夜のデート ♥

 烏哭の職場。

 その研究室はそんなに広くない。そう、実験棟から見て研究棟はそんなに面積を必要としていないのだ。それぞれのドアの上に、「生体工学研究室」 「量子遺伝学研究室」 「生物化学研究室」などの非常にお堅い部屋札がずらりと並ぶ。
「ええっ?! 年末年始のザ・ブセナテラス。もうオーシャンビューの部屋、満室なの? 」
 スマホを片手に烏哭が思わず独り言をこぼす。昼休みだ。白衣姿で沖縄の高級リゾートホテルの名前なんか呟いてた。
「ついてないなァ。うーん。ガーデンビューの部屋しか残ってないなんて。でもなァ」
 烏哭は職場の机の上に、八戒お手製のお弁当を広げている。青いチェック柄のランチクロスを解くと、中から、色とりどりの具が詰まったお弁当が現れた。
「あら、烏哭。手作り弁当なの? 」
 黄博士が向かいの机から声をかける。どうして、こんな男に手作りのお弁当をつくる人間がいるのか、理解できない。そんな表情だ。
「ん。まーね」
 笑いが止まらない、にやけきった顔で烏哭が返事をする。お弁当のふたを開ける。アスパラのベーコン巻きに、つやつやした卵焼き。手作りのミートボールが添えられ、緑色をしたゆでたブロッコリーやら、たたきごぼうが顔をのぞかせている。ご飯の上には一面に、鶏そぼろがふりかけられていて、食欲をそそる。
「いっただっきまーす」
 烏哭はうれしそうに、両手を合わせた。いやぁ、八戒ちゃんの愛をひしひしと感じるよねェ。しあわせすぎちゃってもう、ボク毎日しあわせェ。
……日本語としておかしいが、烏哭としては真実、心からそう思っているからしょうがない。緩んだ表情で箸を手にした。
「ん? あれそうかそうか。このホテル、『クラブ』 のカテゴリーなら、まだオーシャンビューの部屋残ってるんだ。よかったよかった」
 高級リゾートホテルのクラブ。一般客室より上のクラスだ。13歳未満、お断りの優雅な部屋が並ぶ棟だった。そこならまだ空室があると知って、烏哭はスマホを見ながら、口元を緩ませた。
「えーっと。連泊予約。連泊連泊」
 年末年始、八戒とホテルなんか泊まったら、海など関係なく連日ベッドの上でいちゃいちゃしかするつもりが無いくせに、何がリゾートホテル、何がオーシャンビューなのか。この手の男の考えることは本当に謎だ。
 なんとかホテルを予約すると、烏哭はこっそりと微笑んだ。ほっとして、目の前を見ると、机の横、そう、天井まである本棚が幾つも並んでいる、その専門書の一冊が、本棚に入りきれずに飛び出ているのを見つけた。
「邪魔だなァ、コレ」
 本を無理やり奥へ押し込めようとした。すると
「うわっ」
 反動で、周囲の本が崩れて落ちてきた。明らかに詰め込みすぎだ。見上げると天井まである棚一面にびっしりとすきま無く化学の専門書が詰め込まれている。
「もうさァ、古い本はいい加減、始末しようよ。……って」
 床に落ちた分析機器カタログのひとつに、なんと給料袋が挟まっているのを見つけた。王老師、と表書きされている。
「ちょっと王老師」
 烏哭が振り返って袋を差し出した。
「ナニコレ。カタログの間に挟んであったよ」
「おう、すまんなワシのじゃ」
 手渡し分の給料だ。国研(こくけん)。昔の国の研究所は一部の現金が手渡しだったのだ。王老師はそれが邪魔だとばかりにその辺の分析機器のカタログにはさんで忘れていたのだ。
「ったくもう」
 理系研究者まるだしなド天然な行動に、烏哭が顔を歪める。金がいらないなど、普通の人間には考えられない行動だろう。
「そういえば、烏哭、オマエさん」
 王老師がまったく気にしてない風で言った。
「誓約書、書いとらんな」
「せえやくしょお? 」
 烏哭がすっとんきょうな声をあげる。
「国立科学技術振興機構からのお達しじゃよ。平成24年から、実験データの改ざん、実験の再現性について、虚偽をしないよう締め付けが厳しくなったじゃろう」
 ひらひらと、烏哭の眼前に、不正研究防止の試み、と打たれた文部科学省からの通達文をひらめかす。
「ああ、あの素晴らしいSTAP細胞とやらのおかげでね」
 烏哭がいやそうに眉をしかめる。いかにも面倒くさそうな表情だ。
「それで、今年から全ての研究員に誓約書に署名するよう、文科省から求められておっての」(※実話)
「えええ」
「そーじゃな。夕方、研修会を2時間くらいしてから、署名をすることにしようかの」
「……悪いケド、老師ィ、ボクぅ、ちょっと夕方は大切な用事があるから、パス」 
 八戒の愛妻弁当を食べ終わり、そそくさとふたをして、烏哭はランチクロスを包みなおした。
「パスできるわけ、ないでしょ。国からの通達よ。何を考えてるの、烏哭あなた! 」
 黄博士から、ヒステリックな声があがる。
「ナニ、かな」
 面倒くさいことは御免、とばかり、烏哭はドアに手をかけ、黄博士を横目に皮肉な表情を浮かべて振り返った。
 ばたん。と研究室のドアを烏哭が後ろ手に閉める。

