三蔵×悟能(13)

 一方、三蔵は行に入っていた。
 
  高僧が稚児に灌頂をするための 「行」 、清く正しく美しく、護摩、経木を焚き、経を読み続けるのだ。三蔵はここ一週間ばかりそればかりをしていた。そして、それはそれなりに過酷だった。
今日も壇上で経を唱えていた。大般若経だ。ろうろうとした声が反響する。
 何時間、そうやって経をよみ続けていただろうか。
 とつぜん、三蔵の動きが止まった。目の前が暗くなり、焦点が合わなくなった。
「う……」
 頭を振った。くらくらした。
「クソ……」
 三蔵は正面へ向きなおった。大日如来が見下ろしている。三蔵はそれを睨み返すようにして、顔をあげた。無理やり経の続きを唱える。
 そう、
 悟能と別れて行に入ってからというもの、三蔵には元の修羅のような日々が待っていた。
夜、全く眠れないのだ。
 その癖、大事な行の最中など、ふとした隙をついて睡魔が忍びこむ。
なんとかしなくてはと、三蔵はあせった。
煩悩こそ、菩提への道とばかり、大般若経を唱え続ける。
 一切の苦をよく除き
 真実にして虚ならず
 ゆえに般若波羅蜜多の呪を説かん。

 それなのに。
 一瞬、黒髪の少年の姿が、脳裏で像を結んだ。
――――せめて、夢でいいから逢いたい。
 睡眠不足の頭へ、雑念が甘い誘惑をささやく。
 もうダメだった。それ以上、続けられなかった。本当にダメだった。目の前が一気にひきこまれるようにして暗くなった。



