いってらっしゃいのチュー

 烏哭の自室。

 研究者らしいすっきりした、いい言い方をすれば実用本位、悪い言い方をすれば殺風景な部屋だ。
 そこに、茶色のすっきりしたエプロン姿で八戒が入ってきた。
「烏哭さん、朝ですよ」
 紅一点、いや緑一点だ。麗しくすらりとした均整のとれた姿が、殺伐とした烏哭の部屋で一服の清涼剤のようだ。
「ほら、もう起きる時間ですよ」
 窓にかけられたアイボリー色のブラインドを器用に操作して、外の光をいれている。眩しい朝の光がさわやかに射しこんだ。
「烏……」
 寝ている烏哭の顔を見ようとベッドに屈み込んだ。それが八戒の運のつきだった。
「んー八戒ちゃん。おはよ……」
 とたんに力強い男の腕が伸び、覗き込んできた八戒を思いっきり抱きしめた。
「わ! わわわっ」
「あーキミってば朝からイイ匂い」
 烏哭のベッドは一人暮らしの男が使うのには十分な広さだが、男ふたりで同衾するには狭い。それなのに、烏哭は無理やり八戒をベッドに引きずり込んでいた。
「だ、だめですっ。仕事に行くんですよね? 」
「いーよもうそんなの」
 けしからん指先が、八戒のエプロンの中へと忍びこんでくる。
「だ、だめですっ。僕、せっかくふたりで食べようと思って、朝ごはんつくったんですよ。ハムエッグにソーセージも添えてあるんです。シーザーサラダに、ミネストローネのスープに、カボチャのマッシュも……」
 エプロンの中に差し入れられた手は、胸の尖りをくりくりと撫でまわした。途端にしこって硬くなって小さく勃ちあがる。
「あっあっ」
 ぶる、と八戒が烏哭の腕の中で可憐に震えた。
「おいしそーだね。でもボク、こっちのもっとおいしそーなキミのソーセージを食べてから……」
 八戒の手の平が鋭く翻る。高い音が烏哭の頬で鳴った。





