っている。
「おいしいですねぇ」
 八戒が幸せそうに表情をゆるめた。
「五目炒飯になりまーす」
 次々とおいしそうなものが運ばれてくる。
「うわ、コレもおいしそう。冷めないうちに食べないと。八戒ちゃん」
「そ、そうですね」
 烏哭と八戒の痴話喧嘩は、いったん、そこで一時休戦になった。


「お会計お願いします」
 烏哭が小額だから、カードよりも現金でいいか。でも、カードだと年末行こうと思っている沖縄のマイルがたまるかな、などと内心思い、黒いカードを取り出した。
「これで」
「はい。お待ちください」
 レジのキャッシャーを店員さんがいろいろと操作している。その間に、烏哭は八戒に囁いた。
「今日はありがと」
 くせのある黒髪、メガネをかけた知的な風貌のくせに淫猥な口元が、へらっと悪びれずに笑いに緩む。それを八戒が睨むように見返した。正面きって、こんな風に言われると、どう返していいかわからない。高価な服を買ってもらったのに、平手打ちなんかしてしまって内心、ちょっぴり心苦しく思っている八戒が視線を逸らした。
「これからも、一緒にデートしよ」
 年かさの男の図太さ。いや厚顔さがないと言えないセリフだ。いやいや、自らのプライドを置き去りにして相手のことのみを思いやれる年の功というべきか。
「大好きだよ。八戒ちゃん」
 ぬけぬけと悪びれもせずに烏哭は言った。思わず、八戒がその言葉に気圧される。
「烏……」
「すいませーん。お会計できましたー」
 レジを担当していた店員の明るい声に、うっかり親密に抱きあいそうになっていたのを、八戒は我に返って烏哭からすばやく身体を引き離した。烏哭の手にしていた大量の紙袋が、その手で揺れた。





