「八戒がいないって? 」
悟浄の大声が部屋に響く。
「ああ」
散々ひとりで探し回ったのだろう、三蔵がめずらしく疲れを滲ませた声で返事をした。
「……どこかに出かけてんじゃねぇの? 買い物とかさ」
「それはない」
三蔵はやたらきっぱりと否定した。
「アイツが俺の断りもなく勝手にどこかに行くなんてことはありえない」
「へえへえ」
悟浄は、こんなときにまで自信たっぷりな三蔵サマに辟易しながら、言葉を受け流した。
「でも、最近アンタら上手くいってなかったみた……とと」
きつい光りを放つ、紫水晶みたいな瞳でにらまれ、悟浄が両手をあげて降参する。
「わーった。分かりました。俺、ちょっと外探してくるわ」
恐らく、八戒の行きそうな店でも覗いて回る気なのだろう。八戒と親しい悟浄にはあてがあった。
そんな悟浄の 「八戒のことはなんでも知ってる」 という態度は、三蔵のイライラを増幅させるものだったが、河童に悪気などなかった。
なんとなく、白けた空気が漂ったそのとき、
「さんぞ! 」
慌しい足音とともに悟空が勢い良く駆け込んできた。肩で息をしている。
「やっぱし、宿にはいないみたい。誰も見てないって! 」
やっぱりなという顔でその報告を聞き、三蔵が眉間に皺を寄せる。
「俺! ジープと一緒に探してくる! 」
「俺は、バザールの店中心に探してくっわ」
「ああ」
そんなこんなで、三蔵たちは手分けして煙のように消え失せた八戒の行方を探していた。
八戒は額へ手をあてた。いつもと変わらぬバンダナの布地が指に触れる。
(なんだか、頭がクラクラする)
どこからか、匂ってくる。妖しい麻薬みたいな。麝香(ムスク)に似た香り。
結局、昨夜はそのまま紅い絨毯を敷き詰められた部屋に放置された。着替えも与えられなかった。
さすがに一晩たてば、先に使われた薬は抜けたとは思うが、香炉から立ち上る妖しい煙を吸うともとの木阿弥だった。躰が痺れたようになりとろんと蕩けてしまう。
華麗な部屋の壁には、周到に鉄鎖を繋ぐための金具が埋め込まれており、八戒は両手こそ解かれたものの、相変わらず足首には鉄の拘束具で獣のように鎖に繋がれていた。
「お目覚め? 子猫ちゃん」
淫猥に歪む口元と、無造作に整えられた黒髪。昨日、八戒を誘拐した当人が銀の鉢を手に、天井からかかっている薄絹をまくって部屋へ入ってくる。
この宮殿にはドアらしいドアはない。部屋と部屋は、アーチ型の潜り戸や薄絹の天幕だけで分けられている。如何にもおおらかな西アジア風のつくりだ。
「朝ご飯」
憎々しげな八戒の視線に動じることもなく、彼は落ち着き払った手つきで絨毯の上に銀の鉢を置いた。サフランで金色に染められた米飯や、ほろほろ鳥を焼いた肉などが入っている。
「こっちは水」
少しこぶりな器を、続けて目の前に置いた。
「どうぞ召し上がれ」
にやりと笑われる。
召し上がれと言われても、箸もナイフもフォークもない。手づかみで食べろとでもいっているのかと八戒が不快な表情を浮かべた。
「やだなぁ。怖い顔しちゃって」
相手は相変わらずにやにやと笑っている。八戒が改めてよく見ると、端正な眼鏡をかけていた。ふざけた口調だが、その顔立ちは悪くない。いや、その淫猥な表情をやめれば、知的な風貌に違いない。
「…………」
もう、どうあっても知らぬとばかりに八戒は水の鉢へと手を伸ばしてひとくち啜った。次にご飯の入った鉢へ手を伸ばす。
眼前の男から冷たい声がかかった。
「ナニ、お行儀の悪い飲み方してるの? 」
手元の鉢を乱暴な手つきで払われた。鉢が転がる。中身が豪奢な絨毯の上へこぼれ落ちた。
「手なんか使って」
八戒は今度こそ怪訝な顔をした。相手が一体何を言っているのか何を求めているのか、まったく理解できなかった。
果たして告げられた言葉はひどいものだった。
「……猫は、手なんか使わないでショ」
「! 」
後ろ髪をわしづかみにされて、絨毯に無理やり顔を押し付けられる。足の鎖が激しい音を立てて鳴った。
「猫は、こうやって食べるモンだよ。ホラ」
落ちているご飯を食べるように強要された。ものすごい力で顔をご飯で汚れた絨毯へと押さえつけられる。
「……!」
「ホラ、早く舌を伸ばして。早く食べなよ」
「ぐ……っ」
「躾の悪いコだね。ホラ」
口を無理やり開かせられて、強引に食べさせられた。
「食べるんだよ。いいコだ」
「う……ぐ」
屈辱的な朝食だった。次は銀の鉢へ直接顔を突っ込んで猫のように食べることを求められた。
「ホラ、飼い主の言うことがきけないの? 」
「ふざけ……な」
八戒はがんとして口を開かなかった。頬や唇がサフランや米粒で汚れる。
「強情だなぁ。この先が思いやられるよ。……いや」
眼鏡の奥の目が淫猥に細められる。
「そのくらいじゃないと、ツマンナイけどね」
八戒を押さえつけながら、心底愉しげに笑った。サディステックな笑い声が、壮麗な部屋の中に響く。華麗で細密な刺繍の施された絨毯の上に散らばる残飯、こぼれた水の染み。華やかで陰惨で無残だった。
「次はお着替えかな。まずその無粋な服を着替えなくちゃね」
手を叩くと、即座に僕(しもべ)が現われる。
「お風呂だよ。子猫ちゃん。キミ、汚れちゃったしね」
「砂上の蜃気楼(4)」に続く