三蔵×悟能(14)

 三蔵と悟能の毎日は、そんなふうにして過ぎていった。
 逢えない、別れて暮らす味気ない日々。時間はのろのろと、進むのを拒絶しているようだった。
 しかし、それもようやく終わりに近づいてきた。



「いよいよ、3日後ですね」
 三蔵の目の前に、精進料理が並ぶ。
「灌頂の儀式は奥の院にある小講堂で行う予定でよろしいでしょうか」
 メガネをかけた学僧が三蔵に言った。料理を運んできた漆塗りの長い四角い盆が手で鈍い艶を放っている。
「ああ」
 三蔵は箸を取り、吸い物が入っている椀を手にした。小松菜の刻んだ葉が出汁の表面に見え隠れし、白い麩が浮いて湯気を立てている。いい匂いがした。
「他に何かございますか」
「……何もねぇよ」
「分かりましたそれでは」
 退出しようとする相手に、三蔵は声をかけた。
「アイツはどうしてる」
 照れ隠しなのか、名前は出さない。しかし、この御方の気にしている人間など、ただひとりに決まっている。
「感心でございますよ。毎日、講堂で僧に混じって経を唱えております。師の御坊を見習い、良き仏弟子となられましょう」
「……講堂? 」
 三蔵の肩が、ぴくりと動いた。
「ええ、朝の勤行から、皆に混じって真面目に取り組んでおりますよ」
 それを聞いて最高僧の眉間に皺が寄った。
「マズイな」
「え? 」
 料理の塩でも濃かったかと、学僧が慌てたように近寄った。
「……いや、そうじゃねぇ。こっちの話だ」
 三蔵は真剣な目つきになった。横顔が凛々しく厳しい線を帯びる。
「アイツに伝えてくれ」
 学僧へ言葉をかける。
「部屋から出るなとな。そして、もし困ったことがあったら、部屋へ逃げろと」
「…………承知いたしました」





翌朝、
 朝の清冽な寺の空気に、読経の声が唱和する。びんと張った緊張と謹厳な気配に、びりびりと経を読む何人もの声が重なり、重々しく空気を染め上げてゆく。
 共鳴して本堂全体が震えるようだ。
 供えられた灯明の火が読経の声に反応して揺れる。
 
 そんな、朝の粛々とした勤行に、最近一輪の花が混じるようになった。
 そのきらきらしい姿が現れると、諸僧の経を読む空気が微妙に緩んだ。

 ちらり、と皆で視線を送ってしまう。阿字観、回峰行、護摩供行、この名刹、慶雲院にいる僧はただの僧ではない。いずれもが厳しい修行に耐え切った、全土から選ばれたものばかりだ。

 それなのに、この少年が現れると、読経の集中が途切れた。

 稚児灌頂の儀式を控えて、少し長くなっていた後ろ髪を切っていた。黒い艶のある髪がつやつやと光る。前髪はやや長く、目の辺りまでかかり、どこか艶かしい。美しい目は、翡翠に似た緑色で、麗しすぎて憂いを帯びているようにすら見える。アーモンド形の整った瞳はうっかり直視してしまえば、もう、その瞳が心に焼きつき、離れない。
 見よ、今、美童はしなやかな細い腰を捻るようにして、講堂の後ろの席へと座ろうとしている。花のような唇を開いて、諸僧の読経に訥々と加わっている。実に可憐な姿だ。
 全ては大切な三蔵様のためなのだろう。けなげであった。後ろにひっそりと座るのも、他の僧達の邪魔をしたくないという気持ちからなのだが、そんな遠慮など、その暴力的な美しさの前には無力であった。
 本人だけが気がついていない。確かにそれは恐ろしいような美であった。少年から青年になる前の、まだ未成熟で中性的な美貌が、見るものの心を刺し、疼かせる。どんな美女だろうと、この美少年にかなうものはいまい。
 悟能だった。
 まさに、仏陀を誘惑する魔物じみた色香だ。この麗しさの前にはかのクマラジーヴァすらもひれ伏すに違いない。男を惑わすその魔性の前に、久米の仙人も空から落ちるだろう。三蔵がこんなふうに閨で育てあげてしまったのだが、悟能に全く自覚はない。
 三蔵から留守を預かる大僧正が一喝するかのように、金剛鈴を振る。澄んだ鈴の音が天上の楽の音のごとく厳しく空気を震わせた。
 ついつい、悟能に気をとられていた諸僧が、思い出したかのように、再び経の世界へ集中する。
 悟能といえばひたすら、経を唱えていた。
 三蔵が、――――そう、あの儀礼だの、煩わしいことが大嫌いな三蔵が、面倒くさがりの最高僧様が、自分のために稚児灌頂の儀式をしてくれるというのだ。悟能はひたすら頑張ろうと思っているだけだった。