 そして。
倒れてどのくらい時間が過ぎたことだろう。
「紅流」
 優しい声に呼びかけられる。
 三蔵の前には、いつの間にか懐かしいひとがいた。
そのひとは柔らかい色の長い髪をうしろでひとつにして結んでいる。ひとつにして三つ編みにしているのに、違和感がない。袈裟が衣と擦れあう音がした。
「お久しぶりですね。私のことを思い出してくれたんですね?」
 笑うと目が細くなってなくなる。人のよさそうな笑顔がすぐ傍にあった。目じりが下がっていかにも穏やかだ。飄々とした調子で三蔵へ幼名の「紅流」と呼びかけてくる。
 このひとは。
「裏の門から来たんですか? もう、全然気がつきませんでしたよ」
 目の前の人は、うれしそうに頭を掻いた。額の真ん中で分けた長い銀の前髪がさらさらと揺れる。そんな気さくな態度に反して、着ているのは最上位を示す三蔵法師の装束だ。
 ここはどこだ。
「あははははは。ね、アナタが出ていってから、何も変わってないでしょ。あッ、そうそう。とっときの牡丹餅があるんですよ。甘いモノスキでしょ。食べます?」
 金山寺だ。そう、ここは金山寺だった。いつの間にか、三蔵は幼い頃を過ごした寺の縁側に座っていた。
 夢だ。そういう自覚はあった。自分は夢を見ているのだと。
 これは夢だ。
 だって、金山寺は燃えてもうないはずだ。そう聞いた。俺に灌頂して三蔵の法位をくれた大僧正も死んだのだ。光明だって
――――俺をかばって俺の目の前で亡くなって、よく覚えている。
 辛い、記憶がよみがえる。それなのに。
 眼前の光景に戸惑う三蔵に、光明師はにっこりと微笑んだ。立ち居ふるまいも、目じりを下げた優しい笑顔も全く変わっていない。以前のとおりだ。
「いやですねぇ。このコったら、もう、昔から無口なンですから」
 いかにも、愉快そうに師は笑った。手を左右に振る。白い僧服の袖が揺れる。
リアルな夢だった。夢なのに腰をかけている縁側の木の感触までもが生々しい。表面の年輪さえもが隆起していて手にありありと触れられる。
 光明はそんな弟子の戸惑いを気にせず言った。
「こんなコ相手じゃ、アナタもさぞかし苦労をしておられるんでしょう?」
 そのとき、
「え、いえ。そんな」
 少年らしい幼い声がした。
 三蔵は目を剥いた。いつの間にか、三蔵の傍らには、黒髪の少年がちょこんと座っていた。光明と三蔵にはさまれるようにして腰をかけている。
「…………! 」
 なんて夢だ。
「でも、うれしいですよ。私にふたりで会いに来てくれるなんて」
 うんうんと師匠はひとりでうなづいている。あの小さかった紅流が感無量ですよねぇなんてひとりで呟いている。
「初めてお目にかかります。悟能と申します」
 悟能は背を伸ばすと、お辞儀をした。きちんと薄緑色の着物を着ている。礼儀ただしい。
「お若いのになんてきちんとされてるんでしょう。どうも、紅流……いえ、玄奘三蔵の師の光明と申します。以後、お見知りおきを」
「あ、ありがとうございます」
「さぁ、そんなにかたくならないで、ホラおあがりなさい」
 光明がいつの間にか、盆に載ったお茶とお菓子をすすめてくる。人払いでもかけたのか、世話をやく諸僧もいない。光明が手づから、急須から茶を注いだ。
「あ、ありがとうございます」
 悟能は湯のみを手に、めちゃくちゃ緊張しているようだ。
「知りませんでしたよ。紅流がこんなに可愛い方を見つけてくるなんて……なかなかスミにおけませんよねぇ」
 師匠の言葉に、三蔵は、飲んでたお茶を吹いた。
「こういう方が好きなんですね紅流は。優しげで、可愛くて、素直そうで、なるほど。……そういえば悟能さんはお幾つなんですか?」
 光明師は、そこを聞いてはいけないだろうというところへ天然な笑顔で斬りこんでくる。
「13歳です。もうすぐ14になります」
 悟能は緊張しながらも、きちんと答えた。
「……そうですか。悟能さんは13歳ですか」
 めずらしく光明の目が一瞬、見開かれた。しかも、その目が鋭く光った気がして、三蔵は背中に冷たい汗をかいた。
「お、お師匠様」
 犯罪ですよね。みたいな言葉をこっそりと師が横を向いて呟いた気がしたがはっきりとは聞きとれなかった。
「まったく。アナタときたら。大事になさい。紅流」
「は、はぁ」
 三蔵としては耐えるしかない。
「ちなみに、私は45歳です」
 にっこりと悟能に向かって光明は優しく笑いかけた。
「まだまだ、ナウなヤングには負けませんよ」
 細い目をさらに細めて悪戯っぽく微笑む。
 少年の緊張をとくつもりだろうか。それとも冗談のつもりだろうか。いや案外、本気なのかもしれない。何しろ光明三蔵といえば天然ボケの代名詞だ。師匠の言動は弟子の三蔵といえども、ときおり戸惑うことが多かった。変人中の変人だ。大好きで敬愛している人だったがこればかりはどうしようもない。
 変わってない。三蔵の大切な師は本当に変わっていなかった。確かにこれは師匠の、光明三蔵そのひとだった。

