砂上の蜃気楼 58番外続編 (1)

 注:こちらは連載完結した「砂上の蜃気楼」の番外的な58続編になります。本編「砂上の蜃気楼」をご覧になってからの閲覧をお勧めします。また始まりの部分は38ver.と一緒です。








 眠れない。


 最高僧の整った寝顔をこっそり盗み見ながら、八戒はため息をついた。


 躰がおかしい。なんだか、もう。
「ふっ……」
 滲む汗を紛らわせるようにシャワーを浴びたりいろいろしてみたが駄目だった。
「う……」
 躰の奥から淫らな感覚がじわじわと染み出てきてたまらない。洗っても洗っても洗い流せない。苦しかった。
「ん……」
 同室の三蔵に分からないように、並んだベッドの上で背を向けた。シーツにくるまり、硬くなってしまった自分のそれへと手を伸ばす。
「あ……」
 声を出さないように気をつけながら、上下に扱く。途端に湧き上がる快感に腰奥が悦びで震えた。
「は……」
 眩暈のする快美感に酔う。
しかし、
「ああ……」
 とても満足なんかできない。できるわけがなかった。自分の指などではどうにもならない激しい肉欲に圧倒される。
 ひたすらシーツに身をくるみ、一睡もできないまま朝を迎えた。







 烏哭が造った妖しい城から戻ってきてから一週間ほど経ったが、八戒の様子は以前と同じに見えた。
 少なくとも 「八戒」 は 「八戒」 だった。弱り、やつれてはいたが、黒髪碧眼の毒舌美人さんは健在だった。


 一見、本当にそう見えた。








「よ、ぐあいどお? 」
 紅い髪の長身の男が八戒の泊まっている部屋に顔を出す。腕に見舞いの品の入った紙袋を抱えている。ちょうど、三蔵はタバコを買いに出ていて留守だった。
「悟浄」 
 八戒はベッドに寝てはいたが、調子はよいと見えて上体を起こし、本を手にしていた。
「たいしたこと、ないんです」
 やや血色の失せた顔に手をやっている。窓の外の光りでも眩しいのだろうか。手で影を作るようにして、悟浄へ微笑んだ。
「ま、でもまだまだ本調子ってカンジじゃねーよな」
 悟浄はフンフンと鼻歌を歌いながら紙袋の中から果物を取り出した。小さなメロンにナッツ類……。リンゴを取り出してかぶりつくと、悟浄はもうひとつを八戒に手渡した。
「はい」
 手と手が一瞬触れ合って、八戒は手を引っ込めそうになった。この手の感触を八戒は確かに覚えていたのだ。
 そして、
――――それがどんな風に自分の全身を這いまわったかも。
 しかし、悟浄がそんな八戒の内心の動揺に気がつくはずはない。
「それとも、やっぱ皮、剥こーか」
 にっと笑う表情には邪気というものがなかった。「悟浄」は「悟浄」で以前と変わるわけはなかった。あの城にいたのは妖しい幻とでもいうしかない、八戒だけが覚えている 「もうひとりの悟浄」 だった。
「ナニ。そんな顔しちゃって。やっぱ調子悪いんだ? 」
 悟浄は労わるように八戒の額に手を伸ばした。
「……! 」
 ぞくぞくした感覚が触れた指から伝わってくる。この男っぽい指に八戒は翻弄され、何度も奥を穿たれ、もてあそばれて達してしまっていたのだ。
 悟浄が手を差し伸べてくると舌を伸ばしてその甲を舐めまわしたくなる。あの悟浄とこの悟浄は別人だと承知していても肉の快美を覚え込まされた躰は聞き分けが無かった。
「駄目……です悟浄ッ」
思わず、差し伸ばされた手を振り払った。
「へ? 」
 振り払われた悟浄は目を白黒させた。しかしそんな時でも、彼は精悍で相変わらず颯爽としていた。包容力のある男特有の優しさともいうべきものがそのまとう空気に漂っている。
「あ、ああ。悪ィ。調子悪ィときに触られたかねーよな。悪かった」
傷のある頬に屈託のない笑みを浮かべている。