 朝の勤行がすみ、朝食の時間になった。
 大なべのふたが開き、湯気が立ち上る。朝粥だ。白米の煮えたほの甘い匂いが周囲にただよった。
 実に質素な食事だった。悟能は粥を載せた盆をもって、幾つも連なった細長い座卓の間を縫うようにして配る。
 僧らの鼻先で、その可憐な姿をさらし、熱心に皿を並べていた。座卓の上に白い小さな手で次々と皿を置いてゆく。食堂、「じきどう」と読むその場所は、清潔で踏みしめる畳みの感触が清々しい、悟能が歩くたびに青い匂いが立つようだ。僧たちは次々と座布団の上に座った。
 いつもは、稚児の悟能は三蔵の傍にいて、僧たちの目に触れることもない。若い僧などはその端麗な顔立ちに目を奪われくぎづけになっている。
「ご用意ができました」
 そう言うと、悟能はさりげなく末席に座った。
「……稚児が、僧の真似をするのか」
 ぼそりと呟く声が食堂の隅からした。それは苦々しい声だった。華やかな稚児が、規律の厳しい修行僧達に混じるのに抵抗があるのだ。悟能が顔色を変えた。やはり出すぎてしまったのだ。
「稚児灌頂が済めば、悟能どのは観世音の化身。僧の真似をして悪いことなどあろうか」
 メガネをかけた学僧が一喝した。どうも、この男は悟能に可憐の情がわくらしく、何かとかばった。
 それを聞いて修行僧たちが鼻白んだ。
「売色のやからと坊主を一緒にされても困るというもの」
「さようさよう」
「…………!」
 学僧がなおも反論しようとしたが、悟能が目でそれを止めた。首を横に振る。

 そして、そのまま席を立った。ぱたぱたと少年らしい軽い足音を立てて、稚児は食堂から出て行った。
 数十人という僧のいる食堂は静まりかえった。何か白けた空気が僧たちの間に漂っている。

 可憐な白い蝶々が無理やり追い払われた感じであった。

 僧たちの苛立ちは、学僧にも分かった。うまそうな食物を鼻先にぶら下げられ続けているのに、それは他人のものだから食べてはいけないと言われ続けているのだ、普通は苛々するのが当然なのである。
 しかし、学僧には悟能のいじらしい気持ちも分かった。少しでも自分のために「行」をしている三蔵様に近づきたいのだろう。
 学僧は黙って、白粥に匙を入れ口に運んだ。かすかな塩気と米の甘さが口中に広がる。彼は姿勢をただし、何かを考えるふうでメガネのつるを指でかけなおした。




 その日の午後、メガネをかけたこの忠実な僧は渡り廊下を歩いていた。台所である庫裡を過ぎると、渡り廊下から松や楓の緑の葉が目に入る。清々しい空気の中、廊下は舐めたように磨かれぬかれて光っていた。三蔵の居室はその突き当たりにあった。
「悟能どの。よろしいか」
 学僧が呼びかける。扉がひらいた。主のいない方丈、三蔵の居室にいるのは、今は悟能だけだ。
「はい」
 悟能は雑巾を手にしていた。部屋の掃除をしていたのだ。何かしてないと落ち着かなかった。既に綺麗になっている部屋をさらに磨いていたのだ。
「今朝は悪かったな」
 ぼそっと学僧が呟くように詫びる。
「え、いえ」
 悟能が下を向いた。
「こちらこそ、ご迷惑をおかけしてしまいました」
 悟能はひとりで三蔵の居室にいるのがいたたまれなかったのだ。ひとりでいると、あの美しい主人に抱かれる幻覚ばかり見てしまう。三蔵の匂いのしみついた部屋。三蔵の匂いのする寝具。三蔵の……。ひとりでいると淫らな思いばかりがわきあがり、落ち着かないのだ。何かで気を紛らわしていたかった。
 下に向けていた顔をふと悟能はあげた。じっと目の前の実直そうな学僧をみつめる。根の優しいこの男にも迷惑をかけてしまったのだ。
「そうそう。もう、後2日もすれば、灌頂の儀式ですぞ。手順は覚えられましたかな?」
 学僧は顔を横に向け、悟能からなんとか視線を外すと話題を変えた。悟能にみつめられると青い痛みが胸に走る気がしたのだ。この真面目な男は、ひとりでここへ来たことを本気で後悔しはじめていた。
「はい」
「それは上々」
 返事を聞いて、学僧は努めて明るく言った。
「当日は、拙僧が灌頂の場所まで案内をしよう。儀式の装束もそのとき持参いたす」
 悟能はこくんと無言でうなずいた。
 後、2日、ようやく2日、この2週間が永遠にも思われた。長かった。ようやく三蔵に逢える。こんなに離れているのが辛いとは思わなかった。悟能は焦がれるように三蔵を求めていた。
「そう、それから」
 学僧は思い出したように言った。
「三蔵様から伝言だ」
 悟能が 「三蔵」 と聞いて、ぴくっと反応した。その綺麗な瞳を心持ち大きく見開く。
「部屋から出るなとのことだ。そして、もし困ったことがあったら、部屋へ逃げろと言っておられた」
 どこか謎めいた言葉だ。
「いやいや、悟能どのが感心にも毎朝、勤行に励まれていると御報告したのだが……三蔵様は、そなたを箱にでもいれて、出したくないのであろうよ」
 学僧は笑った。堅物なこの男にしては、珍しい軽口だった。