 そして、

 三蔵の困惑をよそに、奇妙なお茶会は延々と続いていた。
 光明は分厚いアルバムを持ち出した。写真がたくさん貼ってある。
「ご覧になります? これ、紅流の小さい頃の写真です」
 うれしそうに師匠が微笑む。
「…………!」
 三蔵は悲鳴を押し殺すことしかできない。いつ、そんなものを撮ったのか。
「かっわいいいでしょう」
 光明は、うれしそうにアルバムを開いて悟能に写真を指し示す。ちょうど7歳くらいの三蔵が写っていた。
「ほ、本当ですね。女の子みたいです」
 悟能が目を見開いた。本気で驚いている。
「ホントですよ。どうして、こんなに目つきが悪くなっちゃったんですかね。私、育て方間違えましたかね」
 光明が深いため息をついた。首まで振っている。その肩で聖天経文が揺れる。
「…………」
 三蔵は居心地が悪かった。実家に帰った長男の気分だ。
「お、お師匠様」
「それで、こっちが10歳のときで」
「うわー可愛いですね」
「でしょう。クマ相手でもひるまなかったんです。ムチャしますよね。ホント意地っ張りですよ」
 延々とやっている。三蔵は本当に頭が痛くなった。
よく考えたら、このふたりはよく似ている。光明と悟能、しゃべり方も表情も似ている。ようするに、俺はこういう人間に弱いらしい。
 改めて認識し、なんとかこのわけのわからない拷問に似た時間に耐えた。
 これは。
 花嫁を連れて実家に帰る花婿が多かれ少なかれ味わう苦しみだ。
どうしようもなかった。三蔵は額に青筋を立てながらも、どうすることもできずに耐えていた。
我慢できずに、マルボロを懐から取り出す。火をつけて横を向いた。どうにも決まりが悪かった。
 そして、
 どのくらいの時間が過ぎただろうか、光明師が、真顔で三蔵にささやいた。
「ちゃんと、稚児灌頂、ヤるんですってね。紅流」
「…………」
「エライですよ。しっかりおやりなさい」
 師匠はふふっと微笑んだ。ふたりを祝福するような笑顔だ。
「私も年をとるはずですよねーなんて」
 昔と何も変わっていないのに、光明がまたトボけたことを呟く。
「おめでとう三蔵」
 師匠の心からの祝福に、三蔵はとっさに返事ができなかった。
「……ありがとうございます」
 一拍置いて、ようやく礼を言った。とにかく、恥ずかしく、困惑していた。自分の見ている夢とはいえ、そう、夢という自覚があるのに、細かいところがリアル過ぎてときおり夢か現か分からなくなる。
 突然、光明が自分の両手をあわせて言った。
「あ、そうそう。今日、表の門前でお祭りの市が立ってるんですよ。是非そちらからお帰りなさい」
 騒がしいのは嫌いな三蔵が片眉をつりあげる。
 それを見て、分かってませんね。といいたげな表情で光明がため息をついた。
「悟能さんはあんなにまだ、お若いんですよ。お祭りとか喜ぶでしょうに」
 幼いとか子供とか言わずに「お若い」と言ってあげているあたり、光明のせめてもの仁義、気づかいであろう。
「祭りだなんて、人が多すぎますよ」
 三蔵がぶっきらぼうに言った。
「デートですよ。デート。まったくこのコったら本当にジジむさいんですから」
 三蔵は、吸っていたマルボロを咳き込んだ。
 アナタ、デートしたことあります? 悟能さんと。ないでしょ。どうせ、アナタのことだからヤってるだけなんでしょ。ホントにあきれた。嫌われますよ。そのうち。デートくらい連れていきなさいな。
立て続けにそんな意味の言葉を師匠から言われて、三蔵が蒼白になる。
 もちろん、純粋で幼い悟能には分からないような小声でささやかれ続けていた。
鬼畜坊主といえど、これには顔がひきつった。
 そんな三蔵を見て、実に楽しげに、光明は笑った。笑いに笑われる。師の着ている白い、純白の三蔵法師の装束がまぶしい。悟能の頭を優しくなで続けている。悟能は牡丹餅に夢中だ。確かにまだまだ子供だった。おとな同士の会話が良くわかっていない。
「今日は会いに来てくれて、ありがとう。紅流」
 突然、真面目な顔になって光明から告げられた。
「……お師匠さ……」
「本当に、よかったですね。こういうしっかりしたコなら、私も安心して」
 その後の言葉は、かき消すように聞こえなくなった。
 私も安心して、
―――――あの世に、

「お師匠様!」
 三蔵は目を覚ました。

 なんたって、仏の仲立ちで二世をも契るんですからね。大事になさい。紅流――――――

 ひどく、リアルな夢だった。

 まるで現実のような夢だった。

 手に、何かを握っている感覚があった。硬い石の手触り、水晶の数珠だ。取り落としそうになって慌ててつかみなおす。
 はっと気がつけば、眼前に金のおりん、独鈷などの仏具が並んでいるのが目に入る。経を読む合間に、気絶するようにして眠っていたらしい。しかし、そんなに時間が経っているとも思えない。きちんと座って 
――――結跏趺坐を崩してもいない。時間にして2、3分というところか。うつらうつらしていた程度なのだろう。
 しかし、あの夢は。
 最近の三蔵は斎戒沐浴して精進して経ばかり読み、行に入っていた。その清浄な気配に、あの世にいる光明師匠も近寄りやすかったのかもしれない。
 師は、悟能を見に来たのだ。そうとしか思えない夢だった。
三蔵は気を取り直したように、大般若経の続きを唱え始めた。実に不思議な出来事だった。




  「三蔵×悟能(14)」に続く