「烏哭さん」
「ん? 」
 デパートを出て、外の石畳が印象的な歩道に出た。ふたりの革靴の下で、硬い石畳が小気味のよい音を立てている。すれ違うひとの姿はそんなに多くはない。そんな街角で、八戒が烏哭のシャツの裾を片手でそっと握ってきた。
「……ごめんなさい」
 蚊の鳴くような小声だった。あんなに 『絶対に謝らない』 などと言っていた八戒だったが、どうした風の吹き回しだろう。いきなり素直になった。
「ごめんなさい。叩いたりして。痛かったでしょう」
 意地っ張りな八戒といえども中年男の厚顔さに調子を崩しているのかもしれない。北風と太陽よろしく、意中の恋人に心を開いて欲しかったら太陽のような寛容さが必要だということだろう。
「いいんだよ。八戒ちゃん」
 烏哭は紙袋を持っていない方の手で、八戒の手を優しく握り返した。ぼんやりとした夕闇に街は包まれつつあった。街灯に明かりがつき始めている。
「そのかわり」
 烏哭は大人の魅力たっぷりな余裕のある微笑みを浮かべながら言った。
「ボクのこと、いいかげん 『うーたん』 って呼んでよ ♥ 」
 とんでもないことを言い出した。
「な、ななん」
 突然のことに、八戒がかけていたメガネをずり落としそうになっている。
「えー? だってェ。キミったらいまだに 『烏哭さん』 なんてさー。ボクたちもう他人じゃないのに」
 ボクたち、もう他人じゃない。たとえ肉体関係にあっても、相手から改めて言われると生臭いセリフだ。パワーワードだ。
 ひるんだ八戒を逃さない、とばかりに、烏哭がつかんだ手の力を強くし、そのまま引き寄せた。メガネのレンズが光る。
「あ!」
 往来で抱きしめられて、八戒が真っ赤になる。恥かしい。
「だめ? ほらァ、いいじゃない。ボクのこと 『うーたん』 って呼んでよ」
 漆黒の瞳に見つめられる。思わず、八戒は硬直した。
「む、無理です」
 思わず、声まで硬い声音で返した。恥かしい。恥かしすぎた。
「どうしてェ。『うーたん』 って、ボクかわいいキミに呼ばれてみたいのになァ」
 メガネをかけた、背の高い知的な男。それなのに、こんな恥かしい呼び名で呼ばれたがっているなんて。おまけに願いが聞き入れられないと知るや、まるで少年のように口を尖らせた。
「わかったよ。そんなに 『うーたん』 ってボクを呼ぶのがいやなら」
 烏哭が八戒の反応を見て諦めたように首をひねっている。ほっと八戒が胸を撫で下ろしたのもつかの間、
「じゃ、かわりに 『パパ ♥ 』 でもいいよ ♥ どう? ホラ、呼んでみて。ボクのことを 『パパァ ♥ 』 って」
 冗談ではなかった。しかし、烏哭は本気のようだ。
「ねっ。呼んでみてよ」
「えっ。ええっ」
「分かったよ……八戒ちゃんたら、照れてるんだね」
 口元を淫猥に歪めている。なんだかうれしそうだ。
「烏……」
「もう、かわいいんだから。その照れ屋な上のおクチはもう無理に返事しなくてもいいよ。正直な下のおクチに、今晩、ゆっくり訊くからね……」
 とんでもなく卑猥なことを囁かれて、今度こそ八戒がキレた。
 瞬間、その手が高く振りかざされ鋭くひらめいた。手の平が肉を叩く高い音が派手に立つ。
「っ痛ったあ」
 また、八戒が烏哭の頬を思いっきりひっぱたいた。往来の行き交うひとびとの何人かが足を止めて注視しているが、もうそんなのかまっていられない。
「こ、このセクハラ親父」
 烏哭は打たれた頬を片手で押さえた。幸いメガネはふき飛んでいない。
「親父呼ばわりより 『パパァ ♥ 』 とか呼ばれる方がいいなァ」
 ねっとりした口調で八戒をかき口説きだした。全くめげてない。
「今晩、またキミの部屋に行ってもいい? ねェ行ってもいい? 」
 このしつこさこそ、中年の本領発揮というところだろう。同じような文脈(テキスト)で 「何にもしないから一緒にホテルに行こう」 というのがある。これも相手が根負けするまで、しつこく言い続けるのがコツだ。
「もう、僕は知りません」
 八戒が顔を背けるのもかまわず、
「いっぱい気持ちのイイことしてあげるから。キミの大好きな奥のヒダヒダをボクので……」
 卑猥な口調だった。まるで閨で囁かれているようだ。ひとの行き交う往来なのに、ベッドの上にいるみたいに淫らなことを耳に注がれている。瞬間、ひといきれや街のざわめきが一瞬遠ざかった。
「! 」
 恥かしくて、顔が上気した。八戒は真っ赤になった。
「愛してる。キミのためなら、なんでもしてあげたい」
 手を強引に握られた。がさっ、と腕に下げている、洋服の入った紙袋が音を立てた。
「もうさァ、お洋服もこんなにたくさん買っちゃったから、ボクとのセックスの跡、いっぱいつけても安心だもんね」
 顔中をにやけさせながら、幸せそうに烏哭が言った。イタリアンタイプのシャツを着流すようにはおっていて、とても堅気な研究員様には見えない。
「う……」
 八戒が目を剥いた。がっしりとした腕にふたたび抱きしめられている。意中の男に服を買ってもらうとは、実は非常に淫靡なことだが、まだまだ若い八戒は正確に理解していなかった。情事のために脱がされるのはもちろん、今後、つける予定の情交の跡を隠すためのものでもあると知って愕然とする。確かに今日、烏哭は長袖や、首の隠れるタートルネックをたくさん買い込んだ。淫靡だ。本当に淫靡なプレゼントだった。
「あっもうボク、もうキミ見てるだけで勃ってきたかも」
 吐息まじりの声で烏哭が囁く。抱きしめられているので、相手の身体の変化がわかる。確かに硬くなったものを烏哭はスラックスの布地越しに押し付けてきた。
「もう、僕は知りません」
 耳まで真っ赤にして、八戒がひたすら繰り返す。
「キミがかわいいのがいけないんじゃない。うーたんのをこんなにおっきくした責任とってよ」
 天下の往来なのに、尻を撫で回されている感覚がする。思わず、腕の中で喘いだ。
「知りません」
 もう、言うのがやっとだ。石畳を踏む足元もふわふわとしてあやしい。
「八戒ちゃん助けて。もうボク、おうちに戻るまでもたないかも。どっかベッドのあるとこでゆっくり休憩していこ。ねェ」
 いかにも切なげな様子で、烏哭は腕の中の八戒をかき口説く。観光地、横浜元町の裏にはあまりそのような連れ込み宿はないが、山下町、伊勢崎町の裏ならそんなホテルはたくさんある。この賢い男は瞬時に計算したに決まってる。もう、どこへ八戒を連れ込むのかも、如才なく頭に描いているはずだ。
「もう……僕は本当に知りませんっ知りませんったら……ダメっこんなとこでダメっ」
 しかし、ひっぱたかれても、殴られても烏哭が八戒から離れることはなさそうだった。


 
 




 
やっぱり続いちゃう。