 夜になった。
 空気がぬめって生ぬるい。空には大きな満月がかかっている。しかし、不吉に赤い月だ。血を吸ったように赤い。空気中の微細な塵に反応しているのか。どこか、大気すらもが生臭い気がする。不穏で、気味が悪い。
 いやな――――いやな宵だ。

 悟能は庫裡――――寺の台所を訪れていた。三蔵と別れて過ごしていても、自分の食事を取りにいかないわけにはいかない。
「あの」
 控えめな調子でなかへ声をかける。忙しさのピークは去ったとみえ、料理に携わる僧たちもそんなにせわしくはしていない。
「おう。お前さんの分はコレだな」
「ありがとうございます」
「もう少し、量増やすか」
「いえ、もうこれで」
 料理の載った盆を渡してくれた僧がにやにや笑う。もう少し、食べたらどうかとその顔に書いてある。
「もう、あさっては灌頂なんだろ。三蔵サマのために精をつけておかねぇとダメなんじゃねぇのか」
 軽口を叩かれた。
 そう、近くに控えた稚児灌頂の行事、密教中の密教の行事は、寺の皆の関心事なのだ。何しろあの破戒僧の三蔵様がしぶしぶとはいえようやく執り行うのだ。
 悟能はそそくさと庫裡を出た。後ろから坊主どもの野卑な笑い声が追いかけてくる。三蔵がいないのをいいことに、最近からかいの度が越していた。

 悟能はため息をついた。早く三蔵に戻ってきて欲しかった。

 盆の上に載っているのは、たいして多くない。小松菜の吸い物、ナスの漬物、ニンジンと大根の酢の物、豆腐を油で揚げてだしをかけたものなどが皿に並んでいる。精進料理だ。

 風もない宵だった。少し蒸すような夕方の空気の中、悟能はひとり、部屋までの渡り廊下を進んでいた。少年らしい細い腰、すんなりとした肢体が着物の中で泳ぐ。すらりとした華奢な首筋がどこまでも、なまめかしい。
 少年は掲げた夕食の載った盆を手にゆっくりと歩いた。
 
 そのとき、

 突然、後ろから口を塞がれた。
「…………!」
 おとなの男の大きな手だった。
「声出すなよ」
 押し殺した声がした。
 悟能の手から、赤い漆塗りの盆が落ちる。料理が宙を飛び、皿が割れる音が響く。それは、渡り廊下の床に落ちて無残に散らばった。
「やッ……!」
 悟能は空いた手で、男の腕を振りほどこうとあがいた。反射的に本能的な嫌悪と恐怖がこみあげる。
「おとなしくしろ」
 違う声が隣からした。
 くっくっくっと笑い声がする。
「最高僧サマも夢中な、このヤラシイ身体、俺たちが味見したって罰は当たらねぇよな」
下卑た声だった。
「エロガキが、もう何日、三蔵サマに抱かれてねぇんだ? 男とヤりたくてしょうがねぇだろ?」
「そうそう、俺たちが慰めてやるよ」
 抑圧した情欲を孕んだケダモノの声だ。
「三蔵サマには内緒な」
 淫らな笑い声が周囲から立った。気がつけば5、6人の僧に囲まれていた。
「こんなガキ置いて、二週間もほっとく方が悪いぜ。最高僧サマも頭わるいよな」
 口々に、勝手なことを言っている。悟能はぞっとした。気がつけば絶体絶命だった。
「毎朝、オイシそうな身体して、講堂に来るんじゃねぇよ。エロガキの癖によ」
「てめぇが悪いんだぜ。エロくて目ざわりなんだよ」
「経なんか唱えてねぇで、ヤらせろよ。こっちは、オマエのことズリネタにしてんだからよ」
 大人の大きな手が伸び、悟能の着物が乱暴に引き裂かれた。渡り廊下から引きずって庭へ落とされそうになる。暗がりの植え込みの中ででも、集団で犯そうというのだろう。
「…………! 」
 悟能は押さえつけられていた口元の手を思い切り噛んだ。
「コイツ! 」
 一瞬の隙を見て、逃げ出した。必死だった。悟能は走りに走った。渡り廊下に少年の軽い、しかし必死な足音が響く。可憐な片袖は無残にもげていた。
「追いかけろ! 逃がすな」
 坊主どもの声が飛ぶ。
 悟能は一目散にいままでいた部屋を目指した。
 飛ぶように走った。走って走って、走って。口の中が緊張と恐怖でからからに渇いてゆく。廊下に、男たちの足音がいくつも重なり反響する。鏡をはったように磨きぬかれた僧院らしい渡り廊下は床が抜けそうな悲鳴を立てた。
『もし困ったことがあったら、部屋に逃げろと言っておられた』
 三蔵の伝言が頭の中でよみがえる。
 悟能は必死だった、しかし所詮、子供の足だ。大の男が5、6人その後を本気で追いかけてくる。
「ひとりでどうする気だ。あのガキめ」
 鬼畜どもがわめく。
「どうせ、三蔵サマの方丈なんて、いま、あのガキひとりだけなんだろ?」
「ご主人様のいないスキにヤってやるぜ。バカなガキだ」
 赤い残酷な月夜に鬼畜どもの冷酷な笑い声が不吉な交響楽のごとく響いた。
 ようやく、
 悟能の目に三蔵法師様の私室の扉が映った。その扉を開け、倒れるようにして、部屋に入った。
 しかし、
 扉を閉める時間はなかった。悟能は間に合わなかった。
 扉を閉めようとして、毛の生えた太い腕に突き飛ばされた。床に転がる。
 とうとう、鬼畜どもに、追いつかれてしまったのだ。
 僧たちは悠然と部屋に入ってきた。
「逃げても無駄なんだよエロガキが」
「手間かけさせやがってイヤってくらい、犯してやる」
 悟能は仰向けになって、ひじで後ろへといざった。逃れようとした。無駄な抵抗だった。男たちの腕が少年へ伸びる。