「……いただきまーす」
 烏哭が神妙な顔つきで両手を合わせる。小さな二人用の丸いテーブルの上にところ狭しと八戒お手製の料理が並んでいる。
「おー痛ててて」
 烏哭が頬に手を添えた。みごとに八戒の手形が赤くついている。
「……僕、謝りませんからね」
 むすっとふくれっつらをして、八戒が横を向く。コーヒーサーバーを手に、コーヒーを入れている。こぽぽ、と小気味のいい音が立ち、カップに茶色い飲み物が注がれた。
「どうぞ」
 コーヒー、アラビカ種の芳しい香りが周囲に立ち込める。
「ありがと」
 はちみつを塗ったトーストを片手に、烏哭がコーヒーを受け取った。
「キミは、今日一日、どーするの? 家にいる? 」
 ばり、と烏哭がひとくちかじった。全粒粉の上質なパンだ。香ばしくてはちみつと食べるとぴったりな味わいだった。
「……ハローワークに行こうかなって思ってます」
 ぼそっと八戒が呟いた。
「ハローワークぅ? どうして? 」
 烏哭が目を剥いてメガネをかけなおす。とたんに心にさざなみが立った。心配になったのだ。
「だって僕、無職ですから」
 どこか寂しげな、所在のない顔つきで八戒が苦笑を浮かべる。
「まぁ、キミの場合、無職というか」
 烏哭は口をへの字に曲げた。湯気の立ったコーヒーをすする。砂糖もミルクも入れない。ブラックだ。
「あーんな有名な会社に内定決まってたのにねェ」
 烏哭がぼそり、と呟く。
「それは言わない約束でしたよね」
 ぴく、と八戒が顔を引きつらせた。スープを飲む、匙を持った手が止まった。
「リクルーター、人事課のヤツにお尻触られて」
 ぼそっと烏哭が横を向いた。
「言わないでください」
「思わず、殴っちゃうなんてね」
「だから言わないでくださいって言ってるじゃないですか! 」
 がたん、と八戒が椅子から立ち上がった。額に青筋を立てている。
「ごめん。ごめんよ八戒ちゃん。僕が言いたいのは、キミは何も学習してないってことだよ」
 わざとらしく真面目な顔をつくって、烏哭がサラダのトングを手にとった。ガラスボウルに盛られたレタスの緑が美しい。
「え? 」
 息を荒げて、睨んでくる黒髪メガネ美人を、烏哭は片手でいなした。
「これで、ハローワークなんて、行ってごらんよ。……就職したいなら俺と寝ろとか職員から言われちゃうよ」
「そんなこと男相手に言い出すの、貴方くらいしかいませんよ」
 目の前の烏哭を横目でいやそうに睨む。ため息を吐いて、ミネストローネをスプーンでかき混ぜた。ニンジンやセロリ、ジャガイモやベーコンなどの具材が、トマトが基調のスープの中で小さく切られて浮き沈みしている。
「大体、ハローワークの職員って、国家公務員じゃないですか。そんな真面目なおじさんたちがですね、僕みたいな男相手に、そんな気を起こすはずないですよ」
 そう独り言のように呟いている。貴方と違ってね、の一言もイヤミったらしく付け加えるのも忘れない。
「だ、か、ら。キミはダメなんだよ。ホント心配だなァ」
 烏哭は、めっと叱るような仕草を八戒にした。この、うんと年下の恋人のことが心配で心配でしょうがない。言うと怒られるが、この美人さんは、どこか天然なのだ。そう、このかわいこちゃんは天然ボケだった。現に内定した企業では、お尻を触られたではないか。烏哭の男のカンでは、その人事の野郎はもっとけしからんことをしたかったはずに決まってる。お尻を撫でられるくらいで済んでよかった。不幸中の幸い。あぶなかったのだ。
 しかし、言えばこっぴどく怒られるので、口には出さない。烏哭はこの年下の彼にことの他、弱かった。もう骨抜きもいいところだ。
「ボクだってさァ、いいたくないけど、キミがボクの研究所に来てサ、そのきっらきらした目で、すいません。ボク、ここで働きたいんですぅ。質問してもいいですか? なんてこられたらサ」
 にやにやとひとの悪い笑みを浮かべた。やや長めの癖のある黒髪が耳にかかっているのを邪魔そうにかきあげた。
「もう、口説かれてんのかなって思うじゃんフツー」
「フツーじゃありません」
 八戒が顔をひきつらせた。持っていたトーストを皿に取り落とす。
「ひとけのない実験室か何かに連れ込んでサ、鍵とかかけてキミのことを……ギタギタに犯すね」
「烏哭さん」
 八戒が口を歪ませた。メガネのレンズ越しにすごい目つきで睨んでくる。
「もう、今日は夕食抜きですね。僕、そんなことばっかり言うセクハラ親父にはご飯とかつくってあげません」
 冷たい口調で、吐き捨てて横を向いた。ふくれっ面だ。朝からひどい会話だった。真面目で若い八戒にはついていけない。もう耳が汚れるようだった。八戒は完全に怒っていた。
「いいよぅ」
 テーブルの上に置かれていた八戒の手を、そっと握り締めた。懲りていない。さすが中年、打たれ強かった。亀の甲より年の功というやつだ。八戒は怒って横を向いていたので、反応が遅れてしまった。とっさに逃げられない。
「な……」
「今日はさ、夕食、お外で食べようよ」
 とたんに、真面目な顔を烏哭はつくった。そうやって真剣な表情になると、この男ほど、端正で知的な風貌もない。メガネがまたことの他よく似合って、理知的だ。現に白衣姿など、ふるいつきたくなるほど良く似合う。
