砂上の蜃気楼 58番外続編 (2)

 小さなオアシスのことで、酒場を見つけるのは苦労しなかった。そのうちの一軒がいかにも華やかで悟浄好みの店なのを見てとると、八戒は店の扉を押して中へと入った。
 意外と中は広く、出入り口はホールになっており、たくさんのテーブル席がひしめきあっている。 テーブルの上にはランプがゆらゆらと炎を揺らして影をつくっていた。客の入りはいいと見え、大勢の旅人たちが羽を伸ばしている。
 アルコールの匂いが店中を漂い、紫煙が香る。トランプのカードを切る軽快な音がそこかしこのテーブルで響き、人々の談笑する声が耳に届く。
「いらっしゃいませ」
 新顔の八戒へにこやかにウェイターは声をかけ、席へ案内しようとした。
「いや、僕は」
 ひとを探していて、と続けようとしたが、目の前にあるテーブルを指し示された。木製の頑丈そうなしつらえのものだ。
「どうぞ」
 八戒はなんとなく勧められるがままに座った。何か注文してから悟浄を探しても遅くないと思ったのだ。このオアシスにある酒場の数はどうせニ、三というところだったから、当てが外れても余裕がある。急ぐことはないだろう。
「何になさいますか」
立て続けに言われて、何となく面食らった。メニューを渡されてもいない。酒ならなんでもいってくれというわけだろう。
 八戒はちらりと店の奥へと目を向けた。確かにテーブル席の向こうにはカウンターがあり、そこには数限りない酒の瓶がずらりとならんでいる。壁一面に瓶詰めにされた琥珀色の液体が暗い照明の下で輝いていた。
「それじゃ何か――――軽いものを――――」
「ターキーの水割りなんて、如何でしょう」
「それじゃそれを」
 どうせ、何を飲んでもザルだのうわばみだの言われる八戒だった。なんでもいいやとばかりに相手に勧められるがまま頼んだ。実際、酒が好きかと言われると首を捻ってしまう。悟浄など、実に旨そうに酒を飲むが、八戒にはあまりそうした嗜好がない。
 席について、周囲を見渡した。印象的で目立つ緋色の髪はテーブルにひしめく人々の間にはない。
「どうぞ」
 人の群れへ目を凝らす八戒の前に氷の入ったグラスが置かれる。気もそぞろといった様子で八戒はそれを口元へと運んだ。
――――悟浄がいるのは、ここじゃないんでしょうか。
 そんなことを考え始め、グラスを勢いよく傾けた。悟浄がいないのなら、さっさと飲んで次へ行かなくてはと思った。