 その途端、研究室の中では黄博士の 『何よあの男』 『どうして玉面公主様はあんな男を研究室長なんかに! 』 の大声が響き渡ったが、烏哭はもちろん関心などなかった。



 
 

 夕方になった。日はまだまだ高い。
 かろうじて帰宅のラッシュ前だ。駅のホームもそんなにひとは多くない。まだなんとか余裕がある状況だ。
「ったくもうSTAP細胞のこととか、どーでもいいじゃない。それなのにサァ、何年経っても、理化学研究所も国も気にしてるねェ。ホント小保方サンったら。嫌いじゃナイけどさァ。ボクみたいに罪も無い善良ないち研究員まで、巻き込まないで欲しーなァ。おかげで八戒ちゃんとのデートがダメになるところだったじゃない。ひどっ☆」
 颯爽としたスーツ姿で烏哭が呟く。

 改札へとひたすら急いでいた。改札を出たあたりで八戒が待っているはずだったのだ。
駅の構内は広く、そしてたくさんの人が群れをなして歩いている。
 ひとびとのざわめきに囲まれ、烏哭は八戒がどこにいるのか、見渡した。背が高いので、そうすれば、自分を待っててくれる黒髪のかわいい青年の姿がすぐに目に映るはずだった。
「八戒ちゃん。どこかな」
 あの綺麗で目立つコをひとごみの中でひとりきりにしておきたくなかった。
 弾む足取りで改札を出て、正面を見つめる。烏哭の表情が明るくなった。
 反対側の通路の壁ぎわに艶のある黒髪を見つけて、手を左右に振った。
「あ、八戒ちゃ……」
 いつもながら、水際立った美青年ぶりだった。すっきりしたオリーブグリーンのシャツが良く似合う。中に黒いTシャツを着ている。今度、また新しい服をプレゼントしたいな、そんなことをふっと思った。
 しかし様子がおかしい。
 烏哭がその漆黒の瞳を見開いてよくよく見ると、八戒の立ってるすぐ横に白い小さなテーブルを前にして易者が腰かけていた。
 そして事もあろうか、八戒にしつこく話しかけているようなのだ。
「クックックッ。怖いですねぇ」
 麻雀の点数棒なんか、口にしている。青白い肌をした怪しい男だ。
「死相が出てますよ。貴方」
 痩せて尖った耳。中国風の服を着て、易者らしく帽子を被った様子を見ると、人相見だろうか。手の平に麻雀パイなんか置いて、ときどきそれを弄ぶように転がしている。
 烏哭のメガネをかけた目がとたんに細くなった。ひどく冷酷で剣呑な目つきだ。八戒以外の男のことなど、関心がないので、いつしか他の人間のことなど、うっかりと見落とすようになってしまっていたのだ。
「な、なんですか。死相? それ僕に言ってるんですか? 」
 不気味に感じたのだろう。八戒が思わず、後ずさろうとした、そのとき。
「クックックッ。猪悟能。楽シイ……楽シイよ」
 などと言いながら、易者が八戒の腕をつかんできた。これは完璧に変態だ。
「は、放してください」
「ああ、猪悟能、我より愛をこめて……」
 そのとき、
 じゅっ。
 横から、火のついたタバコが、易者の手の甲に押し付けられた。
「ぎやああああああああ?!」
「悪いけど。ボクの恋人、勝手に口説かないでくれる? 」
 烏哭だった。
 恐ろしいような殺気を含んだ気配をただよわせ、烏哭が八戒を全身でかばうようにして立ちはだかった。メガネのレンズが駅構内の天井の明かりを反射して、白く光っている。おまけにスーツ姿で仁王立ちだ。怖い。
「烏哭さん! 」
 八戒がほっとした顔つきで、見上げている。
「殺しちゃうよ♪ 本当に」
 目が笑ってない。本気だ。駅構内近くに巣をつくってでもいるのか、いつの間にか、カラスの羽が周囲を不吉に舞う。もう、本気も本気、背後に無天経文でもでてきそうなくらいの大本気だ。
「烏……」
 いつもと違う烏哭の様子に一瞬、八戒はひるんだ。そこを逃がさないとばかりに、烏哭がおどけた調子ですかさず肩を組んできた。
「ごっめーん。うーたん。遅くなっちゃった☆ てへっ☆(ぺろ) 待ったんでショ。ごめんねー♪」
 遅くなったといっても、3分ほどのことだ。まぁ、その3分のうちに、八戒ときたら変態易者に捕まっていたのだが。烏哭はすかさずべたべたに八戒にじゃれるようにして抱きついてきた。
「じゃ、行こうか。八戒ちゃん」
 いつも通りの優しい笑顔で、烏哭が微笑んだ。

