砂上の蜃気楼(2)

 日差しが刺すように強い。凶暴な日光が降りそそぎ、あたり一面を焼き尽くすようだ。

 八戒が目を覚ましたのは車の中だった。頭が痛い、激しい光に目を細める。日よけの薄い更紗をかけられて転がされているのに気がづいた。
「……な」

 一体、自分はどこにいるのか。

 現状をにわかに把握できなくて、八戒が目をみはる。
(ここは)
 三蔵も悟空も悟浄もいない。車もジープではない。全く別の車だ。
 風を切るようにして、砂漠を飛ばしているらしい。岩の多い悪路だというのに大した速度だった。
「起きたのか。昼までは寝るクスリの量だったのに」
 運転席からしわがれた低い声がした。
「結構、しぶといねぇ。子猫ちゃん。いや、子犬ちゃんかな」
 助手席からもふざけた言葉をかけられる。軽薄そうな男の声だ。
「! 」
 八戒が思わず身じろぎをすると、じゃりんと手の鎖が鳴った。眠らされている間に、両手両足首に鉄の輪が嵌められ家畜のように鎖で繋がれていた。
「……何ッ」
 驚いて両手首を解こうとひっぱっても、無駄だった。鉄のブレスレットのような拘束具が嵌まりびくともしない。
 そのまま立ち上がろうとした。無理だった。相当強い薬を使われているらしく、意識は保てるが躰が少しも動かなかった。
「おっと、おとなしくしてた方がいいよ。もうすぐ着くから」
 助手席の黒づくめの人物はにやりと笑ったようだった。
「お前……は」
 無理に動こうとすると眩暈がした。周囲の光景はいつの間にか石灰岩質の砂が大勢を占める白い砂漠に変わってゆく。美しく幻想的な砂漠だ。
 彼方で水晶でできた岩山が鋭く光り、宝石のように煌めく。この世の果てかと思わせる砂漠を走っている。
 この世のものとも思えぬような奇景。
 非日常的な眺めだ。
 八戒は混乱していた。手足を縛られ拘束されているので、震動で好き勝手に躰が揺さぶられる。気分は最悪だった。
(三蔵、悟浄、悟空)
 どうして、自分がひとりこんなところにいるのか。
 昨日、宿で眠ってからの記憶というものがなかった。
 食堂で聞いた不吉な占い。開いていた宿の部屋の鍵。
 何故。
(貴方は砂漠のどこかで自分を失うだろう)
 不気味な予言の言葉が甦る。
 悪い夢の続きではないかと混乱する八戒に、助手席の男が言った。
「ほら、着いた」
 つられるようにして前方を見た。
 するとそこに。
 壮麗なイスラム風の城が忽然と現われた。白亜の宮殿と呼ぶにふさわしいたたずまいだ。
 屋根に貼られたイズミックタイルの青が砂漠の強い光りを反射して光る。花崗岩でできた白壁が燦然と煌めいている。
 砂漠の果てにある蜃気楼のごとく幻想的な建物だった。





 それは、華麗な城だった。華麗と評するしかないほどに華麗だ。例えるなら、蜃気楼の死の幻に似ている。美しい城だと思って旅人が狂喜し、疲れた躰を引きずってそこに行くと、泡沫のように消え失せてしまう。そんな阿片の夢の城だ。
 意匠はすべてイスラム式で、幾何学模様が幾重にもその壁を、門を飾っている。その壮麗さに八戒も思わずみとれた。
 建物の佇まいには重厚さと趣味のよさがあった。もし立てようとするならば、大領主が一代を潰す覚悟で普請しなければ建つまい。そう思わせるほどに、緻密なつくりだった。
 贅沢な青いタイルは七宝づくりで砂漠の光りを跳ね返し、七色の光輝を放って唐草模様のデザインが壁全体を飾っている。細工は執拗なまでに精緻を極めていた。





 八戒は車から抱えるようにして降ろされた。黒衣の男が、クスリで動けない八戒の腕をとらえて担ぐ。
 輝くような白い敷石を踏み、道を何度か曲って、第一の大門を入り、第二の門を潜(くぐ)り、中庭へと出た。
(なんだろう。この匂い)
 既に城の門を潜ったときに気になってはいたが、妖しい匂いが鼻をついた。形而下に訴えてくる淫らで挑発的な香りだった。
 八戒は危機的なものを感じ、無駄とは思いつつその口元を更紗で覆った。境界が歪むようなくらくらした感覚が走り抜けたが、何故なのかよくわからない。ともかく躰に力が入らなかった。香りの他にも、抵抗を奪う小細工が施されているに違いない。
 中庭には泉が湧き、砂漠の光線を遮る椰子(やし)が生えていた。水は川となって流れ、側溝へと注ぎ込む。
 八戒を担いだ男は、中庭を横切ると邸(やしき)の石段を上り、ずかずかと薄絹を張られた内部へと上がりこんだ。
 中も外見に負けず、豪奢を極めていた。波斯(ペルシャ)渡りの紅い絨毯が床という床を埋め尽くし、四隅には香炉が置かれ、芳しいが淫らな香りを燻らせていた。
 絨毯の上には、何の戯れか紅い薔薇の花びらがところどころ散っている。芸術的な織りの絨毯と薔薇のとりあわせは、華美すぎて倒錯的ですらあった。
そんな華麗な部屋の床に、八戒はそっと横たえられた。
 八戒は着のみ着たままだった。いつもお馴染み、襟の立った中華風の服だった。豪奢な血のように紅い絨毯と翡翠に似た八戒。彼に誂えたようにぴったりの道具立てだった。
 その出来栄えに満足し、男は相好を崩すと耳元で囁いた。
「キミは今日からここに住むんだ。――――ボクとね」
 何が楽しいのか、くっくっと愉快そうに相手は笑った。
「あ、住むっていうのは正確じゃなかったかな」
 八戒のおとがいを捕らえ優しく、しかし絶対的な調子で言った。
「ボクがキミを――――これからココで飼ってあげるよ。黒髪の子猫ちゃん」
 淫らとも、酷薄とも表現しがたい目つきで見下ろし、八戒の足首に太い鎖が繋がった鉄の輪を嵌めた。
「――――当分、ボクがキミの飼い主だよ。三蔵のことなんか忘れちゃいなよ」
「…………! 」
 薬で痺れて動かない躰でもがきながら、八戒がその翡翠色の目を大きく見開いた。よくは分からぬが、相手が碌でもないことを企んでいるのだけは本能的に分かった。
 野ウサギが鷹を見て本能的に恐怖を感じるように、八戒は確かに身の危険を感じていた。
「あ、逃げようったって、無駄だよ」
 淫猥に微笑み、八戒の耳を淫らな仕草で噛みながら囁いた。
「だって、ここはボクの城だから」
 瞬間。
 世界は暗く、反転した。






 「砂上の蜃気楼(3)」に続く