 そのとき、だった。

 キンと部屋の四方からかすかな音が立った。
「うわああああああ?! 」
「ぎゃああああああああッ」
 目の前で、透明な光り輝く糸が縦横無尽に走り抜ける。僧たちは、それに絡めとられた。まるで、獣を捕らえる罠のようだ。

――――結界だった。

 玄奘三蔵法師の結界。
 強力だった。強烈だった。
 次の瞬間、悟能以外の全ての男の身体から血しぶきが立った。
――――死ね。このバカ野郎どもが。コイツは俺のなんだよ。
 確かに三蔵の低い声が闇に聞こえた。
―――― ॐ मणि पद्मे हूँ 

オン・マニ・ハツ・メイ・ウン (オン・マニ・ハツ・メイ・ウン)

 無作法者を葬り去るための密教の境界だ。術者の法力に応じて強大な呪いがかかっている。魔天経文、聖天経文、このふたつを受け継ぐ玄奘三蔵法師の力は、絶大だった。
 侵入者は誘蛾灯の明かりに誘われて、無残に死ぬ虫に等しかった。
 僧たちは血を吐いて床に転がった。
 悟能には、三蔵が片手で印を結んだ姿が脳裏に浮かんだ。闇の中で華麗な金糸が揺れる。あの男は心から心配していたのだ。こうなることがイヤで、稚児灌頂をするのを渋っていたのだ。  
 そう、三蔵が稚児灌頂を渋っていた本当の理由のひとつ。悟能のことが心配だったのだ。危なっかしくて、ひとりでなんてこの少年を置いておきたくなかったのだ。
 あの金髪の鬼畜な最高僧様の、心配性で優しい意外な一面を見た気がして、悟能はずるずると床に座りこんだ。
「廊下に料理や皿が割れて落ちていたようだが、何かあったのか、悟能どの」
 学僧が顔を出した。
「うわッ」
 その真面目な顔が驚愕に歪む。三蔵の居室はひどいことになっていた。
 信じがたいことに、悟能に無体を働こうとした、坊主どもはそれでもぎりぎり生きていた。
 今、ちょうど行に入っている三蔵は不殺生戒にしばられている。そう、生物の命を絶つことを禁止するいましめを守っているのだ。
 だから、悟能を襲っても彼らは死ななかった。いつもなら死んでいるだろう。そう、彼らは運が良かったといえる
――――のだろうか。
 悲惨だった。
 悟能の口を後ろからふさいだものの手の指はぐちゃぐちゃに細かく折れていた。淫らな言葉を吐いた者の舌は裂かれて血を噴いている。悟能の水干を引き裂いた男の腕は切り刻まれていて、今にも肘から先が落ちそうだ。点々と床に転がる丸いもの
――――それはひょっとして男たちの目玉なのか。
「誰か! 誰かこい!」
 学僧は方丈の外へ叫んだ。侵入者どもはひどいめに遭わされていた。確かにこれでは死んだ方がマシだった。





「三蔵×悟能(15)」に続く