「ホラ、前、八戒ちゃんが言ってた。入ってみたいって言ってた洋食屋さんとか、イタリアンとか」
 いくつかの店名を烏哭は言った。
「覚えていてくれたんですか」
 八戒が目を丸くする。
「キミが言うことをボクが忘れるわけ、ないじゃない」
 残りのトーストを平らげながら、烏哭が優しく微笑む。包容力満点、大人の男の魅力たっぷりな余裕のある笑顔だ。
「それでサ、映画とかもついでに見ようよ。ボク、仕事早く終わらせるから」
「ホントに? 」
「だから、いいじゃない。ハローワークなんて、行くの止めようよ」
 手を握る力を強くした。
「そんな、無理に働かなくたって、いいじゃない。ずっとボクのところにいれば。ダメ? 」
「烏……」
 漆黒の瞳。どこか、気だるく物憂い知的な瞳。それに真正面から見つめられて、八戒は上手く返事ができなくなった。
「それとも、ボク、そんなに甲斐性ないかなァ」
 握り締めていた八戒の手をとり、ちゅ、と口づけた。忠誠を誓う騎士みたいな仕草だ。
「烏哭さん」
 八戒が真っ赤になる。
「だ、だって僕、これじゃ」
 まるで、これじゃヒモかニートだ。ちなみに、烏哭としては 『ボクのお嫁さん』 とか 『内縁の妻』 だと思っているが、八戒にはそんな考えは露ほども浮かんでこない。
「しばらくゆっくりしてサ。また大学院とか資格とかいろいろ、考えてみたらいいじゃない」
 口を紙ナプキンで拭くと、烏哭はにっと、笑った。烏哭のマンションは単身者向けではない。ファミリー向けにも対応できるのを、ひとり身なのに住んでいるのだ。広いやたら広かった。
「心配しないの。このボクがついてるんだからサ」
 ぽんぽん、と八戒の頭の上に、大きな手を載せて、撫でる。
「じゃ、行ってくるね。八戒ちゃん。ボク、早く帰ってくるからね。駅で待ち合わせしよ」
 優しく八戒の頬にキスをし、そのまま腕の中へ抱きしめた。
「だいじょうぶかなァ。ボクのいない昼間、インターホンとか出る必要、ないからね。いい? 押し売りとか、宗教とかならまだいいけど、キミ目当てのストーカーとかだと心配だからね。それから、暑かったら遠慮しないでクーラーかけて涼しくしててね。欲しいものがあったらお金はそこの棚の」
 あっ、でも買い物はボクが帰ってきてからにして。ひとけのない時間にスーパーまで出かけるなんてさ心配だよ。どこに変質者がいないとも限らないじゃない。ホラ、ヤろうと思えば、エレベータの中でだってできるしさァ。いやもう、ボクならサ、八戒ちゃん相手なら、階段の踊り場を狙うね。いやもう立ちバックと駅弁ファックとか、余裕で犯れるでショ。
 烏哭の言葉に、眩暈を覚えて、年下の愛人、いや居候は額に手を添えた。愛ゆえの心配性な言葉の数々をひきつった笑顔で受け流しながら、八戒はお手製のお弁当を乱暴に渡した。
「いってらっしゃい。僕ならそんなに心配しなくても大丈夫ですから! 」
 口調に呆れる調子がにじんでいる。年の離れた経済力のある男に溺愛されすぎているのだが、八戒本人に自覚はない。
「本当かなァ。何かあったら、電話してよ。もうね、仕事途中でもボク飛んで帰るから! 」
「……お仕事に集中して頑張ってください。いってらっしゃい」
 何! その、追い出すみたいな言い方! 追い出してるんじゃありません。貴方、遅刻する気ですか。
そんな、やりとりを何度も繰りかえしたあげく、烏哭が玄関先でいそいそと振り返った。
「八戒ちゃん。ホラ、ねェ何か忘れてない? 」
 烏哭がやや屈みこみ、うれしそうに顔を寄せてきた。へらっとした、にやけ顔だ。顔が緩んでる。
「しかた、ありませんね」
 八戒が今日、何度目とも分からぬため息を吐いた。そっと烏哭の顎を細い優雅な指先で捉え、そっとくちづける。
「あ……! 」
 次の瞬間、八戒は力強い腕に背骨も折れよとばかりにきつく、抱きしめられた。そのまま、唇を割られる。
「ふっ……」
 震えて、逃げる舌を優しく絡めとられた。腰が疼いてくるようなキスだ。舐めあい、吸われる。繊細な口蓋の粘膜を舌先でなぞられ、角度を変えて唇を重ね合わせられる。
「はぁっ」
 解放された頃には、腰が崩れそうになっていた。玄関先で、そんな八戒の身体を支えながら、烏哭が囁く。
「帰ったら……昨日はキミが身体が痛いなんて言うから、オアズケで我慢したけど、今日は約束だよ。もう我慢できないよ。キミがいっぱい欲しいよ」
 頬に音を立ててキスされた。もう一度、きつく抱きしめられ、唇を奪われた。一昨日だって孕むのではないかと思うくらい、抱かれたのに、烏哭の求めはキリがなかった。
「お風呂とかも一緒に入ろうね」
 耳元で囁かれて、首まで真っ赤になった。八戒に割り当てられた部屋は居候の癖に大きかった。そして、大きいのは部屋だけではない。ベッドもひとり用ではない。ダブルベッドだ。うれしそうに、烏哭が手配したのが、そんな破廉恥なベッドだったのだ。下心満載だ。
「烏哭さ……」
 首はおろか耳まで真っ赤になりながら、八戒がうつむいた。
「じゃあ、また夕方、デートしようね」
 ちゅ、とほっぺにキスをする。
「ああ、こんな毎日、幸せすぎて怖いよね」
 きりもなく、また八戒の痩躯を抱きしめた。
「ボクはきっとキミと――――」

――――今度こそ、幸せになる。





 続いちゃう。