 



 

 歴史のある洋食屋でお目当ての料理を注文すると、烏哭は言った。
「だから、油断しちゃダメって言ったでショ」
 つい、小言っぽくなってしまう。その手にした水を飲むグラスは、窓の外を行過ぎる車の赤いテールランプの光をぼんやり映している。
「……すいません」
 八戒がうなだれる。オリーブグリーンのシャツに包まれた自分の腕を片手できつくつかんでいる。先ほどの易者のことが相当ショックなのだろう。
「まったく。だから、ハローワークなんか行かなくて良かったよね。駅に3分いただけで、アレだよアレ」
 烏哭がぶつぶつと愚痴る。おそらく、八戒の目さえなかったら、パラレル設定もなんのその、無天経文の力で、あの易者など3秒くらいで存在ごと無に返しているところだ。
 そのとき、
「お待たせしました。つばめ風、ハンブルグステーキです」
 じゅうじゅうとおいしそうな香りをただよわせて、煮込みハンバーグが運ばれてきた。黒い鉄板の上で、アルミフォイルに包まれている。パンパンに膨らんだアルミフォイルが期待感をそそる。
「鉄板が熱いのでお気をつけください」
 一礼して去ってゆく店員(バンリと名札をつけている)を見送って、烏哭がため息をついた。ちらり、と目の前の恋人を眺める。本当に心配でしょうがない。本音を言えば、箱にいれて大切に鍵でもかけてだいじにしまっておきたい。
「これからは気をつけてね。八戒ちゃん。何かあったらすぐボクに電話してね」
 ひとの気も知らないで、目の前の美人はアルミフォイルの包みをステーキナイフなんかで破いている。裂けたところから、肉汁が激しく蒸発する音を立てて、煮込みハンバーグが現れた。上に良く煮込んだ牛肉が載っている。口に含むととろけるように柔らかい。
「ごめんなさい」
 少し、落ち込んだ口調で八戒が小声で言った。その長いまつげがしおらしく伏せられるのを見て、烏哭があわてる。
「いいの。いいの。八戒ちゃんは悪くないの! みんな変態が悪いんだからね! 」
 自分こそ変態の筆頭の癖に、もうすっかり保護者気どりで烏哭が言った。ちら、と店内を見渡し、誰も自分たちに注視してないのを確認すると、八戒の黒髪をぐしゃぐしゃと大きな手で掻き混ぜた。慰めるように、ぽんぽんと優しく叩く。
「大好き、だよ」
 そっと小声で囁いた。柄にもなく苦しそうに眉根が寄った。綺麗でかわいい恋人がいると気苦労が多いものだ。
「……烏哭さん」
 しばらくふたりで見詰め合う。そのとき、突然。
「失礼しまーす。付け合せのサラダでーす」
 空気も読まずにウェイターがトマトたっぷりのサラダを手にテーブルに置いた。
「あ、いただこうか。八戒ちゃん」
「そ、そうですね」
 握り締めあっていた手を、テーブルの下へ隠して、ふたり同時に思わず呟いた。



「あ、おいしいねェやっぱりここの煮込みハンバーグ」 
 烏哭がようやく、ハンバーグをフォークで口に運んだ。肉質がいいのだろう。肉のうまみが凝縮された味わいだ。噛むとじゅわ、と肉汁があふれてくる。
「僕、家でもコレつくりたいなぁ」
 添えられた、ゆでブロッコリーをデミグラスソースにつけて、おいしそうに八戒が食べた。デミグラスソースの芳しい匂いがあたりに満ちる。
「でも良かったの。フレンチのコースとかじゃなくって」
 烏哭がナイフを使うと、紺地のスーツの袖がかすかに揺れた。
「あは、こういう洋食って時々むしょうに食べたくなりますよね」
 八戒がとびきりの笑顔で微笑んだ。
「うん。そーだね」
 烏哭がしあわせそうに、崩れそうな笑顔で笑った。メガネの奥の目が細くなる。
「じゃ、食べ終わったら映画に行こうか。何、見たい? 」
 しあわせの予感は終わらない。






 
やっぱり続いちゃう。