 そんなときだった。

「あっれぇ。すっげぇ美人」
「ほんとうだ」
 耳障りな声が周囲から立った。最初、八戒はそれが自分を評してのことだと気がつかなかった。
 美人? 女性はまぁそれなりにいるが、そんな若い妙齢の女性などこの時間にいるだろうかと頭の片隅でちらりと思っていた。
 しかし、
 目の前に、うさんくさい大男がふたり立ち、にやにやと顔を覗き込んでくるのを認め、ようやく自分に対して言われた言葉だということに気がついた。
 不快そうに、八戒は顔を顰めた。気分が悪かった。
「どーしたの。こんなトコにひとりで」
「さみしそうじゃん」
 馴れ馴れしく男達は近づき、テーブルの空いている席に座った。
「ひとり酒――――? 」
「相手しよっか。綺麗な顔したお兄さん」
 にやにやと下卑た様子で笑い、絡みだした。
 八戒は返事もせずに、グラスの中の酒を飲み干した。長居は無用に思えた。次の店を探そうと席を立った。
「おっやぁ? つれないねー」
「なんだよ、無視かよ。いい度胸してんな」
 相手は酔ってでもいるのか、強引に手首をつかんできた。
「放して下さい。ケガしますよ。貴方達が」
 冷たい口調で告げると邪険に手を払おうとした。もの憂げな表情を浮かべていた美形の豹変ぶりに、男達は少々面食らって口笛を吹いた。
「お。結構、キツイねぇ」
「冷たいじゃん。美人さん。仲良くしようよ」
 しつこく未練げな口調でまとわりついてくる。絶対に八戒を逃がすつもりはなさそうだった。
「止めて下さい。何を考えてるんですか」
 翡翠色の瞳で眼前のふたりを睨む。
「またまたァ」
「あんた、だって――――」
 にやにやと下卑た笑いが相手の顔に浮かんだ。
「――――シタいんだろ? 」
 思わせぶりな口調に八戒の眉間に皺が寄る。相手が何を言っているのか理解できなかった。
「男、探してんだろ? ヤリたいんだろうが」
 突然、とんでもないセリフを言われて、八戒は目を剥いた。
「な……」
「顔に書いてあるぜ、美人さん」
 にやにやと下品な笑いを止めずに男達は八戒の左右へ立ちふさがった。
「シタくてシタくてたまりません――――アンタ、顔にそう書いてあんじゃねぇか。とぼけんなよ」
 男達はぬけぬけと言った。まるで八戒の内心の悶えを読んだような言葉だった。
「そうそう」
「綺麗だけど 『プロ』 じゃねぇよな、アンタ――――イケナイなぁ。こんなトコで男漁りなんかしてちゃ。危ないよぅ。悪いのが寄ってきちゃうよん」
「…………」
 この連中が何を言っているのか、分からない。いや、理解したくなかった。八戒は思わず、後ずさった。
「おっと逃げるなよ。分かるんだよ。店ン中あんな悩ましい目つきで見渡しちゃってさ」
「そうそう。悩ましいっていうかどっちかっていうと 『もの欲しそう』 だったけどよ」
「ご期待に応えてあげようじゃないの」
 酒臭い息がかかった。思わず殴ってやろうかと八戒の拳に力がこもった。
「いいじゃん。アンタも嫌いじゃねぇんだろ? 」
「アッチにさ。そういう部屋あっから、な、お互い楽しもうぜ。たっぷり抱いてやるよ」
 不意に、決して感じてはいけないなにかが、八戒の背筋を走り抜けた。
 それは、
 このまま、部屋にひとりで戻るよりは、この下衆な連中の言葉どおりにした方がいいのかもしれない。
 そんな思いが唐突に湧いたのだった。
 それは、背徳的で薄汚れた考えだった。しかし。
――――三蔵に蔑まれ、悟浄にこんなことを打ち明けるよりは――――
 一瞬、八戒は考えた。この身に巣食うおぞましい欲望を、こうやって旅空の下、とおりすがりの男相手に密かに解消する方が、周囲の仲間たちを煩わせるよりよっぽどマシなのではないか。
 基本的に聖人君子な三蔵や、女の子が大好きだと豪語する悟浄を困らせるなんて、とんでもないと思った。まして、純朴な悟空に縋るなんてことも想像できなかった。あの純粋な金色の目に浮かぶ驚きと軽蔑の光りを見たくはなかった。

 見知らぬ、後腐れのない男相手に身を任せた方が、よっぽどいい。

 それは、ぞっとするような汚れた考えだったが、一瞬、八戒はそんな歪んだ想念にとらわれた。
 そのためだろう、八戒の躰からたちまち力が抜けた。黒髪の美人さんの雰囲気が微妙に変わった。男達は舌なめずりするように言った。
「おっとソノ気になった? 可愛がってやるよ」
「こりゃいい。魚心ありゃ水心ってんだ。酒の勘定ならすませてやるから一緒に―――――」
 男達が左右から薄汚い腕を伸ばし、八戒の肩を抱こうとしたとき、
「てめぇらだけで帰んな。酒の勘定の方はまかせたけどよ」
 低く色気のある男性的な声が背後からした。振り向けば、緋色の肩までかかる長い髪をした若い男が立っている。
 艶っぽいがそれ以上に精悍な印象の横顔、その頬を走る傷。立ってるだけで絵になる水際だった男ぶり。
「悟浄! 」
 八戒は驚いた。
「なんだてめぇ」
 すかさず、男達が打ち込んでくる拳をかわして悟浄はにやりと笑った。
「まぁったく。アンタらこそ、なんなワケ? 俺に断りなしに俺のダチ口説いてんじゃねぇよバァカ」
 言うが早いか、彼は隣のテーブルに置かれていた酒瓶をつかみ、手首を返して相手の腹へと叩き込んだ。
「がッ! 」
 鮮やかで喧嘩慣れした手並みは、ほとんど手品のようだった。大男たちは反動でふきとび、左右のテーブルを派手にひっくりかえして転がった。
 テーブルの上の酒瓶もグラスも転がり落ちて床で割れ、大きな音を立てる。突然の出来事に周囲で悲鳴が起きた。
「やべ。今日、稼いだってのに。揉めたくねーわ」
 悟浄は舌を出した。こんなところで賭博での儲けを壊したモノの弁償代にしたくはなかった。
「ずらかっぞ。八戒! 」
 悟浄は叫び、親友の腕をつかむと店の外へと走り出た。





 「砂上の蜃気楼58番外編(3)」に続く