優しい。

相変わらずこの男は優しかった。

 八戒の不可解な行動も、烏哭にひどい目にあったせいで気が立っているのだろうとか、まだ体調が悪いので余裕がないのだろうと理解していた。特に気を悪くした風でもない。
「やっぱ、ひとりで寝てたほーがよさそーだなオマエ」
 負けず嫌いな親友が、みっともないところを見せたくないのだろうと思ったらしい。
 とはいえ、八戒はみっともないところを幾らでも、そもそも悟浄には出会ったときからさらしてしまっている。
 血まみれで地べたに転がっていた八戒を救ってくれたのは、この緋色の髪をした男なのだ。かつて半身であった女のために犯した罪も、なにかも許して黙って傍にいてくれる。
 そんな悟浄の度量の深さに確かに八戒は救われていた。実際、この男がいなかったら、八戒はどうなっていたのだろうか。
「悟浄」
 絞るような声を八戒は出した。この男になら言ってしまってもいいのかもしれない。自分が城でどんな目にあっていたのか。そして、今どんな状態にあってどんな風に苦しみ、
――――救って欲しいのか。
「僕……僕は――――」
 悟浄なら、逃げはしまい。軽蔑されてもいい。でも、見捨てはしないだろう。それどころか、こうした色事に慣れた彼なら、何か解決策を知っているのかもしれない。
 苦しげに八戒が言葉を紡ごうとしたとき、部屋のドアが無造作に開いた。
「なんだてめぇら」
 三蔵がタバコを口に咥えて入ってきた。ベッドに横になったままの八戒と、その傍らに立ち、顔を覗き込んでいる紅い髪の男前を嫌そうな目つきで睨みつけた。
 悟浄と八戒はいかにも親密そうな様子だった。
 部屋の空気に独特の気配が流れている。会話をせずとも許しあう雰囲気とでもいおうか。一緒に暮らしていただけあって、悟浄と八戒には言葉がなくとも通じ合う何かがあったのだ。
 八戒は何か個人的な秘め事でも相談しようと悟浄だけにそっと囁くように顔を向けているようにみえた。緋色の髪をした相手は親友の様子をさりげなく気遣うようにして注意深く耳を傾けていた。三蔵が部屋に戻ってきたのは、そんなときだった。
「邪魔したみてぇだな」
 三蔵は愛想のない声でぼそりと告げると窓際に設えられている小さな丸テーブルに新聞を無造作に置いた。椅子を乱暴に引き寄せて腰掛けると咥えタバコで読み出した。
 部屋から出て行こうとはしないのが、この男らしかった。
 俺の部屋なのに、なんでこの俺が出て行かなきゃならないのか。むしろ、てめぇらが出て行け。――――態度から察するに、彼の心中はそんなところだろう。
 どこかぴりぴりとしたものを漂わせながら新聞を読み出した三蔵を横目に悟浄は囁いた。
「――――俺、とりあえず行くわ。でも」
 紅い瞳が真摯に光る。
「辛いコトあったら、言えよ。ガマンすんなよな」
 くしゃ、と音を立てて八戒の黒髪を撫でた。そして、最高僧の方へ言葉をかける。
「じゃ、悪ィな。――――こっちこそ邪魔したな」
「ああ」
 河童の言葉を否定もせずに三蔵は受け流すと、ちらりと視線を向けた。
 真っ向から、悟浄は三蔵の強い視線を受け止めた。何故かひどく挑戦的だった。友好的とはとてもいえなかった。
 なんとも言えない空気が漂ったが、それがなんなのかは複雑すぎて当人達にも説明することもできないくらいだった。
 そのときは、それで終わった。悟浄は黙って部屋から出て行った。







 昼が過ぎて、夜になった。
 やはり、八戒はベッドで煩悶していた。身を捻って眠れない躰をもてあます。
 傍らで三蔵は寝ている。八戒に背を向け、安らかな寝息を立てている――――ようにみえる。
 八戒はため息をついた。収まらない自分の熱に苦笑する。よほどひどい媚薬を使われ続けていたらしい。

 冷たいシャワーでも浴びて頭を冷やしたい。そう思ってよろよろと起ち上がった。
 凄惨な陵辱を受けつづけた躰はひどく消耗していたが、あまり八戒に自覚はない。香炉からの妖しいクスリでずっと感覚を麻痺させられ続けてきたのだ。まだ、八戒の躰に巣食う毒は抜けきっていなかった。
 立ち上がり、浴室へ行こうとスリッパを履く。ドアの方へ自然に目が向き、悟浄のことを思い出した。
――――彼はこんな夜はどうしているのだろう。




――――いけない。

本能的にそう思った。




 そんなことを考えてはいけない。どうして、こんな夜に悟浄のことが気になるのか。
 でも。
 話をするくらいなら許されるのではないか。話をすれば自分のこの忌まわしい熱も紛れるのではないか。
 そう、悟浄なら。
 そんな風に考え自己を正当化すると、八戒はすばやく服を着た。そして、悟浄と悟空の部屋へ行くことにしたのだった。
 暗い廊下へ出て、隣室のドアの前へ立った。
「悟空、悟浄」
 そっとノックをしてみる。もう寝てしまったのだろうかと恐る恐る声をかけた。
「悟―――」
 なおも、ためらいがちに声を出すと、内側からドアが開いた。
「あっれ? 八戒? 」
 悟空が眠そうにまぶたを擦って立っている。黄色い星の柄が入った可愛いパジャマ姿だ。
「どーしたの。こんな夜に」
 いかにも今まで寝ていたといった風情の悟空の様子に八戒は慌てた。
「ああ。すいません。起こしてしまいましたか」
「や。トイレで起きたトコだったから。それよりどーしたの八戒ってば」
 確かに、悟空が本当に寝入っていたのなら、あのようなノックの音くらいで起きるはずがなかった。
「悟浄は……どうしたかな……なんて」
 思わず漏らしてしまった自分の言葉に八戒は赤面した。なんて自分は薄汚いのだろうと唇を歪める。でも、今はともかく縋るように悟浄を求めていた。
「あー? 悟浄なら外に行ったよー。なんかね。このオアシス、いい酒場があるとかいっちゃって、もー夜になると出かけてんだよ。しょーがねーよな! 」
悟空の言葉を聞いて、八戒は肯き、ドアを閉めた。

 酒場。

 酒場に行けば悟浄がいる。

 昼間、彼が見せた優しい様子が脳裏に閃いて消えた。


 たぶん、悟浄は生業である賭博にでも今頃励んでいることだろう。
「邪魔はよくありませんよね」
 そう思いつつ、足がどうしても外へと向いてしまうのを止められなかった。






 「砂上の蜃気楼58番外編(2)」に続く